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津駅から約2.5kmのところに津城があった。
現在は、本丸跡が洋風庭園に、西の丸跡が和風庭園になる城址公園となっている
が、一部の石垣と内堀、隅櫓が復元され往時の面影を残している。
公園内をぶらぶら歩いてみると、緑が多く、街中にある所為もあって、木陰で休む人
や、幼い子供を遊ばせている若いお母さんの姿を見かけた。
そして、本丸跡中央には藩祖・藤堂高虎の騎馬像が建っていた。
津城は永禄年間(1558〜1570)に安濃津城として建てられ、その後織田信包(ノブカネ、
織田信長の弟)が城郭を整えた。信包は信長が伊勢に勢力を伸ばして来た時、長
野氏の養子に入ったものである。
天正8年(1580)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近に中心があった津の町
から町家や寺院を移され城下町が作られた。
その後富田氏が城主になり、慶長5年(1600)関が原の戦の時、西軍の攻撃を受け、
城、城下町とも戦火を受けた。
慶長13年(1608)藤堂高虎が伊予今治から伊勢・伊賀22.4万石の領主(後に32.3万石
に加増)として移ると、城に大改造を」加え、城下町を整備した。
津城は天守閣が再建されなかったが、典型的な平城で、堀が「回」の字型に二重に
巡っている輪郭式または囲郭式といわれる形の城だった。
外堀は完全に埋められ市街となっており、本丸、西の丸跡は公園となっていること
は冒頭に記したとおりである。
復元された隅櫓
藤堂高虎公像
入徳門
文政3年(1820)創設された藩校「有造館」の講堂の正門。
明治4年(1871)廃校後幾多の変遷を経て、昭和45年(1971)現在地二ノ丸跡に移されたもの。
昭和61年(1986)〜昭和62年(1987)に保存修理が行われた。
内堀
高山神社
藤堂高虎を祀る。
明治9年(1876)創建
津城に接して建てられていた。 |
東海紀行
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一宮市へ来た序でに、一宮の名古屋よりの隣、稲沢市に寄った。名鉄「国府宮」の駅名からここら辺りに 尾張国府の名残りがあるのではないかと、極めてアバウトな考えで、名鉄国府宮駅を降りた。 駅近くには、史跡や観光を案内する地図や標識、看板がなく、勿論観光案内所もない。要は手がかりは全 くなかった。 やむをえず(迷惑を承知で)駅員さんにきいたり、市役所や観光案内所などに電話で聞きだしたりして やっと分った。 名鉄「国府宮駅」から北西に5分ほど歩いた所にある「松下公民館」の右脇に建っていた。 碑だけで礎石とかいったものは一切無く、碑が立っている奥には小さなお社があったのみであった。 国衙址碑から東に向っていくと「赤染衛門歌碑公園」があり、そこに歌碑と衣掛けの松跡碑が並んで建っ ていた。 赤染衛門は和泉式部と並び称される平安時代の女流歌人だ。大隈守赤染時用(トキモチ)の娘で、父が右衛門尉 であったので赤染衛門と呼ばれた。 彼女は、夫の大江匡衡(マサヒラ)が尾張の国司として赴任に伴い、長保3年(1001)と寛弘6年(1009)の2度稲沢 に下向したと伝えられる。 国に行きつきたりしに はつ雪のふりしに はつゆきと おもほへぬかな このたびは 猶ふる里を 思ひいでつつ 匡衡 めずらしき ことはふりすぞ 思ほゆる 行きかへりみる ところなれども 衛門 夫の大江匡衡が2度目の赴任した際、初雪が降り、住み慣れた馴染みの土地である尾張に帰ってきたことを思い出しながら詠んだのを、妻である赤染衛門は今度の旅は再び見る昔馴染みの所ではあるが、初雪はやはり新鮮な気持ちで鑑賞される、と詠んだもの。 赤染衛門がここに住み、この松に衣をかけたと伝えられる。
