ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

北陸紀行

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八尾(ヤツオ=大阪地方の人間ならヤオと呼んでしまうだろう)は江戸時代から養蚕業で栄えた。

その名残りが街並や5月3日の曳山祭りだ。最近では9月1日〜3日の越中おはら風の盆でも観光客を呼び込

んでるようだ。

訪れた時は雨が降ったり止んだりする生憎の天気だった。

とりあえず蚕都の名残りをとどめる街並を歩き、駐車場近くにある越中八尾観光会館(曳山展示館)に入

り、3台の華麗な曳山(6台のうち3台を常時展示している)を見て八尾町人の繁栄と心意気を感じ、ビデ

オでおわら踊りを鑑賞し、さらに蚕の勉強をした。

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   八尾の街並

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上新町曳山                東町曳山                 今町曳山
 人形:在原業平              人形:深草少将と小野小町      人形:菅原道真


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 曳山の並び(表)                          曳山の並び(裏)
1880年生れの20世紀を代表するドイツの建築家ブルーノ・タウトが「日本美の再発見」で紹介し広く関心

を呼び、世界遺産にも登録された合掌造りの家屋を追って、岐阜県白川郷および富山県五箇山菅沼集落を

訪ねた。


白川村荻町(白川郷)


白川郷に着いた時、太平洋岸の主要都市ではソメイヨシノの開花宣言が聞かれるような時節にも拘わら

ず、未だ雪があっちこっちに残っていた。

天気も着いた時の一瞬だけは太陽が顔を見せたが、すぐに厚い雲が空を覆って雨となり、周囲はガスがた

ちこめた。寒かった。

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白川郷風景 明善寺まえ

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白川郷 明善寺 
楼門、本堂、庫裡も茅葺だ










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白川郷風景











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屋根の葺き替え風景










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和田家住宅(国重要文化財指定)


五箇山(菅沼地区)



白川郷から、約30分、県境を越え五箇山菅沼地区に入った。

集落から離れて、山の中腹に駐車場があり、そこからエレベーターで下り、底で地下道を抜けると菅

沼集落があった。 外へ出ると、まるでタイムスリップしたような気分だった。

規模は白川郷より相当小さいが、拓けていない感じで、合掌造りの村の原風景を見る感じだった。

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白川村、五箇山は世界的にも有数な豪雪地帯で、そのような風土から傾斜がきゅうな大きな屋根を持つ合掌造りの家屋がうまれた。今でも、白川村の白川郷(荻町地区)と五箇山の相倉地区と菅沼地区に合掌造りの集落が残り、白川郷・五箇山の合掌造りの集落として世界遺産に登録されている。五箇山は民謡「こきりこ節」の地としても知られている。
(富山)県庁前公園にいってみた。

噴水の後ろにある花時計は花の植え替え中とかで花はなく、公園全体を見渡しても鉢植えのサルビアと

花時計の背後のアベリアぐらいで、少し寂しい感じだった。

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-2007年9月27日ー

金沢は、古い町並みが残されているところから小京都といわれる。

しかし、長町武家屋敷跡は京都に似て京都にはない非なる場所だ。

長町武家屋敷跡は、金沢の繁華街香林坊近く、大野用水沿いに展開する。

藩政時代、長町界隈は中級武士の住居地帯だった。

武士の邸宅は土塀で敷地内を囲うのが習わしで、高禄になると長屋門、物見などが設けられた。

また、大野用水から水を引き曲水を配した庭をもつ屋敷が多くあった。

明治4年(1871)の廃藩以降武家制度の解体により、多くは菜園となった。

幸い門土塀などは従来のまま姿は残していたものの、大正初期の窮乏でさらに土地は分割されて

現在の住宅街に変貌した。

しかし、この一帯は火災が少なかったこともあり、蕭然とした武家屋敷が保存状態良く残っている。

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  新家邸長屋門周辺

イメージ 2  野村家武家屋敷跡入口





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野村家武家屋敷跡の大野庄用水か水を引いた庭

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 天野家長屋門                             高田家長屋門


イメージ 6 大屋家周辺





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 高西家足軽屋敷                          清水家足軽屋敷
金沢城址である金沢城公園へ来た。

金沢城は加賀一向一揆の本拠地金沢御堂の時代や、佐久間盛政の居城とした時代を経て、天正11年(1586)

前田利家入城後は加賀藩主前田家の居城として本格的建造が行われた。

天守閣は慶長7年(1586)落雷により焼失後は再建されなかったが、20棟を数える櫓、鉛瓦やなまこ塀が

貼られた石川門、三十間長屋など金沢城独自の偉容を誇ったと言われる。

明治4年(1871)廃藩置県で旧陸軍の拠点となり、昭和24年(1946)に金沢大学のキャンパスになった。

大学の移転により、平成8年(1996)に石川県が取得し、金沢城公園として整備されている。

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石川門
兼六園側より石川橋を渡って石川門より城内に入る。
石川門は櫓と櫓を長屋で繋いだ枡形門。なまこ塀の幾何学模様が美しい。
裏に回ると、隠し鉄砲狭間とか石落としの出窓がある。
屋根瓦は溶かせば鉄砲玉になる鉛を使用しているので白い。
なお、現在のものは天明8年(1788)再建されたもの。

イメージ 2鶴丸倉庫
江戸時代末期に建てられた土蔵。石川門、三十間長屋とともに城内に残る藩政期の数少ない建物の一つ。











イメージ 3三十間長屋
安政5年(1858)に再建された長屋。本来は食器類を納める倉庫だったが、後に武器弾薬を納めたといわれる。現在の長さは26間半とのこと。










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菱楼、五十間長屋、橋爪門続櫓
石川門を通るとすぐに三の丸広場に出、広いこの広場の先にこれらが目に入る。
平成13年(2001)復元されたもので、明治以降建てられた木造城郭建築物としては全国最大規模
なお、右手では河北門の復元工事が行われていた。


イメージ 5菱櫓(復元)
裏手(二の丸広場側)から内部に入ることが出来る。











イメージ 6橋爪橋と橋爪門(復元)
橋爪門は石川門および(復元工事中の)河北門とともに、金沢城の三御門と呼ばれた。

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