ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

京洛逍遥

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信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。・・・略・・・これは謀反、

如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱(蘭丸、可成の次男)申す様に、明智が者と見え

申し候へば、是非に及ばずと上意候(太田牛一「信長公記」巻十五)


空也堂近くの集合住宅団地の前(堀川高校の西側)に「本能寺跡」の碑が建っていた。

本能寺は幾度も焼失、移転、再建を繰り返していて、現在は寺町御池にある。

本能寺が世間によく知られるのは、明智光秀が織田信長を襲った「本能寺の変」による。

その時、本能寺があった場所が現在碑が建っている場所ということらしい。

碑には本能寺の来歴が記してあり、それをもとに若干加除して整理すると次の通りである。

本能寺は法華宗本門流の大本山である。

応永22年(1415)日隆上人により油小路高辻と五条坊門の間に創建し「本応寺」と号した。

後に破却されたので、永享元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建

ついで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、

その際「本能寺」と改称された。

天文5年(1536)天文の法乱により焼失

天文14年(1545)四条西院のこの地に移転、大伽藍を再建

天正10年(1582)6月2日「本能寺の変」によって織田信長と共に炎上焼失

天正17年(1589)この地に再建せんとし、上棟式の当日、豊臣秀吉により、鴨川村(現在の寺町御池)移転を

命ぜられ現在地に移転再建

移転先でも江戸時代後期に、天明元治の大火により 堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928)再

建されたもの。




イメージ 1  「本能寺跡」碑
本能寺の「能」の字の左側のヒを重ねた部分が違うことに注意。
本能寺は度々火災を罹ったことから「ヒヒ」と重なるを忌み、碑中の文字の様に書くのが慣わしとのこと。





イメージ 2  現在の本能寺
現在は御池通り南にあり、敷地は比較的広いが、かってはもっと広く、現在の御池通りや京都市役所も境内だった。
幕末の混乱期の老中・堀田正睦は、(条約勅許を得るため)上洛した時ここに滞在した。
2008年11月撮影




イメージ 3  信長公廟
2008年11月撮影
現在の本能寺境内の隅にあった。

信長、初めには御弓を撮り合ひ、二、三つ、遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ

其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是まで御そばに女どもつきそひて

居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追い出させられ、既に御殿に

火を懸け、焼け来たり候

御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を

引き立て、無情に御腹めされ(太田牛一「信長公記」巻十五)






 

再び油小路通りを南に下る。

蛸薬師通りとの交差点の西南角に空也堂があった。

この寺は、山号を紫雲山と号し、光勝寺極楽院という天台宗の寺である。

空也上人を本尊とするため「空也堂」と呼ばれている。

また、中世から時宗の寺であったが明治初に天台宗の寺になったそうである。

天慶2年(929)空也上人の開創といわれる。

当初は三条櫛笥(クシゲ)にあったので櫛笥道場とも市中道場ともいわれた。

応仁の乱で焼失したが、寛永年間(1624〜1644)現在地に再建された。

空也は鉦をたたき念仏を唱えて全国行脚し、仏教を庶民改装に布教する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整

備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど社会事業を行った。

そのため空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。

毎年11月第二日曜日に、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が行われる。

その際六斎念仏焼香式が奉修されるが重要無形民俗文化財になっているそうである。

庫裏を本堂(空也堂)とし、地蔵堂と、他石碑石仏塔が塀際に並べられているぐらいの閑散とした境内で

あった。


イメージ 1  光勝寺極楽院山門
門前向かって左側に「くうやどう」の寺標が建っていた。





イメージ 2  空也堂
前に「市中道場」の碑が建つ。
本尊:空也上人自作といわれる空也上人立像
第二次大戦中建物強制疎開により本堂が取り壊しされ、以降庫裏が本堂(空也堂)となっている。



イメージ 3  地蔵堂





イメージ 4  境 内
伊藤仁斎宅・古義堂址から更に堀川沿いを南下した。

やがて、堀川通りの向い(西)側は二条城となり、寒いにもかかわらず観光客が出入りしていた。

歩いている東側は、「京都老人サービスセンター キョウト ケア ハウス」のビル、その南隣は「京都

国際ホテル」となっていた。

「京都老人サービスセンター」の玄関前には儒医の「儒医 並河天民 請学所 堀木之舎址」、

「京都国際ホテル」の前には、北から「橋本佐内寓居跡」、「堀河天皇 里内裏址」、「福井藩邸跡」

の標石、あるいは碑が建っていた。


イメージ 1  儒医 並河天民 請学所 堀木之舎址
並河天民(ナミカワテンタミ 1679〜1718)
儒学を伊藤仁斎、医学を名古屋玄医(1628〜96)に学び、仁斎の学問を批判的に継承。
経世済民を重んじ儒医として活躍。




イメージ 2  橋本左内寓居跡
橋本左内は福井藩士で幕末の志士
安政5年(1858)2月から4月までこの地にあった福井藩藩邸に居住して活躍した。
安政4年(1857)の藩政改革には由利公正らと手腕をふるった。
折から幕府の将軍継子問題が起こり、藩主を先頭に、一橋慶喜を立てる運動を展開、左内は藩命を帯びて江戸より京都に来て、桃井亮太郎または桃井伊織の変名の下に、ここを根拠に活躍した。
しかし、井伊大老の就任によって、この運動は失敗し、それのみか、左内は牢獄に入れられ、安政6年(1859)安政の大獄により処刑された。
時に年26歳。




