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御影堂を参拝した後、通天と呼ばれる廊下を渡り、西隣の如来堂に行った。 今は修理工事中で素屋根に覆われたいる唐門(天保15年=1844築)の正面に位置していた。 如来堂は「証拠の如来」と言われる阿弥陀如来立像を本尊とし、教義上はこの如来堂が本堂である。 如来堂 如来堂は広さは御影堂の半分弱であるが、高さはほぼ同じだ。外観は二階建てに見えるが、一つは、寺院建築で良く見かけられる、裳階(モコシ)である。 如来堂の建設は享保6年(1721)に始まり、27年後の寛延元年(1748)に落慶遷仏の行事をしたと言われている。 ここの地盤は軟弱で、如来堂建設に際して勘六という老人が人柱になり工事の成功を祈願したという伝説があり東南隅の礎石にはそれを示す刻銘が残っている。 組み物の間には伝説上の生き物や故事に基ずくものが彫刻されていた。建物の両側の妻飾りの鶴は左甚五郎作と伝えられる。 中央に「証拠の如来」と言われる阿弥陀如来立像が安置されている。来迎印をした仏様で、第十世真慧(シンネ)上人が比叡山延暦寺より迎えた仏像である。 御影堂東南に位置する。入母屋造りの屋根をのせ、隅柱は4本とも柱の先を内側に斜めに倒した四方転びと言う形式をとっている。 梵鐘は慶安5年(1652)鋳造 |
東海紀行
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JR紀勢線一身田駅に降り立った。まず帰りの時刻を確認する。平日の昼間は電車は1時間に1本しかな い。 昨年 Hさんから津歴史街道構想推進実行委員会発行(平成15年3月31日発行)の「一身田寺内町」と言う小 冊子を貰った。 それによると、「一身田という地名は奈良・平安時代に功績のあった貴族に特別にその身一代に限って与 えられた田、『一身田』から来たといわれる。 中世、真宗の高田(栃木県)専修寺真慧(シンネ)がこの地に無量寿院(後の一身田専修寺)を建設し、ここ を中心に東海・北陸方面の布教活動を行い、後に戦火で荒廃した高田専修寺にかわり、ここが高田教団の 中心になった。 16世紀末には一身田専修寺を中心にした寺内町が成立したといわれる。 明治以後寺内町は解体されていったが、それでも環濠を始め古い寺内町の雰囲気がよく残っている」、と いう。 少し時間があったので、寺内町とその中心の専修寺(センジュジ)拝観のため訪れたのであった。 専修寺(センジュジ)は一身田駅からも寺院の屋根が望まれる。駅から徒歩5分位だった。歩いていると確かに 古い寺内町の独特の雰囲気が漂っているのをひしひしと感じた。 山 門 専修寺には3つの門があり、その内2つ、太鼓門と唐門は修理中で素屋根にすっぽりと覆われたいた。 山門は御影堂の正面の門。 山門の前の両側には塔頭寺院が並び、山門のその先には山内寺院と町屋を隔てる堀にかかる石橋と釘貫門が残っていた。 山門は宝永元年(1704)再建 楼上には釈迦三尊像を安置しているとのこと。 御影堂 専修寺は、真宗高田派の本山である。親鸞聖人の木造を安置する大御堂である。 寛文6年(1666)の再建 欄 間 極彩色の丸彫りで、金襴巻きの柱などと共に再建当時の装飾技術の粋を集めたものとなっている。 739畳敷の大広間の奥の須弥壇には親鸞聖人の像が安置されているが、遠く過ぎて詳細にはどんなお姿をしているのか分らなかった。 両脇には歴代上人の画像を置く。 隣の如来堂と結ぶ廊下。唐破風造りで書く柱の間は吹き抜けとなっている。寛政12年(1800)完成 柱には金銅製の燈籠が取り付けられていた。 |
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松阪市内をぶらり、ぶらり歩いていると、新町商店街に出てきた。この界隈から駅にかけては社寺が多く 建っていた。
