ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

京洛逍遥

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京都市街を東西に走る今出川通りから小川通りをぶらりぶらりしながら南に下った。

天気はあまり良くなかった。

武者小路千家官休庵を過ぎたころ、霊光殿天満宮が鎮座していた。

:)は、その名を耳にしたことがないが、「天下無敵必勝利運」と記された鳥居の扁額といい、何かいわれ

がありそうな雰囲気だったので境内に足を踏み入れた。

鳥居ー拝殿ー本殿と一直線に並び、本殿は覆い屋にて保護されている。

主祭神は菅原道真と徳川家康、天満宮だから菅原道真は当然として徳川家康とは?

その疑問を含め、神社の由緒が社頭の説明板に次のように記してあった。

寛仁2年(1018)菅原道真の6代後の子孫・菅原義郷が後一条天皇の勅命を受けて菅原氏の領地であった河内

國若江郡に神殿を建てたのが始まりである。

社名は道真の左遷の際、天から一条の光と共に天一神・帝釈天が降臨したとの伝説による。

弘安4年(1281)蒙古襲来の時、後宇多天皇が当社に夷賊退治の祈祷を行わせたところ、元の船が悉く沈ん

だので、「天下無敵必勝利運」の勅学を賜った。

応仁の乱の際衰退し、他寺院の境内に遷座したことがあったが、宝暦11年(1761)現在地に鎮座した。

徳川家康は当社を深く崇敬し、社家の若江家の再興に尽力した。

家康の死後、嘉永13年(1636)徳川家光が仙洞御所にあった家康の像を当社に移し、祭神とした。






イメージ 1  霊光殿八幡宮社頭
小川通りに面している




イメージ 2 鳥居の扁額
鳥居中央に架けられている扁額
「天下無敵必勝利運」と書かれていた




イメージ 3 社 殿
拝殿ー本殿(覆い屋)



イメージ 4 本 殿
覆い屋の中に本殿が建てられている。
主祭神:菅原道真、徳川家康
社殿は明治5年(1872)近衛家の旧鎮守社を移築したもの
    
「閑臥庵(カンガアン)」より数分東に行くと「上善寺」という寺が建っていた。

千松山(センショウザン)遍照院と号する浄土宗の寺院であった。

貞観5年(863)円仁により天台密教の道場として千本今出川(京都市上京区)に創建されたと伝えられる。

その後、文明年間(1469〜87)に春谷盛信(シュンコクセイシン)によって再興され後柏原天皇の勅願寺として栄え

た。

文禄3年(1594)秀吉の京都整備に伴い寺域を現在地に移し、浄土宗に改められた。

境内にある地蔵尊が京都六地蔵の一つで、毎年8月22、23日には、京都六地蔵めぐりの多くの参拝者でに

ぎわう。

門前に「贈正四位入江九一 他七名の首塚アリ」の標柱が建っていた。

後で知ったのだが、元治元年(1864)7月19日の蛤御門の変の際、鷹司邸辺りで死んだ長州藩士たちで、境

内の東側の墓地にある様だ(確認しなかった)。


イメージ 1  山門



イメージ 2  本堂
本尊:阿弥陀如来坐像(伝行基作)



イメージ 3  地蔵堂
平安の初めの仁寿2年(852)小野篁が一度息絶えて冥途に行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、1本の桜の木から刻んだ6体の地蔵尊の一つとされる地蔵尊を安置する。
当初、木幡の里に祀られていたが、保元年間(1156〜59)に、洛北の深泥池の畔に祀られていた。
明治の廃仏毀釈の際、当寺に移されたものと言われている。




イメージ 4  地蔵堂の扉
「鞍馬口地蔵」、「深泥池(ミドロガイケ)地蔵」、「姉子の地蔵」などの愛称で親しまれている。
扉には,上部に梵字が記され、地蔵尊の姿を写した(紙の人型の様な)お札?が多数納められていた。



