|
金沢城から百万石通りを西に歩き、金沢一の繁華街・香林坊を過ぎ、長町武家屋敷跡に入った。 ここは藩政時代、中級武士の屋敷跡である。 藩政時代の面影を残すところとして、金沢の観光名所の一つとなっていて、シーズンともなれば観光客で 賑わう。 だが、今はシーズンオフらしく、観光客らしい人は見かけず、人の姿を見ても地元の人のようだった。 土塀には弧もがけがなされていた。土塀越しに、庭の樹木に雪釣りがなされているのが見られた。 いつでも大雪が降ってきても大丈夫といった感じであった。 |
北陸紀行
[ リスト | 詳細 ]
|
8:42大阪発のサンダーバード7号に乗ると11:14金沢に着いた。 金沢は通ることがあっても下車するのは久し振りだ。 早速金沢城に行った。と云うのも今年4月に河北門の復元がなったと聞いていたからだ。 行って見ると、かの兼六園の向いの石川門は続櫓、櫓、付属左方太鼓塀は修理中で素屋根に覆われてい た。 石川門から城内に入り、三の丸広場を見渡すと復元なった河北門の二の門が目に入った。 河北門は金沢城大手から入り河北坂を上ったところに位置する「三の丸正面」にあり、金沢城の実質的な 正門だった。 明治15年(1882)頃にはなくなり、今回の復元で約130年振りに甦った訳だ。 河北門は枡形門で、「一の門」とニラミ櫓、太鼓塀を表にし、奥に枡形を囲む枡形土塀と二の門の構成 となっている。 元の石垣は明治時代に撤去されていたので、あらたに再現。地元産出の戸室石を隙間無く積み上げる「切 込ハギ」としていた。 河北門正面 一の門、ニラミ櫓、太鼓ヘ塀からなる。ニラミ櫓は大手筋に睨みを利かせる櫓の意か? 河北門の内側の門。南北の石垣台の上に櫓(長屋)を渡す楼門(渡櫓)の形式をとっている。 外観は石川門とほぼ同じだが規模は一回り大きい。 二の門の内部を見学できる。内部の壁や床などは檜の一種である「能登ヒバ」が石川門同様用いられている。 三の丸側から見る河北門。枡形を囲む枡形土塀と二の門が望まれる。 |
|
永平寺通用門から外に出ると、前に小川が流れており対岸に小堂・社が並んでいた。 小川の上流に登ると明治42年(1909)嘉仁殿下(後の大正天皇)永平寺行啓を記念して開園した愛宕公園が あり、傍を流れる小川の対岸には「玲瓏の瀧」と呼ばれる、小さいながらも素敵な瀧が流れていた。 愛宕公園の奥に、道元禅師生誕800年(平成12年)、750大遠忌(平成14年)の記念事業として新たに整備さ れた寂光苑があった。 苑内には、道元禅師の父母の恩に報いる「父母塔」、出家の志を立てた姿を表す「稚髪像」、明全和尚と 共に中国に渡り如浄禅師と出会い、正しい仏の道を得た恩に報いる「明全塔」「如浄塔」など道元禅師の 一代が偲ばれる像塔が並び、またその奥には永平寺歴代住職の墓となっており、最後に道元禅師を祀る 「御堂」が建っていた。 地蔵堂、稲荷堂、天照大神宮、金比羅堂が並んでいた。 父母の恩に報いる 道元は正治2年(1200)京都で生れた。 道元が出家の決意をした少年期の姿を表す。 道元は14歳の時比叡山で出家した。 明全和尚は、貞応2年(1223)24歳の道元と共に中国に渡ったが、2年後彼の地で没した。 中国に渡った道元は天童山の如浄禅師に師事した。 道元禅師御霊塔を納めている。 |
|
参禅は心身脱落なり、焼香、礼拝、念仏、修懴(シュウサン)、看経(カンキン)を用いず 只管打坐のみ 心身脱落とは何ぞや 心身脱落とは坐禅なり ( 道元「宝慶記」中で宋僧・如浄禅師の言葉として ) 永平寺の各堂宇を巡っていて気が付くのは、塵一つ無いことだ。 永平寺の修行の中心だが、坐禅だけが全てではない。 坐禅の精神を日常生活に展開していくことこそ大切と、廻廊掃除などの作務が毎日行われているからだ。 生活こそは修行という道元禅師の教えがここにも生きている証拠を見た気がした。 七堂伽藍などを拝観した後、瑠璃聖宝閣(宝物館)で永平寺に伝わる書、絵画、書籍、器物など の宝物を見学して外に出た。 なお、鐘楼、舎利殿は先の台風で被害を受け、修理工事のため素屋根で覆われていた。 旧福井藩主の廟所
祠堂殿と須弥壇
昭和5年(1930)建立 全国信者の位牌が安置されている。正面入口に吊り下げられていた。
閻魔王像と地蔵菩薩像
向って左前面に安置してあった。平成8年(1996)建立 写経を納める塔
唐門
永平寺のシンボル的な門 |
|
「大ざっぱなことを言えば、仏教には2つの流れがあるように思う。一つは市井に埋没する。俗世間の なかで人々とともに生きてゆく、という考え方だ。・・・・そして、もう一つは世俗を離れて 深山に入り、自然とともに生きる、という考え方である。」(五木寛之「百寺巡礼」第2巻) 曹洞宗大本山永平寺は、越前国山奥に建立された。今では,七堂伽藍をはじめ大小70余りの建物が山肌に 沿うように建ち、200人余りの雲水たちが修行に励んでいる。 拝観中も読経の声、鐘や版の音などが響き、寺が修行道場として活きている事が実感できた。 なお、松尾芭蕉もわざわざ立ち寄っており、次のような感想を記している。 五十丁山に入りて、永平寺を礼す。 道元禅師の御寺也。 邦畿千里を避けて、かかる山険に跡を残し給ふも 貴き故有とかや。(松尾芭蕉「おくのほそ道」45) (街道から逸れて50丁ばかり山に入り永平寺を参拝した。永平寺は道元禅師がお開きになった寺である。 都から遠いこんな山中に寺を残されたのも、仏道修行に対する道元禅師の尊いお考えがあったからだという。) 僧 堂 明治35年(1902)改築、「雲堂」「坐禅堂」とも呼ばれる。 坐禅、食事、就寝に至るまで修行の根本道場、内部を覗くと、中央に文殊菩薩を安置しているとのことだが遠くからは暗くてお姿が良く分らなかった。 約90名が坐禅できる「単」と呼ばれる席が設けられており、天井からは大きな魚版が吊り下げられていた。 僧堂、東司(トウス お手洗い)、浴室は三黙道場といって、一切の私語は禁止 大庫院(ダイクイン) 昭和5年(1930)改築 玄関正面には「韋駄尊天」が祀られていた。 1階は台所、2階は来賓接待の間、3階は大広間となっている。 大庫院の玄関右の柱にかかっていた。 長さ4m、胴回り1mあり、3回撫でると料理が上手になるそうだ。 雲版と巡照板 いずれも廻廊に吊り下げられていた。 時や日課の合図を行うものだ。 |


