ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

京洛逍遥

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寺は壺阪 笠置 法輪 霊山は釈迦佛の御すみかなるがあはれなるなり (清少納言「枕草子」194段)


10月の中頃気候がいいので、紅葉には1か月ほど早いが、京都嵯峨に行った。

馴染みの社寺(既投稿と重複するので省略)を巡り、最後に渡月橋を渡り、嵐山中腹にある法輪寺に行っ

た。

渡月橋辺りまでは観光客の姿が多くみられたが、法輪寺辺りとなると意外に足を運ぶ人は少なかった。


法輪寺は、和銅6年(713)元明天皇の勅願により、行基が創建した。

天長6年(829)弘法大師空海の弟子・道昌が中興して、虚空蔵菩薩を安置した。

貞観10年(868)葛井寺から法輪寺に改め、貞観16年(879)には伽藍が整えられた。

平安時代には清少納言の「枕草子」の寺の段において、代表的な寺院として挙げられるなど、多数の参詣

者で隆盛した。

その霊験は、平安末の説話集の中に、法輪寺の本尊・虚空蔵菩薩が女人に化身して、色欲を方便に使い、

若い僧の修業を成就させた話(「今昔物語」巻第17 第33比叡山僧依虚空蔵助得語)が載るほどだ。

その後、応仁の乱や蛤御門の兵火(元治元年 1864)を受けたが、その都度再興している。

本尊・虚空蔵菩薩は、「嵯峨の虚空蔵さん」として親しまれ、智恵と福徳を授かるため数え13歳の男子、

女子、が訪れる(十三まいり)。



イメージ 1

                                 一ノ井堰
丸いお椀をかぶせたような山は和歌などで馴染みの小倉山、手前の大堰川の水面にはボートや屋形船が多く浮かんでいた。
一ノ井堰(洛西用水)は大堰川(桂川)の水を田畑に送るため、古くは5世紀末にもうけられたという農業施設で、嵐山の水面の風景をつくる礎ともなっている。
一ノ井堰から流れていく洛西用水は下流で枝分かれし、今も地域の田畑を潤し続け京野菜や稲を育んでいる。



イメージ 2 法輪寺山門
大正3年(1914)再建
山門は嵐山の麓に位置する。
法輪寺は山号を智福山と号する真言宗五智教団の京都本山




イメージ 3 電電搭
山門を潜って右手にあった。
境内に電気電波の祖・電電宮を祀っている関係で建立された。
エジソン(右)、ヘルツ(左)の胸額を壁面に飾り、その功を顕彰すると共に電気電波の発展隆昌に貢献した先覚者の霊を慰める。




イメージ 4 本 堂
明治17年(1884)再建
本尊:虚空蔵菩薩
脇侍:持国天、毘沙門天
嵐山の中腹に位置する。




イメージ 5 多宝塔
昭和11年(1936)再建
銅板葺 高さ17.4m
本堂より小高い位置に建つ。



イメージ 6 未 像
本堂前の境内端にあった。



イメージ 7 うるし碑
昭和63年(1988)11月13日漆業関係者が建碑
文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(844〜897)が当寺を参篭され、虚空蔵菩薩より、うるしの製法と技法を伝授され、それを国内に広めた。
その参篭の満願の日が11月13日といわれ、漆業関係者は当日を「うるしの日」と定め、毎年漆業の発展を祈願して参詣している。




イメージ 8

                                境内からの眺望
法輪寺本堂は嵐山の中腹に建つ。 その為本堂前の広場からの眺望は素晴らしい。
手前に渡月橋、その先に嵯峨野の街並み、嵯峨野を取り巻く峰々が眺められた。
昨日2月16日京都マラソンが行われた。
 
知人Aもランナーとして参加するので応援に出向いた。
 
マラソンコースは、スタートが西京極競技場で、一条通、きぬかけの路、船岡通、北山通と京都市街北辺の山麓を走り、加茂川を南下し、平安神宮前がゴールであった。
 
参加者は、主催者発表で約1万6千人。
スタート前には陸上競技場だけでなく、隣接する「わかさスタジアム京都」、「補助競技場」にランナーが列を作っていた。
 
9:00にスタートしたのを見届けた後、応援のためコースを先回りした。
 
コースのところどこでは「京都マラソン盛り上げ隊」が応援パホーマンスをしていた。
 
ランナーの位置は、スマートフォンで、ゼッケン番号や氏名を入力すると5kmごとの通過タイムを知ることができる。
 
そこで、先回りした応援場所から応援するランナー容易に見つけ出し、確実に応援できる様になっている。
 
しかし、コースが複雑だったのと、人が多い所為で、応援するAを見落としてしまったこともあった。
 
なお、知人のAは、本人の目標タイムより相当遅れた様だが完走し、平安神宮前のゴールに入るところを確認した。
 
 
イメージ 1
 
補助競技場風景
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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陸上競技場入り口
ボストンマラソン爆発テロの所為であろうか、持ち物検査などがあった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
 
