ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

東海紀行

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白川郷(萩町)には、前回平成20年3月末、まだ雪が残っている頃に訪れた。
当時は、まだ東海北陸自動車道が全線開通していなくて、荘川ICから一般国道を通って白川郷に入った。
天気があまり良くなかったものの、残雪の白川郷は素晴らしかった。
秋にも来てみたいと、その時思った。
今回も天気は余り良くないが、東海北陸自動車道は全線開通していて、容易に白川郷に行ける様になっているので、寄って見た。
白川郷や合掌造りの民家について前回の記事で記したので、今回は秋の白川郷の風景写真を紹介するだけにとどめる。
ただ、今回町の中を歩いていて、特に気が付くのは、合掌造りの家屋の多くが、土産物屋であったり、食堂であったり、民宿であったりして、いわゆる観光客目当ての商売の家になっていることである。
白川郷は、山里の素朴な農村という(勝手な)イメージは薄まり、まるで合掌造り家屋のテーマパークの中にいる様な気分であった。
 
イメージ 1
駐車場前の合掌造りの建物
 
イメージ 2
であい橋
せせらぎ公園駐車場から庄川に掛かる「出会い橋」を渡り、白川郷に入る。
 
 
イメージ 3
長瀬家
先祖が前田家の御典医だったという長瀬家の合掌造りの家。明治23年(1890)建築された。
白川郷で最大級の合掌造りの民家、現在公開されている。
平成13年(2001)の大屋根葺き替えの際は、NHKが、その1年間の過程を撮影記録し 、ドキュメンタリー番組として放送したそうだ。
イメージ 4
 畑の中の合掌造りの民家
駐車場近くに野外博物館合掌造り民家園があり、そこでは県重文に指定されている9棟が集まっている。

飛騨の小京都、高山

久し振りに高山に寄った。   高山へは度々来ているが、前回来たのは前世紀の
平成11年(1999)8月だった。
 
天気が悪いので人出は少ないと思っていたが、ずいぶんと多かった。観光日和であればどうなっているのだろうと、余計な詮索をしてしまった。
 
古い町並みの風景は変わっていない。
 
変わっていないと、何故か安心感を覚える。
 
みたらし団子や飛騨牛を使ったコロッケをほおばりながら小1時間散策した。
 
 
イメージ 1
古い町並み
旧高山市中心部は江戸時代以来の城下町、商家町の姿が残っており「飛騨の小京都」と呼ばれている。
 
 
イメージ 2
高山陣屋跡
元禄5年(1692)徳川幕府は飛騨を幕府直轄領とした。
明治維新に至る177年間に25代の代官・郡代が江戸から派遣された。その役所を「高山陣屋」である。
高山陣屋は、全国に唯一つ現存する徳川幕府郡代所を保存する為平成8年(196)に復元修理された。
内部は、玄関、大広間、座敷、庭園、役宅、吟味所・白洲、御蔵などからなっている。
 
 
 
 
 
 
イメージ 3 高山市政記念館(旧高山町役場)
明治28年(1895)完成、
昭和43年(1968)めで市役所として使われ、その後公民館として使用された。
昭和61年(1986)高山市政記念館として公開
 
 
 
 
 
 
 
 
なお、市域は平成17年(2005)旧高山市を中心に周辺9町村を編入合併し、日本一広い市町村になった。
面積は、香川県や大阪府より広く、東京都とほぼ同じだそうだ。
 
イメージ 4
散策マップ
 
 −−   関  連  記  事   −−
 
 
錦秋を求めて、長野県と岐阜県の境の新穂高温泉にやって来た。
今年は紅葉が遅れていると言われて、ここも例外ではないようだ。
しかし、平地とは違いそれなりに紅葉は進んでいるが、今にも雨が降りそうな天気で霧がかかり映えない。
更に、晴天なら眺められる筈の、奥穂高岳(3190)、涸沢岳(3110)、北穂高岳(3106)、南岳(3033)、中岳(3101)、槍が岳(3108)といった3千m級の峰々が雲で全く見られなかった。
標高1308mのしらかば平から、新穂高ロープウエー(ゴンドラは2階建だ)で標高2156mの西穂高口に上ってみたが、雲の中に突っ込んだようなもので、周囲は霧で景色は何も見られなかった。
 
