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気候が良いので、予てから見ておきたいと思っていた一乗谷朝倉遺跡にいってみた。 大阪駅から特急サンダーバードに乗ると2時間弱で福井に着いた。 駅前から便数の少ない一乗谷行きのバスに乗り「武家屋敷バス停」で降りた。 一乗谷は足羽(アスワ)川の支流一乗谷川に沿った戦国時代の城下町跡である。 朝倉氏5代100余年の本拠地として栄えたが、5代目義景の時、朝倉氏は天正元年(1573)織田信長に攻め滅 ぼされた。 その後は土に埋もれ約400年間田畑の下になっていた。 昭和42年(1967)から発掘調査が行われると、朝倉館をはじめとする当時の城下町の全貌が明らかに なってきた、という。 昭和46年(1971)278haが特別史跡に指定され、史跡公園として発掘・整備がすすめられている。 降車したバス停近くには復原(復元ではなく復原)した城下町が一乗谷川に沿って建っていた。 さらに北側、西側には城下町跡が残っていた。 一乗谷川対岸(東側)には中枢の朝倉館、諏訪殿、南陽寺などの遺跡あり更に(行かなかったが)山城(一乗 谷城)跡がある。 遺跡跡や一乗谷川沿いに植えられた桜が満開で、桜を愛でながら戦国時代に思いを馳せたのであった。 復原町並全貌1 発掘調査をもとに、一乗谷朝倉遺跡の一画、一乗寺谷川や、県道鯖江・美山線に沿うように町並みが復原されている。 復原町並全貌2 一乗谷案内図はここをクリック
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北陸紀行
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日本海を我国の内海としていた戦前の敦賀は、大陸貿易の玄関口としての国際貿易港として栄えていた。 敦賀は日本海側で一番早く鉄道が通った町である。 敦賀港駅は明治15年(1882)金ケ崎駅として出発した(後に改称)。 敦賀港は明治32年(1899)外国貿易港に指定され、 明治45年(1912)新橋ー金ケ崎間に欧亜国際列車が週3往復走った。 この様に国際港敦賀は多くの人と荷物で賑わった。 現在は、当時のものがほとんどなくなってしまっているが、金ケ崎城址から気比神社歩いている途中、 国際港敦賀の繁栄の名残のものを散見したので写真に納めた。 煉瓦造 平屋建 間口7.1m、奥行4.1m 金ケ崎城址から降りてきたところ、敦賀港駅構内の隅に建っていた。 電気器具が未発達時代、 鉄道列車のテールランプなどの光源を、灯油を燃やすカンテラが果たした。 その油類を保管した倉庫がランプ小屋である。 赤レンガ倉庫の隣にあった。 かってこの辺りに流れていた目倉川に架かっていた石橋・大正橋の欄干支柱。 大正橋は大正2年(1913)造られた鉄筋コンクリートと石造の瀟洒な橋であった。 しかし、平成8年(1996)臨港道路の整備により川が埋められると共にその役割を終えた。 敦賀港繁栄の一翼を支えた近代化遺産として、残された石材の一部を保存しているもの。 金ヶ崎城跡鴎ケ崎より望む 県下最大の煉瓦造りの建物 赤レンガ倉庫 明治38年(1905)石油の輸入が開始された時紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社が建てた石油貯蔵庫 登録有形文化財 2棟のイギリス積みの煉瓦造平屋建の倉庫は外国人技師の設計と伝えられている。 第二次大戦中は軍の被服庫として、その後は海産物の貯蔵庫として使用されてきたが、平成15年(2003)敦賀市に寄贈された。現在内部は非公開 |
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十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。 その夜月殊に晴れたり。 あすの夜もかくあるべきにゃといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴ははかりがたしと、 あるじに酒をすゝめられて、けひの明神に夜参す。(松尾芭蕉「おくのほそ道」) 金ケ崎城から駅方向に向かって20分ほど歩いていると、気比神社社頭に出た。 境内には、9月初め行われる敦賀祀りの準備で業者が入っており、何か忙しい感じであった。 主祭神気比大神は、神代からこの地に祀られていた。多分地元豪族の祖先神であったろう。 しかし、やがて皇室の崇敬をうけるようになった。 大宝2年(702)文武天皇の勅により仲哀天皇、神宮皇后合祀して本宮とし、その後日本武尊初め四柱神を 「四神の宮」に祀った。 霊亀元年(715)我が国最初の神宮寺が成立したという。(気比神宮寺の終焉は定かでない) 藤原武智麻呂の夢中で気比大神が仏道による救済を求めたという神身脱説話は、神仏習合の初期的説話で ある。 