イメージ 5  石造大日如来


こんなに寒い時の午前、京都市は鴨川に架かる出雲路橋近くに所用があって出かけた。

地下鉄「鞍馬口」で降り、東西に通る「鞍馬口通り」を東に向かって歩いた。

5分ほど歩くと、北側に、「方除開運・鎮宅霊符本廟」と刻んだ標柱が建つ寺があった。

「閑臥庵(カンガアン)」という寺で、門はいわゆる竜宮門、少し興味を覚えて境内を覗いてみた。



門前の説明板などによれば、山号を瑞芝山と号し、黄檗宗の寺である。

もとは梶井常修院の宮の院邸であったが、江戸時代前期後水尾法皇が、夢枕に立った父・後陽成天皇の言

葉に従って、王城鎮護のため、貴船の奥の院より鎮宅霊符神(チンタクレイフシン)をこの地に勧請し、初代隠元禅

師から6代目の黄檗山萬福寺管長・千杲(チンカイ)禅師が開山として創建した。

北辰鎮宅霊符神は十干十二支九星を司る総守護神である。

御所の祈願所として、法皇自ら「閑臥庵(カンガアン)」と命名した。




イメージ 1  閑臥庵山門




イメージ 2  標柱
「方除開運・鎮宅霊符本廟」と刻んである。





イメージ 3

                             境内の石造羅漢像
参道右脇の芝生の上に石造羅漢像が置かれていた。




イメージ 4  本堂
庫裏では法皇も好んだ黄檗宗特有の精進である普茶(フチャ)料理が、今は教化の一部として一般に饗されている。


鹿王院から西に進み、嵐電{嵯峨駅」の南側に南朝代代天皇・長慶天皇の御陵があり、

その南に陰陽師で有名な安倍清明の墓があった。

もうこの辺りに来ると、耳を澄ますと桂川の水音が聞こえてきた。

少し歩けば観光客でにぎわう渡月橋だ。


イメージ 1  長慶天皇陵(嵯峨東陵 サガヒガシノミササギ)
長慶天皇(在位1368〜1383)は応永元年(1394)崩御
元々は天龍寺塔頭・慶壽院のあったところで、晩年当院ですごしたとも、また生前の在所でなく菩提を弔うために創建したとも。
昭和19年(1944)に陵と定めたもので、長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国各地に存在するそうだ。




イメージ 2  承朝王墓
承朝王は長慶天皇の皇子で相国寺30世、天龍寺塔頭・慶壽院を創建
長慶天皇陵の隣に墓があった。




イメージ 3  安倍清明墓入口
長慶天皇陵南に位置する。
元々は天龍寺塔頭・壽寧院(現在は天龍寺山内に移転)境内にあったが、荒廃していたものを清明神社
墓所を買収して昭和47年(19729970年祭事業として整備建立したもの。
「陰陽博士安倍清明公嵯峨墓所」の標柱が立っていた。



イメージ 4  安倍清明墓
清明は寛弘2年(1005)9月26日85歳で没した。

鹿王院の西に「曇華院(ドンゲイン)門跡」が建っていた。

通称「竹の御所」と呼ばれ、臨済宗系単立寺院の尼寺である。

庭園がなかなか良いと、事前にGさんから聞いていたが、残念ながら通常公開していないとのこと。

表門と境内に入り玄関を撮影して、退散した。


門前の説明板には、寺院の由緒等について、次のようなことが記されていた。

本尊は十一面観音菩薩

開基は四辻宮尊雅王の娘で、室町二代将軍義詮の室・良子の母である智泉聖通。

暦応年間(1338〜1342)に三条泂院に、当初は「通玄院」を開創し、尼五山に列されて「竹之御所」を勅許

された。

智泉が隠居所として「曇華院」を建立した。

その後応仁の乱で荒廃し、本寺である「通玄院」と合併して「曇華院」を寺名とした。

慶長8年(1608)焼失し、延宝年間(1673〜1681)に後西天皇皇女で24世住持の大成禅尼により復興された。

それ以後門跡として明治初まで続いた。

明治4年(1871)門跡制度が廃止された時、現在地に移り、鹿王院の塔頭・瑞応院を買収して再興し現在に至

っている。

イメージ 1  表 門





イメージ 2  玄 関

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