陸上競技場スタート前
9:00スタートだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  イメージ 4
 
京都コンサートホール前の
              盛り上げ隊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5
 
平安神宮前のゴール直前
応援したAは、目標タイムに達しなかったが、完走した。

弁慶 五條の天神に参り、夜とともに祈念しけるは、「今夜の御利生に弁慶によからん太刀を

与へ給へ」と祈誓して、夜更くれは、天神の御前に出でて、南に向いて行きければ、人の家の

築地の際に佇みて、天神への参りの人の中に、よき太刀持ちたる人をぞ待ちかけたる
                        (「義経記」弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事)



西洞院松原の交差点の西南角に五條天神が鎮座していた。

社伝によれば、延暦13年(794)桓武天皇の平安遷都に辺り、大和國宇陀郡から天神(アマツカミ)を勧請したのが

当社の始まりと言われる。

当初は「天使の宮(天使宮)」と称したが、後鳥羽天皇の時代(12世紀末頃)に「五條天神宮」と改めた。

創建時は社域も広く、社殿も広壮であったが、中世以来度々火災に遭い、元治元年(1864)蛤御門の変で、

社殿は焼失し現在の社殿は近時の再建とのこと。

当社は、古来、医薬・禁厭(キンエン)の神として崇敬されている。

ところで、「義経記」で、千本目の太刀を求める弁慶が待ち構えていた「五條の天神」とは、この神社を

指すらしい。



イメージ 1  五条天神社頭
神門の奥に社殿(拝殿、本殿)が建っている。




イメージ 2  社殿
祭神:大己貴命(オオナムチノミコト)
   少彦名命(スクナヒコナノミコト)
   天照大神




イメージ 3  拝殿より本殿

「道元禅師の示寂聖地」の西、西洞院高辻の東北角に菅大臣天満宮が鎮座していた。

この地は、仏光寺通り(高辻通りの一本北の通り)を中心に南北2町、東西1町が菅原道真(845〜903)の白梅

殿という邸や菅家廊下といわれた学問所の址で、「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて 春

なわすれそ」と詠まれた飛梅の地であるそうだ。

神社は道真没後間もなく創立されたが、度々兵火に罹り、鎌倉時代には南北両社に分かれ、天神御所白梅

殿社、北社を紅梅殿社と呼んでいた。

応仁の乱後衰退したが、慶長19年(1614)菅原家ゆかりの曼殊院宮良恕法親王により再興され、今日に至っ

ている。

この間天明の大火、元治の兵乱で再度焼失するが、現本殿は、天保6年(1835)造立の三間社流造という下

鴨神社の本殿を明治2年(1869)移築し、その後幣殿を建立したいわゆる八棟造をなしているとのこと。


イメージ 1  菅大臣天満宮社頭





イメージ 2  社 殿
祭神:菅原道真
   尼神
   大己貴命(オオナムチノミコト)

油小路通りを南に下って行き、高辻通りで左(東)に折れ少し行くと北側に「道元禅師示寂聖地」碑が建っ

ていた。

曹洞宗開祖道元禅師(1200〜1253)はこの地で生涯を閉じた所である。

道元禅師は正治2年(1200)京都で生まれ、建保2年(1214)比叡山で出家、建保5年(1217)建仁寺栄西の弟子・

明全に師事し禅を学んだ。

貞応2年(1223)明全と共に入宋し(明全は2年後没した)、天童山如浄禅師に師事した。

安貞2年(1228)帰朝後建仁寺に入る。

天福元年(1233)深草に興聖寺(後に宇治に移る)を開き教化活動を続ける。

晩年、越前志比庄(シイノショウ)の地頭・波多野義重の招きで越前に移り、寛元2年(1244)永平寺(当初は「大仏寺」と

称し、寛元4年永平寺に改めた)を創建した。

建長5年(1253)病気療養のため上洛し、この地にあった俗弟子・寛念の屋敷に滞在した。

同年8月に54歳の生涯を閉じた。




イメージ 1

                           「道元禅師示寂聖地」碑

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