中世には近江や北陸道諸国に広大な神領を持ち、その祀官の強大な勢は、奥越地方の平泉寺(ヘイセンジ)衆徒 と並び称された。 しかし、南北朝争乱時には大宮司・気比氏治は南朝方に与したが、利非ず、延元2年(1337)一門ことごとく 討死した。 更に、元亀元年(1570)織田信長と朝倉義景との抗争では、大宮司憲直等の一族は朝倉方として天筒山で戦 い敗れた。 その結果、寺坊、社殿は灰燼に帰し、神領は没収され祭祀は廃絶するに至った。 江戸時時代に入り、慶長19年(1614)福井藩藩祖・結城秀康が社殿を造営し、社家8家を復興し、神領100石 を寄進して再興した。 こうして、近世以降は日本海側の中心的な航海安全の神として越前国一宮、さらには北陸道総鎮守といわ れ、「延喜式」式内の明神大社に並び旧官幣大社の社格を有した。 しかし、昭和20年(1945)7月12日の米軍空襲により赤鳥居を除く建物をすべて焼失した。 その後、昭和57年(1982)「昭和の大造営」により今日の姿に復している。 因みに、古い由緒を持つ神社だけあって、境内には多くの境内社がある(17社あるそうだ)。 その中に、都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノミコト)を祀る摂社角鹿(ツヌガ)神社が境内の東端にある。 現在の敦賀のもとはの地名は「角鹿(ツヌガ)」でこの神社の名に由来するそうだ。 芭蕉もこれに因んで、「ふるき名の 角鹿(ツヌガ)や恋し 秋の月」(「荊口句帖」)と詠んでいる。 冒頭に記したように、「おくのほそ道」を旅する松尾芭蕉は最後に敦賀を訪れ、元禄2年8月14日 (陽暦1689・9・27)の夜、即ち中秋の名月の前夜、気比神宮を参拝している。 この関係で境内には、芭蕉像や幾つかの芭蕉句碑が建っていた。 「おくのほそ道」は冒頭の文に続いて、次の様に記している。 仲哀天皇の御廟也。 社頭 神さびて、松の木の間に月もり入たる、おまへの白砂、霜を敷るがごとし。 往昔(ソノムカシ)、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土砂を荷ひ、泥渟 (デイテイ 水たまり)をかはかせて、参詣往来の煩(ワズラヒ)なし。 古例、今にたえず、神前真砂荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると、亭主のかたりける。 月清し 遊行のもてる 砂の上 十五日 亭主の詞(コトバ)にたがはず 雨降る 名月や 北国日和 定めなき (松尾芭蕉「おくのほそ道」) 気比神社社頭 赤鳥居の前に「官幣大社 気比神宮」の社標が建つ。 赤鳥居は寛永年間(1624〜1644)旧神領地佐渡国鳥居ケ原から伐採した榁で、1本から両柱を建て再建したもの、重文 正面の「気比神宮」と記した扁額は有栖川宮威仁親王の御染書という。 この赤鳥居は、安芸の厳島神社、大和の春日大社の鳥居とともに、木造鳥居として三大鳥居に数えられている。 神門・回廊の奥正面に外拝殿が建っていた。 奥に本殿、四神之宮があり、 伊奢沙別命(イササワケノミコト 気比大神) 帯仲津彦命(タラシナカツヒコノミコト 仲哀天皇) 息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト 神功皇后) 日本武尊(ヤマトタケルニミコト) 誉田別命(ホンダワケノミコト 応神天皇) 玉姫命(タマヒメノミコト) 武内宿祢命(タケノウチノスクネミコト) の7柱が祀られている。 中鳥居の近くに植えられている松 南北朝争乱時代の延元元年(1336)大宮司気比氏治が後醍醐天皇を奉じ、気比大明神の旗を揚げて戦勝祈願した松。 現在二代目 社頭の赤鳥居がシンボルである。 台座には「月清し 遊行のもてる 砂の上 はせを」と刻まれていた。 向って左奥に「芭蕉翁月五句」の碑があり、 次の五句が刻まれていた。 「国々の 八景更に 気比の月」 「月清し 遊行のもてる 砂の上」 「ふるき名の 角鹿(ツヌガ)や恋し 秋の月」 「月いつく 鐘は沈る 海の底」 「名月や 北国日和 定めなき」 次のように刻んでいた。 向って左側の碑 松尾芭蕉杖跡 なみたしくや 遊行のもてる 砂の露 月清し 遊行のもてる 砂の上 向って右側の碑 気比のみや なみたしくや 遊行のもてる 砂の露 はせを 少し脱線しているような気がするが脱線ついでに「おくのほそ道」に記されている「遊行の砂持(スナモチ)」 について註釈代わりに知る所を記す。 正安3年(1301)時宗の2世遊行他阿真教上人が北陸巡錫の際、敦賀を訪れた。 この時(現アクアトム辺りにあった)西芳寺に滞在した。 西芳寺と神宮の間が沼地で、参詣者が不便していることを知り、信者や町人たちと共に5町余り離れた海 浜から砂や石を運び参道を整備した。 この道が門前町の神楽通りとなり、東参道にあった鳥居も西に移された。 この故事に倣って、神奈川県藤沢市の遊行寺の住持が代替わりの度にこの行事が催される。