通りに面していて目に付くのが「樹敬寺」だ。浄土宗の寺で、知恩院の末寺だ。 天正16年(1588)蒲生氏郷の松阪城築城に伴い松ケ島より現在地に移ったという。 境内には本居宣長と妻・勝の墓、背中合わせに長男・春庭と妻・壱岐の墓があり、その墓地内に本居家の 墓碑26基が並んでいた。
樹敬寺門前
本居宣長等の墓
来迎寺は天台真盛宗に属し、永正年間の創建と伝えられる。天正16年(1588)松ケ島から現在地に移った。 長く三井家の菩提寺だった。
鐘楼門
文政4年(1821)完成、一階は通路、2階は鐘を吊っている。門の左右に番小屋が付属している。
本堂
享保16年(1731)築で前後に並ぶ外陣と内陣を繋いだ複合仏堂、重要文化財
八雲神社は蒲生氏郷によって松ケ島から遷社された産土神四天王社の一つ、牛頭大王を祀る。 宝暦12年(1762)社殿の建替えの際、本居宣長と門人達が奉納した2巻の百首歌が近年発見されたとのこ と。 鈴屋が移築されている松阪城・松阪1 : 本居宣長旧宅(鈴屋) , 本居宣長ノ宮
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松阪は松阪商人、伊勢商人と言う言葉が残るほど江戸期には、三井をはじめとする豪商を輩出した所だ。 松阪のメインストリートの旧参宮街道から本町、魚町辺りを歩いているとその面影が未だ残っていた。
三井家発祥地
本町通りの白い壁に囲まれた地は三井家の家祖三井高利が生まれた所である。三井高利は延宝元年(1673)52歳の時越後屋(後の「三越」)を江戸に開店させた。今は当たり前とされる 「店頭販売」、「現金掛け値なし」の商法を打ち出し大成功をおさめたことで知られる。
松阪商人の館
松阪屈指の豪商小津清左衛門邸を公開したもの。広い屋敷内は、江戸店持ち松阪商人の智慧と文化を知ることが出来る。
長谷川邸
千本格子、虫籠窓、漆喰壁に墨をぬった黒色の妻入りの土蔵、そしてうだつの上がった屋根など落ち着いた佇まいの中に、江戸木綿問屋としての繁栄振りが覗える。 残念ながら内部非公開。
小泉見庵邸
長谷川邸の隣、本居宣長旧宅跡の向かい。小泉家は代々医師で、小泉見庵は本居宣長の友人で、吉野や飛鳥に宣長と旅をしている。 現在は宣長の長男・春庭の旧宅と本居家の土蔵が残っている。
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松阪城の近くに御城番屋敷に足を運んだ。城の警護を任された紀州藩士とその家族が住んでいた武家屋敷 で現在もその末裔が住み、管理しているという。 石畳を挟み両側に緑深い槙垣が連なる風景はしっとりとした和の情緒を醸しだすと、駅近くの観光センタ ーで貰ったパンフレットに書いてあったが全くその通りだった。 文久3年(1863)に建てられたそうで、現在例中では最大規模とのこと。ただ、片側列の武家屋敷は修理工 事中で青いシートで被われていた。以前訪れた時、武家屋敷の内1軒だけが内部を公開していたが、今回 見あたらなかった。多分現在修理中の武家屋敷の中に入っていたのだろう。 御城番屋敷の端に土蔵が建てられ、これは内部を公開していた。 城内隠居丸(現在 本居宣長旧宅辺り)に建てられていた米蔵を明治初期移したと言われている。 もし、これが事実ならば旧松阪城の建物として唯一現存する建物と言うことになる。 御城番屋敷から駅に向って行くと、殿町に出た。この辺りも美しく刈り込んだ深い緑の槙垣が続き、武家 屋敷が点在し、しっとりとした閑静な住宅街となっていた。この辺りは旧同心町と言い、同心と呼ばれる 武士が住んでいたところだとの事。 御城番屋敷から殿町に来る途中、松阪工業高校があったが、その校内に赤壁の校舎があった。 旧三重県立工業学校の製図室だ。旧三重県立工業学校は明治35年(1902)応用化学専攻の5年制学校として 全国にさきがけて開校した。当時は実験に使用する硫化水素の影響を受け建物の塗料が黒く変色すると考 えられていたため、校舎の外壁はすべて変色しない朱(硫化水銀)で塗られていた。製図室は明治41年(1 908)竣工した。外観を赤褐色に塗られた木骨を見せるハーフティンバー風の建物で、現存する唯一の赤壁 校舎だそうだ。 |