更に東に進み、名鉄線路踏切近くに建っていた。 尾張の国司として赴任した大江匡衡の大きな業績の中で、尾張学校院の再興である。 学校院は儒教の地方への教化と官吏養成や人材登用を目的として国ごとに設置された。 名鉄線路を渡り5分ほど歩くと国府宮があった。 鳥居にかがげ掲げてある扁額には「尾張総社 国府宮」とあった。 国府宮の正式名称は「尾張大国霊神社であり、毎年、旧暦正月13日に行われる裸祭り「儺追神事(ナオイシンジ)」が有名である。 国府宮参道 社頭から楼門までに続く参道の両脇は桜並木となっており桜が満開だった。 4月1日から4月11日稲沢桜祭りが行われている。 室町時代初期の建立で正保3年(1646)解体大修理が行われ、上層を改造した。 祭神は尾張大国霊神で、農業、商業守護の神、厄除けの神として広く信仰されている。 拝殿は江戸時代初期建立 「なおいぎれ」は幅2.5cm、長さ25cmの紅白の布でできた御守。 1年間守護していただいた「なおいぎれ」を柵に結んでお返ししてあった。 国府といえば、国衙、総社、国分寺・国分尼寺がセットである。国分寺・国分尼寺の跡も稲沢市にあると のことだが少し距離があり、且つ地図で確認しておかないと空振りになる恐れがあるので今回は訪ねるの をやめ、次回の楽しみに残しておくことにした。
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名古屋に来た序でに、Kさんに誘われた一宮に来た。 尾張国一宮の真清田神社に参拝し、木曾三川公園の桜を見るためだ。 JR尾張一宮駅下車し、本町商店街を通ると徒歩10分弱で真清田神社の前に来た。 真清田(マスミダ)の名は当地に於いて木曽川の清く澄んだ水による水田地帯が形成されていたことによるも ので、真清田神社は尾張国随一の鎮守様として地域住民から篤い崇敬を集め、時の為政者からも支援を受 けた社殿等の境内整備を行われてきたが、昭和20年(1945)空襲にてほとんど焼失した。現在見られるのは 戦後再建したものだ。 既に鯉のぼりがぶらさげてあった。しかし、シャッターを閉じている店舗が多かった。 昭和39年(1964)再建 昭和32年(1957)再建、祭神は天火明命(アメノホアカリノミコト、天照大御神の孫。 真清田神社の摂社。祭神は萬幡豊秋津師比賣命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト 天火明命の母神様)で機織の神様だ 昭和40年(1965)造営 かってはこの地方が織物産業が盛んだった(現在はすっかり衰退しているとのこと)ことから信仰を集めた。現在では「縁結びの神様」として若い女性の信仰をあつめているとか。 参拝の後、車で10分ほど比の所にある木曾三川公園へ行く。木曽川の支流・南派川の河原に広がる公園 で、桜は満開だった。中央にツィンアーチ138という塔が建っていた。2本の双曲線アーチと中央のエ レベーターシャフトが特徴の塔で、138というのは一宮(いち→1、み→3、や→8)の語呂あわせ で、高さも138mあるとか。(以上はタクシーの運転手さんの説明) 正式名称は国営木曾三川公園南派川地区センターで、平成7年(1995)竣工 100m高さの所に展望台があるが先を急ぎたかったので上がることはしなかった。 ツィンアーチ138 |
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大垣の中心市街を流れる水門川をぶらぶら歩いた。川岸には芭蕉の句碑が多く建っていた。
松尾芭蕉は、大垣には俳友谷木因(タニボクイン)が住んでいたこともあって、貞享元年(1684)「野ざらし紀行」の旅の途中によったのを始め、元禄4年(1691)までに計4回来垣している。
特に、元禄2年(1689)の秋、世に名高い「奥の細道」の5ヶ月余の旅をここ大垣で終えている。