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金ケ崎城址、金崎宮の入り口に「金前寺」という高野山真言宗のお寺があった。 本堂の裏手に芭蕉鐘塚があるというので寄ってみた。 堂宇境内の整備は近年のものであるが、次の様に由緒は古い。 天平8年(736)聖武天皇の勅により泰澄が十一面観音坐像を刻み本尊として、現在の金崎宮の地に創建と伝 えられ、気比宮奥院であった。 弘仁2年(811)には弘法大師空海が滞在した。この頃は12坊を有し壮麗だったという。 延元の争乱時(1336〜1337)には大血戦の本宮となり、尊良(タカヨシ)親王および義貞の嗣子・義顕(ヨシアキ)は当 山の観音堂で自刃したと言われる。 元亀元年(1570)の織田信長の天筒山攻めの兵火により堂宇全焼した。 寛文2年(1662)現在地に観音堂を再建したが、 昭和20年(1945)7月空襲により堂宇寺宝の一切が灰燼に帰した。 昭和63年(1988)現在の本堂を再建、本尊は十一面観音立像、脇侍は不動明王、毘沙門天 現在の本尊は、金前寺末寺であった気比地蔵寺の本尊で戦時中疎開していたものを昭和21年(前)本堂再建 時本尊として迎えたもの。 山号:誓法山 本尊:十一面観音菩薩立像 芭蕉翁鐘塚 本堂裏手にあった。 そば(左手前)の説明碑には次のように刻まれていた。 「芭蕉翁鐘塚 月いつこ 鐘は沈る うみのそこ この句は、元禄2年(1682)8月15日の雨月に翁が南北朝時代金ケ崎城の悲劇にまつわる陣鐘の事を 聞き詠んだものである。この塚は翁の没後78年に白崎琴路らが建立し、その翌年より墨直しの 行事が行われ、古例となった。」 「おくのほそ道」によれば、陰暦8月14日夕方敦賀に着いた。当日は大変天気が良かった。しかし、当地方は天気が変わりやすいと言っていた宿の亭主が言った通り、翌日15日は雨だった、と記している。 芭蕉が句を詠んだ状況についてもっと知ろうと、出典を調べてみた。 (1) 桂下園東恕編「俳諧四幅対」 おなじ夜 あるじの物語に、此海に釣鐘のしづみて侍るを、国守の海士を入てたづねさせ給へど、 竜頭のさかさまに落入て引きあぐべき便もなしと聞て 月いづく 鐘はしづめる 海の底 {(元禄2年8月15日は中秋の名月の日にもかかわらず雨降りで)その同じ夜、宿の主人が話すところでは、この敦賀の海には(南北朝争乱の時新田義貞が)鐘を沈めたそうで、(後に)国守が海士を海中に入れて探させたところ、竜頭を下にして、さかさまなって落ち込んでおり、引き上げる術がなく今でもそのままになっている、ということだ。それを聞いて詠んだ。 「月いづく・・・( 楽しみにしていた今夜に、月が雲に隠れてしまってどこにあるのかさえ分からない。釣鐘もまた海の底に沈んでしまっていて、撞かれて音を発することもないことだ。)」} (2) 句空編「草庵集」 中秋の夜は 敦賀にとまりぬ、、雨降れば 月いづこ 鐘はしづみて 海の底 ばせを 他に、「荊口句帳」、真蹟短冊などにもみとめられたが、詞書もほぼ同じようであった。
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金ケ崎城跡の麓から中腹に金崎宮が鎮座している。 祭神は新田義貞と共に敦賀に下向した尊良(タカヨシ)親王と恒良(ツネヨシ)親王だ。 明治26年(1893)金ケ崎城址に創建された。 その後類焼により焼失したので、明治39年(1906)現在地に再建されたものだ。 麓から長い急な勾配の石段があり、その登った先に拝殿、中門 本殿が建ており、右側に社務所、左隣に 摂社の絹掛神社があった。 石段手前に「金崎宮は『難関突破と恋の宮』幸福の階段を駆け上がれ、神様はきっと願いを 聞いてくださいます」と記された立て看板があった。 南北朝の争乱や戦国の悲劇に思いを馳せていた にはやや違和感を覚えたが、ほほえましかった。奥の本殿には敦賀に下向した 尊良親王、恒良親王を祀る。 寝殿造の中門と本殿は平安中期の建築様式を模している。 本殿背後の高台に、尊良親王墓所見込地がある。 親王の墓は京都市左京区にあるので、落城時の親王自刃地ではないかとみられている。 小豆袋形の絵馬となっている。 元亀元年(1570)朝倉義景討伐のため金ケ崎に攻め陥落させた織田信長に、妹のお市から、両端を結んだ小豆袋が贈られてきた。 浅井氏が寝返り、朝倉・浅井により前後に挟まれた形になったことを知らせるものだ悟った信長は、急遽総退却を決断し、危機を脱出した。 延元2年(1337)金ケ崎落城の際、尊良親王に殉じて自刃した新田義顕、以下300余名を祭神としている。 |
にはやや違和感を覚えたが、ほほえましかった。


