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熱田神宮から南に進むと、やがて、堀川と新堀川が合流するところにある宮の渡し公園に着いた。 東海道53次の41番目のここ宮の宿から桑名の宿を結ぶ、唯一の海上路、七里の渡し場跡だ。 当時のものは何も無いが、復元整備した公園として開放されていた。 熱田湊の常夜灯(復元)や時の鐘櫓(復元)が渡し場の雰囲気を出していた。 明治29年(1896)建てられた料亭「魚半」。後年会社社員寮に使われたが現在高齢者福祉施設として使用されている。建設時期は明治であるが、近世の町屋の形式を継承しており、旧船着場に面して建ち、宮の宿の景観を偲ばせている。 |
東海紀行
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熱田神宮の本殿などの社殿は戦災で焼失し、戦後再建されたものだ。 しかし、境内をぶらぶら歩いていると、焼失しなかった史跡を見つけた。
これはあまりにも有名だ。歴史書にこの写真が紹介されている。 「織田信長が桶狭間での戦勝を感謝して奉納した」と、伝えられる瓦葺の築地塀で、 参道の左右を、横切るように広がっている。
名古屋で最古の石橋だそうだ。板石25枚並んでいることからこの名が付いたと言われる。 西行法師もここで休んだと伝えられ、名古屋甚句にも唄われている。
当神宮に守護を祈り、難を逃れたので、寛永7年(1630)御礼に寄進したもの。 正参道を東参道が交差するところにある。 高さ8.25m、形も六角形で雄大な相を持つ。 江戸時代から三大灯篭の一つとして知られる。
元本宮の北門といわれている。 俗に「不開門(アカズノモン)」と言われている。 天智天皇7年(668)新羅の僧が神剣を盗み出し、この門を通ったと言われ、以来不吉門として忌まわれたとも、朱鳥元年(686)神剣還座の際門を閉ざして再び皇居へ御動座無い様に門を閉めたとも伝えられる。 |
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梅雨明けした名古屋は当地名物?の蒸し暑い。 久しぶりに熱田神宮に足を向けた。 熱田神宮は、3種の神器の1つ、日本武尊が宮簀媛命に残したと伝える草薙剣を御霊代とする熱田大 神、すなわち天照大神をを祀っている。 まず、拝殿前にて礼法に従って参拝。願い事は中越地震からの早期復興だ。 ここの清水を飲めば長寿と誰かに聞いた覚えがあるが、清水には多くの落ち葉があり、水の流れもほとんどなく飲む気にはなれなかった。 やっぱり、長生きはできそうもない。 八剣宮は和銅元年(708)鎮座と伝えられ、祭神は本宮と同じ 年中の祭儀も本宮に準じて斉行されているとのこと。 |
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JR安城駅から約2kmのところに安祥城祉があった。 城祉と言っても寺の前に「安祥城祉」の碑が立っているだけだ。 寺は「安祥山大乗寺」、その隣は当時から崇敬を集めている「八幡社」があり、 それらが、城祉だったことをうかがわせた。 安祥城は、室町時代中期の永享12(1440)年頃築城され、初めは「森城」と呼ばれた。 その後徳川氏の前身松平氏の4代50余年間居城となっていた。 松平氏が岡崎城に移ると、今川・松平と隣国尾張の織田との間に攻防戦がくりひろげた。 しかし、桶狭間の戦以後廃城となった。 |
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二川宿は東海道33番目の宿場だ。 JR二川駅で下車、東へ10分位歩くと 現在は二川宿本陣資料館となっている二川宿本陣があった。 東海道筋では草津宿本陣と共に数少ない現存する遺構の1つだ。 訪れたのが月曜日、少し危惧していたのだが、やっぱり休館日で中に入れず、外から眺めるだけだった。 二川宿は天保14年(1843)には、本陣、脇本陣夫々1軒、旅籠屋が38軒が軒を連ねていたという。 JR二川駅から本陣に向って歩いていると、祠と石灯篭の傍らに高札場跡の碑があり、また本陣から更に 東に進むと、駒屋という木格子の商家跡があった。 宿場近くには松音寺、大岩神明宮といった江戸時代からの寺社があり、規模こそ大きくはないが歴史を感 じさせるものだった
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