ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

東海紀行

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「蓬莱」とか「白真弓」とかいった板看板の出ている造り酒屋の家などは、格子美の傑作かと

思われる。階上・階下とも家の正面はすべて出格子で装われていて、階上の格子はあらく、階下

の格子は繊細にしつらえているあたり心憎いばかりである。(司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)

飛騨と言えば「飛騨の匠」が連想される。

奈良時代から知られており、万葉集にも
かにかくに 物は思はじ 飛騨人の 打つ墨縄の ただ一道
[あれこれ迷いはしまい、あの飛騨人が弾く墨縄の線のようにただ一筋に思おう](「万葉集」巻第十一 2648番)

と建築に携わっている飛騨の人が詠われている。

その飛騨の匠の技を受け継ぐ飛騨匠の文化館、明治に廃寺となった福善寺の名残の大イチョウ、上人塚を

見た後、壱之町へと回った。

そこには、気品と古格のある古川の街並みの中にあって、特に立派な和風建築が並んでいた。

古川の2軒の造り酒屋屋(「蓬莱」の渡辺酒造店と「白真弓」の蒲酒造場)で、いずれの建物も、司

馬遼太郎が「格子美の傑作」と称賛するような格子と素晴らしい風格をみせていた。

玄関の軒先には、銘柄を記した板看板と共に、杉の葉を球状に束ねた杉球「酒林(サカバヤシ)」が掛けられて

いた。

その酒林には、御丁寧に妻入流造りの屋根と注連縄が付けられている。

毎年11月下旬頃、新酒ができると新しいものに取り換えられるという。

町並を一通り見た後、飛騨古川まつり会館に足を運んだ。

手前の祭り広場には「起し太鼓」が展示されており、時期はもう外れているが、古川の春を告げる古川祭

りの熱気と興奮を感じることができた。

イメージ 1 飛騨の匠文化館と大イチョウ
「飛騨の匠文化館」は飛騨の匠の技と術紹介するため平成元年(1989)完成した。
ここは明治に廃寺となった福善寺の跡地で、当時から境内の東隅に生えていた大イチョウが敷地内にそびえていた。
大イチョウは推定樹齢700年、樹高や九30m、幹の目通り5.6mの大樹であった。
「飛騨の匠文化館」近くに上人堂と上人塚がある。




イメージ 2 上人堂
上人塚の前に建つ。
平成4年(1992)建て替え
快存上人は明治7年(1874)まであった福善寺の中興の祖。




イメージ 3 上人塚
寛永10年(1633)入寂した快存上人の墓
古墳時代の円墳の上に塚が築かれ江戸時代から上人塚と呼ばれている。
快存上人は織豊時代から江戸時代にかけての僧で、古川の領主・金森可重(アリシゲ)と親しく、福善寺の中興し、瀬戸川の造成に進言したといわれる。





イメージ 4

                                 渡辺酒造店
「蓬莱」の銘柄の造り酒屋 建物は国登録有形文化財  予約すれば見学可
江戸時代両替商などで財をなし、明治3年(1870)酒造業を始めた。



イメージ 5

                                  蒲酒造場
「白真弓」の銘柄の造り酒屋 建物は国登録有形文化財  予約すれば見学可
宝永年間米穀を商って財をなし酒造業を始めた。




イメージ 6 古川まつり会館
古川に春の訪れを告げる「古川まつり」を紹介している。
古川まつりは気多若宮神社の例祭で国の無形文化財に指定されている。
3Dの立体映像や絢爛豪華な祭屋台3台が展示されている。




イメージ 7 起し太鼓
古川祭りは4月19日の夜から20日未明にかけて行われる「起し太鼓」でクライマックスに達する。
2人の若者が打ち鳴らす櫓上の大太鼓めがけて12組の「付け太鼓」と呼ばれる小太鼓を掲げた裸の若者たちが突っ込む。
その太鼓が会館前のおまつり広場に展示してあった。