そう言う関係から「奥の細道むすびの地 大垣」の看板があったり、水門川沿いに「奥の細道むすびの地記念館」や「奥の細道むすびの地碑」があり、「奥の細道むすびの地大垣」を大いに売り出しているようだ。
水門川
両岸の桜はまだ4、5分咲きだった。
水門川は大垣を南流し揖斐川に合流する運河で、永禄4年(1561)大垣城主氏家直元が城地改築の際開堀したと伝えられる。
江戸時代には大垣初代藩主戸田氏鉄(ウジカネ)が改修し、この地方の水運の発展に貢献した。
住吉燈台・船町港跡
船町港は江戸時代から明治にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港。明治16年(1883)には桑名ー大垣間に蒸気船が就航したが昭和に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。
住吉燈台は元禄年間(1688〜1704)前後に建てられたもの。
高さ約8mある。
奥の細道むすびの地碑
住吉燈台、船町港跡の対岸に建っていた。
左:松尾芭蕉 右:谷木因
元禄2年(1689)3月27日江戸深川を出立した芭蕉は門人曾良と共に奥州から北陸を経てここ大垣で旅を終えた。
9月6日には俳友の谷木因や近藤如行ら大垣の俳人たちに見送られて伊勢神宮遷宮参拝のため、この船町港から桑名へ見送った。
参考:奥の細道矢立初の句碑
南いせ くわなへ十り ざいがうみ
ここの道標は複製で、本物は近くの「奥の細道むすびの地記念館」に展示したあった。
中:蛤塚
蛤の ふたみに別 行秋そ 芭蕉
「奥の細道」むすびの句
左:木因白桜塚
惜むひげ 剃りたり窓に 夏木立 白桜下(木因)
露通も このみなと迄出むかひて 美濃の国へと伴ふ
駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて如行が家に入集る
前川子・荊口父子、其外したしき人々 日夜とぶらひて、蘇生のものに あふがごとく 且つよろこび 且ついたはる。
旅のものうさも、いまだやまざるは、長月元日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又ふねに乗りて
蛤の ふたみに別れ 行秋ぞ (松尾芭蕉「おくのほそ道」)
蛇 足駅に戻る途中、大垣城に寄ってみたが、現在平成23年3月4日まで修理工事中で工事用のネットが張られていた。
大垣城の西側には大垣藩初代藩主戸田氏鉄の騎馬像が建っていた。
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如来堂の西側の築地塀に沿って奥に進むと、開祖親鸞の御廟があった。 白い玉砂利の先には鬱蒼とした樹木が茂り、専修寺境内のなかでも静寂な雰囲気をもつ一画である。 手前(南)から奥(北)に向って、両脇に透塀をもった唐門、拝堂、石橋と続き、その奥に親鸞の墳墓と それを取り囲むように歴代上人の墓碑がある。 御廟全景 唐門の両脇から東西に連なる瑞垣は桧皮葺の屋根の下に菱格子が中に透けて見える透塀で、その腰周りに は水仙、蓮、などの水草、タンポポの様な草花を題材にした彫刻が嵌め込んであった。 唐 門 唐門は文久元年(1861)の建築で、桧皮葺(保護のためか、ネットを被せていた)の屋根、平入りの門で、 長押や柱の間や扉など隅々まで彫刻で埋め尽くされ工芸品のような美しさを持っていた。 拝 堂 拝堂は安政5年(1858)の建築で、屋根の正面と背面に千鳥破風をつけ、正面軒に唐破風をつけている。 墓 域 拝堂の裏、石橋(太鼓橋)を渡ったところが墓域であった。 裾廻りを切石で囲んだ土饅頭の頂上に石門と石柵で囲まれたところが親鸞聖人の墳墓で、墓標もなく、た だ四角形の石が置かれているのみである。 寛文12年(1672)専修寺に伝えられていた親鸞聖人の遺骨(歯骨)5粒埋めて造成されたものだそうだ。
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