イメージ 2
 
しらかば平からの風景
 
雲で穂高連峰の勇壮な姿は全く眺められない
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 1
ゴンドラの窓からの景色
遅れているとは言え、紅葉が相当進んでいるが、天気が悪いので冴えない。
大垣市内の中心部には水門川が流れている。
川沿いには城下町の名残りのものや、「奥の細道むすびの地」を売り物にしている関係からか芭蕉句碑などがある。
3月頃船町あたりを歩いたので、今回は新牛屋橋辺りから歩き始めた。しかし、程なくして、最上橋辺りに来た時天気が急変し、雨が降り出したので今回の散策はそこで中止した。
 
 
イメージ 1
岐阜町道標
 
新牛屋橋北東にある愛宕神社境内前に建っていた。
高さ3m余りの角柱状の常夜灯
文政5年(1822)石工の中谷甚平光景が岐阜町から美濃路への南出口に建立
その標面には美濃路を往来する旅人への道案内として、
正面に「右 きそ路  左 京みち」
左面には「北たにくみ道」とあるほか、道中の安全を願い梵字が右面に8文字、左面の上部に1文字深く彫りこまれている。 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2奥の細道矢立初の句碑
芭蕉は深川の草庵を人に譲り、元禄2年3月27日(1689・1・16)早朝隅田川を舟で下り千住大橋北側あたりに上陸したと思われる。
「千じゅと云所にて 舟をあがれば前途三千里のおもひ
胸にふさがりて 幻のちまたに 離別の泪そそぐ
『行春や 鳥啼魚の 目は泪』
これを矢立の初として 行道をすすまず  人々は途中立ちならびて 後かげのみゆる迄はと 見送るなるべし」
                  (松尾芭蕉「奥の細道」)
 
 
 
イメージ 3
芭蕉句碑 日光
 
「あなたふと 青葉若葉の  日の光」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
 
「掘抜き井戸発祥の地」碑
平和橋近くにあった。
天明2年(1782)岐阜町こんにゃく屋文七が、川端に2mほどの穴を掘り、そこに5mの木材を打ち込み、その後に節を抜いた青竹を打ち込んだ。するとその竹の先から綺麗な水が噴出したという。
これがこの地方における掘抜き井戸の始めである。
 
 
 
 
 
イメージ 5芭蕉句碑 遊行柳 
 
「田一枚 植えて立去 柳かな」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6
芭蕉句碑 須賀川
 
「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7
 
栗屋公園自噴泉
 
大垣市内に多くある自噴泉の一つ

津城址から駅に向った歩いていると、途中駅近くで、聖徳太子厄除け祈願所という寺があったので寄って

みた。

馬宝山蓮光院初馬寺という真言宗御室派のお寺で、伊勢西国三十三所霊場西17番札所、三重四国第64番霊

場でもある。

門前の由緒書から紹介すると、推古天皇22年(614)聖徳太子42歳の厄年の時、四天王寺建立の為当地に来

たが、運悪く病に罹れた。加えて、都の母、妃も不例との報があった。

心痛の上、伽藍造営も進ます困惑の時、太子の師、高麗の僧慧慈の教示により自ら本尊・馬頭観世音を彫

られ、大日如来、阿弥陀如来を慧慈と慧聡に刻ませ、鬼門の方向に草堂を建てて安置し、奈良法興寺の善

徳僧正を召されて厄難消除の法を修せられた。

その結果、太子及び家族の病は平癒し伽藍造営も順調に進み竣工するに至った。

この時推古天皇26年(618)3月初午の日だったと伝えられる。

爾来変遷を経ながら元和3年(1617)には国家鎮護の道場となり、その後藤堂家の祈願所となり藩下唯一の

厄除け観音(津の初牛さん)として栄えてきた。

寺には重文の、大日如来坐像(平安初期作)、阿弥陀如来坐像(平安末期作)を所蔵している。

イメージ 1 本堂
太子自刻と伝えられる本尊馬頭観音像が秘仏である。


イメージ 2 水掛魚籃 観世音
九鬼浦の漁業不漁のとき、この観音様の霊感を得て奉祀祈願したところ大漁を得たと伝えられる。
向って右隣は不動明王立像。

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