ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

東海紀行

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桜(ソメイヨシノ)がそろそろ咲きかけた松阪城に足を向けた。

松阪が生んだ偉大な国学者本居宣長の鈴屋(スズノヤ)を訪ねようと思ったからである。

松坂城は松坂駅から徒歩で約10分のところにあった。

松阪城は蒲生氏郷が天正16年(1588)築いた平山城である。氏郷が会津若松に移封後、服部一忠、古田重勝

と城主が替わった。元和5年(1619)には紀州藩領となり城代が置かれた。

明治14年(1881)城跡公園になっている。当時の面影を伝える建物は一切なく、石垣だけが往時を偲ばせ

る。

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松阪城の城内を上っていくと、松阪市立歴史民俗資料館があった。明治43年(1910)皇太子の行啓を記念し

て建てられた飯南郡図書館で昭和52年(1977)まで松阪市立図書館として使用されていた。図書館が移転に

伴い松阪市立歴史民俗資料館となっている。

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城内の奥に「本居宣長記念館」があり、そこには本居宣長に関わる各種資料を展示説明してあった。

付属する施設として「鈴屋」(国指定特別史跡)があった。

鈴屋は宣長の祖父が隠居所として元禄4年(1691)建てたもので、宣長は12歳から72歳まで住んだといわれ

る。宣長はこの家で医者としての仕事をし、古典の講義をしたり歌会を開いたりした。

53歳の時、2階の物置を書斎に改造し、床の間に掛け鈴をさげたことから鈴屋(スズノヤ)と呼ばれる。

もと魚町にあったが、明治42年(1909)保存と公開のため当地に移築された。

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鈴屋の隣には唐破風玄関を持つ立派な建物の「鈴屋遺蹟保存会旧事務所」が建っていた。

明治42年(1909)本居宣長旧宅が松阪城隠居丸に移築された際建設されたもので、現在は茶席「桜松閣」と

なっていた。


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松阪城東麓に「本居宣長ノ宮」と言う神社があった。本居宣長を祭神とし、学問向上、受験合格にご利益

があるとかで、受験シーズンには参拝者が多いとか。

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社頭                                社殿


ーー本居宣長関連記事ーー

松阪商人町をぶらり・松阪3  : 本居宣長旧宅跡、 親友小泉見庵邸

松阪寺社町ぶらり・松阪4  : 本居宣長夫妻墓、長男春庭夫妻墓

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JR名古屋駅から地下鉄に乗り、覚王山で下車し、地上に出るとそこは日泰寺の参道であった。

1898年英国の考古学者がネパールに程近いインド北部の古墳から人骨が納められた紀元前3世紀頃の古代

文字が刻み込まれた壺を発見した。文字を解読した結果、人骨は佛舎利と判明した。

当時インドを統治していた英国政府は、唯一の独立国家の仏教国であるタイ王国(当時はシャム)に寄贈

した。タイではバンコクのワットサケート寺のプーンカオ・トーン(黄金の丘)に安置した。

覚王山日泰寺は我が方の懇請により、明治33年(1900)タイ(当時シャム)から寄贈された佛舎利を祀るた

め、明治37年(1904)に設立された我が国唯一の超党派の国際的寺院である。(19宗派の管長が3年交代

で住職を務めている)

山号は釈迦を表す「覚王」、寺号は日本・タイの友好を願い「日泰寺」と名付けられた。


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山門


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境内(本堂、五重塔)
本堂にはタイ国王から送られたタイ国宝の金剛佛の釈迦如来像を本尊として安置し、外陣正面には新本堂落慶を祝し、現国王プミポン陛下より送られた勅額がかかげてあった。タイ文字で「釈迦牟尼佛」と記されている。


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奉安塔
タイから贈られた佛舎利を奉安するもの。高さ15mのガンダラー式の一大石造塔だが、手前の拝殿で遮られ、台座の一部を垣間見ることができるだけだった。


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慰霊塔
奉安塔の北西に巨大な鉄砲玉のような形をした慰霊塔が建っていた。
日清戦争により戦死した第一軍の762名を慰霊するもので、当初は広小路の終端である武平町に建てられたが、広小路通りの延長に伴い、大正9年(1920)現在地に移されたものだ。


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東山給水塔
日泰寺の境内、特に奉安塔、慰霊塔辺りから、西の方に眺められる三角屋根の塔だ。
昭和48年(1973)に43年に及ぶ使命を終え、昭和54年(1979)に常時300㎥を蓄える災害対策用の応急施設に生まれ変わった。このトンガリ屋根の展望台は昭和58年(1983)に設けられた。毎年”春分の日”と”水の日(8月1日)”に公開され、展望台に上ることが出来る。塔の内部は資料館となっていて名古屋の近代水道の歴史を知ることが出来る。
20時ごろ名古屋駅に着いた。

東側が嫌に輝いていると思って足を運ぶと年末恒例のイルミネーションだった。

名古屋駅の東側壁面は今年も綺麗なイルミネーションで輝いていた。

寒いのを忘れて暫し見とれていた。


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東海道新幹線で東京に向かっていて、掛川駅を通過する時、左手車窓から小さい城が見える。

これが掛川城だ。久しぶりに途中下車して行ってみた。JR掛川駅から徒歩で約5分の所にある。

この城は室町時代中ごろ、駿河の今川氏が遠江進出を狙い家臣の朝比奈氏に築城させたのが始まりだ。

その後、今川氏が衰退滅亡とともに徳川家康の手に落ちる。

だが、天正18年(1590)豊臣秀吉によって、家康が関東に移封されると山内一豊が約5万石の大名として入

城した。

一豊は10年間在城したが、この間に大規模な城郭に修築した。

関が原合戦時山内一豊は、この城とともに5万石を家康に掛け、結局高知24万石を得ることになった。

江戸時代は譜代大名が引き継いだ。天守閣は1854年(嘉永7年、安政元年)の大地震によって倒壊

し、その後は再建されなかった。

明治には廃城にされたが、現在のは、平成6年(1994)天守閣などを本格木造建築物として復元されたもの

だ。

近くに掛川城御殿があるが、江戸時代後期の建物で全国に数箇所しか残っていない貴重な物である。


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         掛川城全景(太鼓楼ー四足門ー天守閣


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         掛川城天守閣


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         御殿玄関


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          御殿より掛川城
名古屋の中心、テレビ塔の南北に広がるセントラルパークを六時半頃ぶらつきました。

蝉の鳴き声はうるさいですが、散歩する人はまばらで、走る車の数も少ないです。

しかし、ベンチには暑さに耐えかねてでしょうか、既に休んでいる人が結構いました。

愛知芸術文化センター、NHKの前のオアシス21の楕円形の屋根は水盤になっていると以前記しまし

た。 しかし、今朝、始めて気が付きました、水盤の底が透明になっていることを。

屋根の下から見上げると、はるか上の屋根となっている水盤の水が揺らいでいるのがよくわかりました。

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