ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

東海紀行

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:)は現在神戸に住んでいるが、本籍地は名古屋である。

両親は神戸に移ってから半世紀経っているので本籍地を移してもよさそうであるが、先祖の地に愛着が

あるのであろうか、特に不便はないということでそのままになっている。

その地は、戦後の区画整理で道路になっていると聞いていたが、両親もよく知らないらしい。

そこで、所用で名古屋に赴いた時、伯父に尋ねた所、さすがによく知っており、案内してくれた。

今は大須○○となっているが、地名変更前は小林町と言い、矢場町近くの若宮通りであった。

若宮通りの南側、東は前津通り(久屋大通)、西は大津通に挟まれたところに清浄寺というお寺があり、

戦国時代小林城という城があった。

これが当地の名残という。

小林城については、参道の入り口の説明板によれば次の通りであった。、

天文(1532〜55)のころ尾張の守護斯波氏の一族である牧長清が居城し、前津・小林4千国を領した。

牧長清は織田信長の妹を妻にして織田氏とも縁が深かった。

夫人は人々から親しみを込めて小林殿と呼ばれていた。

長清は老後、参禅して仏門に帰依し、その死後小林城は廃城となった。

城跡は、尾張藩二代藩主徳川光友の剣術師範を務めた柳生新陰流の達人・柳生兵庫の屋敷となった後、元

禄年中(1688〜1704)ここに清浄寺が建てられた。

ビルの中に建つ清浄寺は徳壽山と号し、浄土宗の寺で、ビル群の中の東西に細長い境内に、地蔵尊、芭

蕉・馬州句碑、牧氏墓所などがあった。


イメージ 1清浄寺参道
大津通りに面する。
入口左に「清浄寺表参道」
  右に「浄土宗 清浄寺 矢場地蔵尊」
  の石標が建っている。




イメージ 2芭蕉・馬州句碑




イメージ 3牧氏墓所
戦後の都市計画で平和公園の当寺の霊園に
移されていたが
平成2年(1990)現在地に移された。



イメージ 4延命大地蔵菩薩
平成3年(1991)8月建立
高さ5m、重さ3t



イメージ 5表門
前津通りに面している。
「徳壽山」の額が中央に掲げてあった。
先週の金曜、土曜に友人たちに連れられて、一泊二日の旅程で下呂温泉に行った。
 
近畿・東海地方は7月17日に梅雨明け宣言があり、晴天が続いていたが、日ごろの行いの善くない者がいたのだろうか?この二日間だけは断続的な雨で、観光地を巡るという観点からはほとんど成果はなかった。
 
合掌造りの村で知られる白川郷(荻町地区)にも行った。
城山展望台に着いた時は曇天ながら、眼下にポスターなどで馴染みの風景が眺められた。
 
は、白川郷へ数度来たことがあるが、この城山展望台へは初めてで、この風景には感激した。
 
しかし、展望台の近くにある土産物店兼の食堂で、昼食をとっている間に激しい雨になり、風景は隠れていた。
 
それでも、友人が是非案内したいというので、一応白川郷に入ったが、雨が続き、車の外へ出る気も起こさず、そのまま帰路についたのだった。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
昭和8年(1933)日本を訪れたドイツの建築家ブルーノ・タウトは日本建築の美にふれて、その美しさを世界に広めた最初の建築家である。
 
そのブルーノ・タウトは白川郷の合掌造りの家屋を目にして「建築学上合理的であり、かつ論理的である」と評した。
 
また、この集落を「この風景は日本的でない。少なくとも私がこれまで一度もみたことのない景色。これはスイスか、さもなければスイスの幻想だ」と絶賛した。
 
 
    関 連 記 事
 
 