イメージ 3  堀河天皇 里内裏址
二条通りと堀川通りによって画された東西120m、南北250mの地域は、古の堀川院の遺址であって、正式には左京二坊九、十町に当たっている。
初めそれは、関白藤原基経(836〜891)が造営した大邸宅であった。
彼は主に公式な行事の為本邸をを用いた。
ここで宴会が催されたときなどは、公卿たちの牛車は、堀川の東側に立てられ、牛は二条堀川の橋の欄干に繋がれていたという。
この邸宅における苑池の美しさは、幾多の詩歌に詠まれている。
基経の没後、堀川院は息子の兼通の娘・媓子が円融天皇の中宮であったため、本邸は円融上皇の御所になったこともある。
堀川院が最も脚光を浴びたのは、ここが堀河天皇の御所(里内裏)となった時期であって、天皇は嘉承2年(1107)7月ここで崩じた。
その委細は「讃岐典侍日記」に見事に叙べられている。





イメージ 4  福井藩邸跡
この油小路二条下る西側(現京都国際ホテル)の一帯には江戸時代後期、福井藩の藩邸があった。
藩邸が置かれたのは比較的新しく、天保2年(1831)の経大絵図」に描かれている。
藩邸は京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当ったところである。
福井藩は慶長5年(1600)徳川家康の次男結城秀康が封じられにに始まる親藩の雄藩で、石高は最大68万石、江戸中期以降は32万石。
幕末に松平慶永(ヨシナガ)が藩主となってから、人材を登用して藩政を改革し、水戸藩とともに幕府政治の改革に乗り出し、更に、後部合体運動を進めて、幕末政局に一方の旗頭となって活躍した。この藩邸は、幕末の福井藩の活躍にとって大きな役割を果たした。

楽美術館を出た後、堀川沿いに南に下った。

出水通りを過ぎると、左手に黒塀と見越しの松が覗く邸宅があった。

塀の前には石標があり、「史蹟 伊藤仁斎宅古義堂址並びに書庫」と刻まれていた。

伊藤仁斎は、「論語古義」、「孟子古義」、「語孟字義」、「童子問」などの著作がある江戸前期の儒学

者だ。

現在も末裔がお住みらしく、表札には「伊藤」とあり、「未生流華道教室」の看板も掛っていた。

少し覗かせて貰おうと門を潜ると左手、書庫へ通じる露地には折戸と手水鉢が置かれ、ここにも「伊藤仁

斎古義堂址」の石標が建っていた。

石標近くの説明板は次のような内容が記してあった。

江戸初期の漢学者・伊藤仁斎(1627〜1705)の住宅で、仁斎の学問に因み古義堂と称する。

現在の建物は明治23年(1890)遺構をもって再建したもので、2階建、土蔵造りの書庫は仁斎在世当時のも

の。

伊藤仁斎は寛永4年(1627)ここに生まれた。

父・了室は篤学の人であり、母は連歌師・里村紹巴(ショウハ)にあたる。

仁斎ははじめ朱子学を修めたが、後にこれを排して古義学を唱え、寛文2年(1662)から、79歳で没する宝

永2年(1705)までの約40年間私塾を開き、その門下生は3千人を数えた。

長男・東涯(トウガイ)は父の学問の紹述に努めたので、仁斎・東涯の学派を堀川学派、古義派と呼んで名高

く、全国各地から堀川の流れを慕って学徒はここに集まった。

子孫は永く学派を伝え、寛文2年(1662)から明治39年(1906)に至るまで実に244年に及んだ。



イメージ 1 伊藤仁斎宅(古義堂)址および書庫





イメージ 2 石標





イメージ 3 古義堂址入口

小川通りを京都駅に向かって南に下っていると、楽美術館の案内標識があったので寄ってみることにし

た。

小川通りより1筋東(堀川通りより一筋東)の油小路通りに移り、南に下ると、古い民家風の建物があり、

塀の脇に{楽焼窯元・楽吉左衛門宅」の標柱が建っていた。

その南隣に「楽(樂)美術館」が建っていた。

焼き物に疎い:)は、楽焼といえば、素人などが作る低温度で焼いた陶器というイメージを持っていた。

だが、なかなかどうして、そんな軽いものではないらしい。

楽焼は千利休が創出したといわれ、ろくろを使わず指頭で成形し、低温度で焼く。

茶碗、水指、花入れ、香炉などがつくられ、殊に茶の世界では大きな位置を占めているようだ。

楽家本流の作品のほか、光琳や乾山などに優れた作品があるという。。

天正年間(1573〜92)瓦職にの長次郎が千利休の指導により、豊臣秀吉が建設した聚楽第から掘り上げた土

を使って焼いたのが始まりとされる。

二代常慶が秀吉から「樂」の字の印を賜り以来家号としたという。

楽美術館では、楽家に伝わる歴代作品を中心に茶道工芸美術品を多数展示したいた。

近くで、茶会などの催しがあったのだろうか、和服姿の妙齢な御婦人方が多く来ていて、お化粧の匂いを

ぷんぷんさせていた。





イメージ 1  標柱
「楽焼窯元・楽吉左衛門宅」と刻まれていた。




イメージ 2  楽焼窯元・楽吉左衛門宅





イメージ 3  楽美術館
楽焼窯元・楽吉左衛門宅の南隣に建っていた。




イメージ 4  楽美術館中庭
休憩所から眺められる中庭。
奥が楽焼窯元・楽吉左衛門宅」となる。

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