ともかく古川町の町並には、みごとなほど気品と古格がある。

観光化されていないだけに、取りつくろわぬ容儀や表情、あるいは人格さえ感じさせるのである。
                                    (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)


高山から、JR高山線を普通で約15分行くと飛騨古川に着いた。

飛騨古川駅から5分ほど歩くと、古い家並みが残っている地域に入った。

特に鯉が放流されている用水路(瀬戸川)沿いの白壁土蔵が続く風景はなかなか良い。

そして、何よりも観光客の姿が少ないのが良い。

:)もそうだったが、高山までは訪れる観光客は多いが、飛騨古川まで足を運ぶ観光客は少ないのだろう。


天正13年(1585)金森長近が秀吉の命で飛騨を平定後、飛騨を与えられ、古川を養嗣子可重(アリシゲ)の治所

とした。

可重は天正17年(1589)頃増島城を築城し、古川の城下町の造営に当たっては宮川の支流・荒城川から瀬戸

川に大規模な通水路を拓いた。

可重は父(長近)の高山城築城とならび、ここでも新時代に即したあたらしい城と城下町建設に

乗り出した。

おそらく姉小路時代の風韻の上に、可重好みを重ねた。(司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)


瀬戸川は、今もなお生活、農業用水として地域を支え、放流されている鯉は飛騨古川の風物詩となってい

る。

関ヶ原の戦い後、可重に代って長男重近(金森宗和、茶道宗和流の祖)が慶長19年(1614)京都に移り住むま

で二代目城主を務めた。

元和5年(1619)幕府の一国一城令により増島城は取り壊され、石垣が残るだけである。




イメージ 1 飛騨古川駅
高山より普通で約15分
瀟洒な駅で徒歩5分ほどで町並みに入る。




イメージ 2 町並み

古川にあっては、高山と同様、飛騨風の二階だてが多く、町屋も微妙に軽快で、かすかに重量感

があり、これ以上の釣り合いがのぞめないくらいである。とくに階上と階下の格子戸が間口の長さ

を美しさとしてみごとに演出している。 (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)





イメージ 3

                               瀬戸川沿いの家並み
瀬戸川は瀬戸屋源兵衛という人が世話人になって造られたので瀬戸川と呼ばれていると言う。






イメージ 8 放流されている鯉
昔の瀬戸川は野菜なども洗えるきれいな用水だったが、高度成長のころ著しく汚れた。
瀬戸川を再び美しくしようと、昭和43年(1968)鯉が放流された。
放流されている瀬戸川の鯉は古川の風物詩となっている。
なお、冬の間は越冬池に移され、春に再び放流される。





イメージ 4

                      瀬戸川沿いの白壁土蔵(円光寺付近)
瀬戸川を挟んで(向かって)左手に円光寺、右手は渡辺酒造店の白壁土蔵群


円光寺の高さ50センチほどの低い石積みの結界と、となりの白亜の酒蔵とのとりあわせがよく、

そのあいだをながれる用水路(瀬戸川)の水のきらめきをふくめて、みごとな日本建築群による

都市造形をつくりあげている。   (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)

円光寺は山号を照耀山と号する浄土真宗の寺。

一世正祐が永正11年(1514)古川郷字津江村海具江に道場「垣株堂」を開設したのが創り。

その後移転を繰り返すが元和7年(1621)現在地に移った。

正徳2年(1712)円光寺と改め現在に至る。

毎年1月15日親鸞聖人の遺徳を偲び円光寺、真宗寺、本光寺を参拝する伝統行事「三寺まいり」が知られ

る。



イメージ 5 円光寺山門
元和5年(1615)の幕府の一国一城令により廃城された増島城城門を元禄8年(165)移築したもの。
破風のような小さい櫓が付き、「垣株堂」の額が架かる。

見あきぬほどにかたちがいい。この門一つを見ても、茶人金森可重(アリシゲ)の美的感覚のほどが

察せられるのである。   (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)