桶狭間の古戦場址から帰るとき、Zさんに大津陸軍少年飛行兵学校跡へ行ってきたことを話した。

そのことから特攻隊の話になり、とうとう豊田市猿投にある「草薙隊之碑」を見に行くことになった。

Zさんは、国道一号線を岡崎方向に走り、知立を過ぎたあたりで左に折れ北上していった。

やがて豊田市猿投町に入った。

あるところで、内陸部にもかかわらず、道路は平坦で一直線となっていた。

Zさんによれば、この辺りは戦時中特攻隊の基地だった海軍の飛行場があった為とのこと。

後で分ったことだが、そこは名鉄浄心駅から(車で)5分ぐらいの所であった。

草薙隊之碑はそこにある小公園の隅にあった。

「草薙隊之碑」と自然石に深く彫られた碑と側に銘文碑があり、前には「為万世 開太平」と

記された32cm砲弾が左右に供えられていた。


イメージ 1


銘文は次のようであった(片仮名は平仮名に変えた)。

此の地は 昭和17年4月1日開隊 昭和20年9月2日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり。

昭和20年春 当地に於いて神風特別攻撃隊草薙隊編成され、4月5日、12日の両日各20機の

九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出、菊水1号、2号、4号作戦にに参加。

同月6日、12日、28日の3次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦に突入す。未帰還28機 戦死56名。

彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎えるにあたり有志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人

本碑を建立し草薙隊の忠烈を永く後世に伝へんとするもの也。 昭和47年4月吉日 豊田海友会

なお、碑前の32cm砲弾は、長さ1m、直径32cm、重さ450kgある。

日清戦争時、世界最強戦艦といわれた清国の「定遠」、「鎮遠」に対抗するため、日本海軍の海防艦「松

島」、「橋立」、「厳島」に搭載した主砲砲弾。

砲弾に書いてある文字は、終戦の詔勅の中ににある「萬世の為に太平を開かん」と言う言葉からとられた

もの。

おけはざま山のほぼ西に位置する「桶狭間古戦場公園」から南に200mほど歩くと長福寺が建っていた。

和光山天沢院(ワコウサンテンタクイン)と号し、天文7年(1538)善空南立(ゼンクウナンリョウ)上人によって創建された西山浄

土宗の寺院である。

寺伝によれば、永禄3年(1560)桶狭間の戦の時、上人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者とな

って率先酒食を提供し、その労をねぎらったとある。

本尊の阿弥陀如来像は、今川義元の茶坊主・林阿弥が義元供養の為納めたものと伝わる。

又、寺宝に、今川義元と家老・松井宗信の木造を所蔵する。

合戦当時、桶狭間は原野と畑が広がっていた。そして桶狭間古戦場公園東側から長福寺前には小川が流れ

ており、合戦の際、人馬の血と雷雨で真っ赤に染まり、馬の鞍鎧などが流れたので、鞍流瀬川(クラナガセガ

ワ)と呼んでいたそうだ。

しかし、今はすっかり宅地化が進み畑地が僅かに残るだけであり、戦死者の霊とも謂れるほど源氏ボタル

が飛んでいた鞍流瀬川も昭和61年(1986)埋められて姿を消している。

イメージ 1 瀬名伊予守氏俊陣所跡
古戦場公園から長福寺に向かう途中に碑が建っていた。
永禄3年5月17日義元の家臣・瀬名氏俊隊約200名が先発隊として着陣。
村上、追分(大府)、大高、鳴海方面の監視と大将今川義元が19日昼食する時の本陣を設営した。
陣跡の竹やぶを、里人は瀬名氏俊を偲び、「セナ薮」、「センノ薮」と呼んでいた。
昭和61年(1986)池の堤防工事により薮も取り壊され、今は竹を僅かに残されている。




イメージ 2 「桶狭間古戦場由緒地跡」碑
長福寺寺標の石柱の後に建っていた。
哀れな戦死者を寺の阿弥陀如来に託す為、鞍流瀬川に浄土橋を架け、極楽往生を願った。
昭和61年(1986)の区画整理で鞍流瀬川も浄土橋も姿を消した。


イメージ 3 義元首検証之跡
長福寺境内の大杉附近で林阿弥が首検証を命じられ、後供養した所。
供養杉は伊勢湾台風で枯れ、2代目の杉である。



イメージ 4 桶狭間合戦供養塔
境内中央に建っていた。



イメージ 5 徳安風生翁句碑
供養碑の近くに置かれていた。
徳安風生は東大卒後逓信省に入り、同省次官に栄進した一方俳人としてもその才能を発揮し、ホトトギス派の重鎮として活躍した。
日本芸術院会員、勲一等瑞宝章叙勲 昭和54年(1979)没
昭和24年(1979)頃当寺を訪れ、今川義元の木造に供えた「額の花」を読んだ句
木像に そなへて暗き 額の花

弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物算を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くずれ逃れけり。

・・・・服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。 

毛利新介、義元を伐り臥せ、頸をとる。(太田牛一「信長公記」首巻)



再び国道1号線に出て、名古屋方面に約500m行った「桶狭間」から南に入りる。

約1km行った「幕山」で左手(東方向)に入ると、桶狭間古戦場公園があった。

田楽坪とも言われ、織田軍に急襲され、討取られた今川義元最後の地といわれている。

園内には「今川義元馬つなぎのねずの木」、「首洗いの泉跡」、「駿公墓碣(スンコウボケツ)」などがある。

また、戦450年を記念し、桶狭間に意たる史跡を配したジオラマ公園となっていた。

「信長公記」などの記述に拠れば、今川義元は、永禄3年(1560)5月12日駿・遠・三の2万5千余(「信長公

記」では4万5千)の兵を率いて駿府を出発、5月18日には沓掛城に入り、翌19日8時ごろ大高城に向け出発

した。

御敵今川吉本は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の息を休めこれあり(「信長公記」首巻)

先発の瀬名氏俊が設営した「おけはざま山」の陣地に入り、今朝方落城させた鷲津・丸根砦の戦果を聞き

ながら休息していた。

昼頃、天気が急変し、雷雨となり、落雷により今川本体は大混乱状態になった。

他方、織田信長は19日4時ごろ清洲城で、鷲津・丸根砦が今川軍の攻撃を受けた報告を聞き、幸若舞の「敦

盛」を舞い、直ちに出陣した。 清洲城を出た時は主従僅か6騎。

8時ごろ熱田の宮に到着し、戦勝祈願する。その頃には千人余となっていた。

10時ごろ善照寺砦に着く。本陣をここにありと見せかけて、3千人余となった軍勢を雷雨の中を今川本陣

近くの釜ケ谷に進めた。

雨が止むや間髪をいれず今川軍に突撃した。

今川義元は織田信長家臣・服部小平太を切り倒すなどして応戦したが、最後は毛利新介に首を取られた。


イメージ 1 桶狭間古戦場公園入口



イメージ 2 近世の曙
槍を持つ織田信長と弓を手にする今川義元の像が建つ。



イメージ 3 「今川義元戦死の地」碑
「今川義元戦死の地」碑と共に「駿公墓碣(スンコウボケツ)」が置かれてあった。
「駿公墓碣(スンコウボケツ)」は田楽坪の「ねず塚」に埋められていたのを昭和28年(1953)偶然発見された。
造られた年代は不明。当時の村人が敗軍の将を弔うことをはばかり墓石を埋めてひっそりと供養したものと思われる。


イメージ 4 今川義元馬繋ぎのねずの木
碑の後の枯れ木。
着陣した今川義元が田楽坪の泉で水を飲む為に馬を繋いだ木と言い伝えられ、田の中の「ねず塚」として残されてきた。
この木に触れると熱病にかかるとの言い伝えがある。


イメージ 5 今川義元首洗い泉跡
義元の首級をこの泉で洗い清めたといわれている


イメージ 6 桶狭間古戦場田楽坪の碑
今川家臣松井左衛門宗信(遠州二俣城主)の子孫松井石根(イワネ)が昭和8年(1933)古戦場址を訪れた時に揮毫し、郷土史家・梶野孫作が建碑したもの。


イメージ 7 大田錦城詩碑
大田錦城は江戸後期の儒学者。
文政3年(1820)旅の途中、桶狭間を訪れ詠んだものとされる。
桶狭間を過ぎ  大田錦城
荒原古を弔う古墳の前 
戦い克って将驕る何ぞ全きを得ん
快風雨を吹いて昼晦の如し
驚破す奇兵天より降るかと

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