イメージ 6 円光寺本堂
寛文7年(1667)建立






イメージ 7 上町搭の腰塔心礎(五重塔心礎)
円光寺境内隅に置かれてあった。
昔古川町上野字塔の腰にあった上野廃寺の五重塔の心礎
明治初年、塔の腰から当寺境内に移された。

高山には(建武中興の時、国司として下向した)姉小路文化の間接的な影響があるにしても、

高山の文化や風致の原形を作ったのは、くりかえすが、豊臣期から徳川初期まで数代続いた

飛騨大名金森氏だった。

さらに正確に言えば、金森家がもっていた茶道美学だった。 (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)

夕方から夜間相当降った雨は、朝には止んでいた。

宮川東岸(宮川朝市)と高山陣屋前の広場(陣屋朝市)で朝市があると言うので9時ごろ出かけた。

野菜、漬物、花卉類、土産物などを売っていたが、出店は思ったほど多くはなかった。

途中、昨日日中の人出が多かった三町の古い町並みを歩いた。

ほとんどの店は未だ開いておらず、道を歩く観光客の姿も少ない。

この方が町並みの素の姿が見えるような気がする。

ある店(久田屋という郷土料理の店だった気がする)では軒先に藤を這わせており、それがちょうど満開

だった。

又、ある店(漬物など食糧品の店)では軒先に満開の藤の鉢が置かれていた。

高山の文化と風致を評価し、それが茶趣味大名で知られる金森氏の茶道美学が遠因という司馬

遼太郎の意見に今一つ理解しかねていた:)だが、幾たびか歩いた古い街並みとこういった風情をを見ると

分かるような気がした。




イメージ 1

                             宮川朝市




イメージ 2 古い町並み





イメージ 3 軒先に藤が咲いている商家





イメージ 4

                              軒先の藤の花




イメージ 5 軒先の藤の鉢植え



     関  連  記  事



飛騨の高山を小京都という。このことに印象としてまぎれもない。

ある町角では、ふと京都よりも京都ではないかとおもったりする。

規模が小さいだけに、品格のある造りも、その磨き方も入念なのである。
                              (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)

高山陣屋を出た後も、小降りの雨だった。

高山陣屋の目の前の中橋近くのホテルの喫茶室で30分ほど休んでいたら、傘を差さないでも我慢できる程

度になっってきた。

そこで宮川に架かる中橋を渡り、宮川の東側、南北に延びる古い商家民家が軒を連ねる町並み(三町伝統

的建造物群保存地区、下二之町大新町伝統的建造物群保存地区)―「古い町並み」と呼んでいる―を見物

に歩いた。

「古い町並み」の地域は、豊臣時代、金森長近が秀吉の命で飛騨を征し、領主として封ぜられ、城下町を

整備した時の商人町である。

金森氏の治世は約100年続き、元禄5年(1692)金森氏が出羽へ転付され、幕府直轄領になった後も、飛騨地

方の商業の中心として栄えた。

現在でも、江戸時代後期から明治時代の建物が数多く残っており、国の「重要伝統的建築物群保存地区に

選定されている。

司馬遼太郎が記すような独特の雰囲気を残す「古い町並」の中心通りには、相変わらず観光客が多く訪れ

ていた。

話しぶりから、近隣の外国の人々が多いと感じた。



イメージ 1 中 橋
高山本陣前の宮川に架かる中橋を渡ると(向かって左手に)古い商家の街並みとなる。





イメージ 2 さるぼぼ
雨宿りしたホテルの喫茶室からの眺め
「さるぼぼ」が窓際に飾ってあった。
さるぼぼは「猿の赤ん坊」という意味で、飛騨地方で古くから、縁起物として作られる人形。






イメージ 3 古い町並み
三町伝統的建造物群保存地区





イメージ 4 日下部民芸館(日下部家住宅)
明治12年(1879)築 重文
下二之町大新町伝統的建造物群保存地区


いま高山の町を歩いていると匠たちが思う存分腕をふるったノミのあとを幾つか、町屋づくりの

中に見ることができる。   

大新町の日下部邸もその一つである。

入口を入ると広い土間と上がり框(カマチ)に沿って太い大黒柱、その上に四方に広がる壮大な梁と

のびのびした空間、そして細かいところまで行き届いた念入りな仕事、これらの豪快重厚な

構造美は訪ねる人々を驚かせる。  (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)





イメージ 5 吉島家住宅
明治40年(1907)築 重文
下二之町大新町伝統的建造物群保存地区




イメージ 6 飛騨高山まちの博物館
高山の歴史や工芸伝統文化を紹介。
江戸時代の豪商で一之町の年寄であった矢島家と豪商の永田家の跡地に建てられた。
展示室は江戸時代から明治にかけての土蔵を活用している。





イメージ 7 高山昭和館
一筋離れた所に、黄金時代の日活の裕次郎や小百合の映画看板やポスターを掲げていた。



イメージ 8 桜 橋
宮川の支流・江名子川に架かる橋
両たもとが外側に開き、高欄・擬宝珠付の朱塗りの優雅な橋。
江戸時代では、二之町の川上魚問屋が運上金なしで商売ができる御礼として代々自力で架けたという。





     関  連  記  事



飛騨では、郡代というのは、えらいものであった。いわば将軍の代理人で「御郡代様」と、

尊称された。 ― 中略 ―     郡代は身分は旗本ながら、役目としての礼遇は

大名なみであった。   (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)

飛騨国分寺、飛騨総社、飛騨国分尼寺跡の辻ケ森三社を廻った後、高山の目玉の一つである古い商家・民家

の家並み(伝統的建造物群保存地区)を見物しようと思い、宮川に架かる中橋辺りに来た。

しかし、雨がぽつぽつ降り出したので、雨宿りと天気の様子見を兼ねて、目の前の高山陣屋へ入った。

元禄5年(1692)徳川幕府は、それまでの領主・金森氏を出羽へ転封し、飛騨を幕府直轄領とした。

その後明治維新に至る177年間に25代の代官・郡代が江戸から派遣された。

その職住を兼ねた役所が「高山陣屋」である。

明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきた。

昭和44年(1969)飛騨県事務所が移転をしたのを機に全国に唯一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存する為

平成8年(1996)までに復元修理された。

内部は、玄関、大広間、座敷、庭園、役宅、吟味所・白洲、御蔵などからなっていた。

陣屋は江戸期の建物ながらよく修復されていて、若者の肉体をみるようにしっかりしている。

大きな門の前に立つと、意外に優美である。入ってしばらく行くと、堂々たる玄関に達する。 

 上がって、さまざまな御用の間を見た  取り調べをする御白洲も、よく保存されている。

役宅なども、飛騨ふうの、軽快な建物で、当時の幕府の重い権力を想像しないかぎり、

いい建築遺構だった。(司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行)






イメージ 1 高山陣屋門前
表門と向って右脇の門番所は天保3年(1832)築





イメージ 2

                                 玄 関
玄関および奥の御役所は文化13年(1816)改築





イメージ 3 御 庭
天明年間(1781〜1789)に造りかえられ、
その後もしばしば手を加えられた。




イメージ 4 御書院御座之間
大広間は三室に分かれており、公式の会議などに使用された。
書院造りのこの部屋からは濡縁を通して庭が見渡せる。
文化13年(1816)改築


イメージ 7 御囲い(茶室)
茶室の事を「御囲い」と呼んだ。
郡代が生活した場所・役宅は
文政13年(1830)の絵図面をもとに平成8年(1996)復元





イメージ 5 御白洲
玄関の向かって左前側にあり、奥は吟味所となっている。
御白洲はぐり石敷きで無双窓付きの板壁・屋根付き。
責台、抱え石といった拷問用具
や囚人駕篭(唐丸篭)が展示してあった。




イメージ 6 御 蔵  
元禄8年(1695)高山城三之丸から移築され、
年貢米の蔵として使用された。
年代、規模共に全国でも最古・最大級の米蔵と言われている。

イメージ 8 散策マップ



     関  連  記  事


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