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どこの公園にもあるのだが、記念碑とか、顕彰碑と言った類のものがある。 勿論、前の稿で紹介した銅像などもその範疇に入るだろう。 これまでに漏れたものと、道路から眺めることができた、東京国立博物館の野外展示物の一つ・旧因州池 田屋敷表門(黒門を)を、落穂ひろい的に紹介する。 王仁博士顕彰会が昭和15年(1940 向かって左)、昭和16年(1941 向かって右)に建碑。 王仁は百済から「論語」、「千字文」を伝えた学者で、後に帰化し、その子孫は文筆をもって朝廷に仕えたとされる。 関連記事日本文化の始祖・王仁の墓昭和20年(1945)東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑 平成17年(2005)故林家三平の夫人・海老名香葉子が建立 上野ライオンズクラブが昭和39年(1964)都民の平和と繁栄を願って建立。 高さ7m、翼の長さ4m 、鉄筋コンクリート製 旧因州池田屋敷表門(黒門) 東京国立博物館の屋外品の一つ 道路に面して建つ。重要文化財 元因州池田家江戸屋敷の表門で、丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていた。 明治25年(1892)、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。 常宮御殿は後に東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれた。 表門は、昭和29年(1954)現在位置に移建され、修理を加えられたものである。 門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷として最も格式高い。 案内図 |
関東紀聞
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上野公園の西南に位置する不忍池方向に歩いていると、花園稲荷神社と、五條天神社があった。 前者は寛永寺草創時に由来を持ち、後者は更に古く、日本武尊東征時に由来を持つ社という事なので、 参拝をした。 花園稲荷神社は忍岡稲荷、穴稲荷とも呼ばれ、祭神は勿論倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)である。 寛永の初め、寛永寺の草創の際に忍ケ岡の狐が住処を失ったことを憐れんだ天海(慈眼大師)が一洞を造 り、その上に祠を建てて祀ったのが始まりと言われている。 その後、承応3年(1654)天海の弟子で本覚院の住僧・晃海が霊夢を感じ、廃絶していたお社を再建し、 上野の山の守護神とした。 慶応4年5月15日の彰義隊の戦争では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)として知られる。 明治6年(1873)篤志家によって再興され花園神社と改称された。 五條天神社は、第12代景行天皇の御代、日本武尊が東征の際、上野の忍岡で藥祖神2柱(大己貴命、少彦名 命)の大神が奇瑞を現し、難を救われたのでここに両神をお祀りしたと伝えられる。 江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下 旧五條町)に遷り、寛永18年(1641)菅原道真を合祀し た。 昭和3年(1928)創祀に近い現地に遷座した。 祭神:倉稲魂命(ウガノミタマノミコト) 右手の丸い穴は、天海が狐の為に作ったといわれる洞 近くには小さな祠が建てられていた。 朱祭神:大己貴命(オオナムヂノミコト)、 少彦名命 相殿:菅原道真 案内図 |
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八月東叡山寛永寺根本中堂、文殊楼、仁王門並びに山王社建立、二十八日中堂入仏あり、 九月六日瑠璃殿の勅額到着 (斉藤月岑「武州年表」元禄十一年の項) 月曜日の昼過ぎの上野公園をぶらぶらしながら歩いていると、薄曇りとはいえ暑かった。 大噴水の近くにスターバックスがあったので、そこに入って一服した。 店内は思ったより客が入っていた。 ある人は新聞を、あるいは本を読んでいる。 ある人はノートパソコンのキーを打っている。 ある人は一生懸命レポートらしきものを書いている。 そして何人かはスマホの画面を見つめ、何やら操作している。 その他の多くの人は、明るい緑鮮やかな、外の風景を眺めていた。 も外に目を向けると大噴水と、その先には東京国立博物館の本館と東洋館が望まれた。珈琲の香りを味わいながら公園の風景を眺めつつ少しタイムスリップした。 上野公園はかっては、徳川将軍家の菩提寺の一つ・東叡山寛永寺の境内で、諸堂伽藍が並んでいた。 大噴水のある辺りには、月岑(ゲツシン)の「武州年表」が記す様に根本中堂(中堂、瑠璃殿)が建ち、その周 囲を回廊が廻らされていた。 坂東第一と詠われた荘厳華麗な中堂には薬師如来が奉安されていた。 中堂の両側には、比叡山延暦寺中堂からの根分けの竹が植えられていた。 それを「竹の台(ウテナ)」と呼ばれていたことから、今噴水地ある一帯を俗に「竹の台(ダイ)」と呼ぶ。 中堂の北側、現在の東京国立博物館辺りには、東叡山・日光山の門主・輪王寺宮が居住する本坊が建ってい た・・・。 慶応4年(1868、明治元年)5月15日彰義隊の戦争が起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんど焼けた。 跡地には大学付属病院建設計画などがあったが、オランダ軍医・ボードワン博士らの建言を入れ、 明治6年(1873)太政官布達によって、芝、飛鳥山などと共に日本で初めて公園として開園した。 大正13年(1924)宮内省を経て東京都に下賜された。 当初は寛永寺社殿、東照宮それに境内の桜を中心とした公園であったが、その後、博物館、動物園、美術 館などが建てられ、文化の香り高い公園へと衣替えした。 それでも、上野公園内には寛永寺に係わるものが多く散在する。 他に、動物園内にある五重塔、不忍池中之島の弁天堂、大黒天堂、清水観音堂近くの天海僧正毛髪塔など があった。 大噴水と東京国立博物館 大噴水の先には東京国立博物館(本館、東洋館)が望まれた。 上野動物園東園に建っている。 嘉永16年(1639)再建 高さ36.4m、重文 5層目は銅板葺、他は本瓦葺 第一層には、釈迦、薬師、阿弥陀、弥勒の四方四仏が祀られている。 写真は東照宮参道から撮った。 寛永2年(1625)寛永寺を創建した天海僧正は、寛永20年子院の本覚院にて108歳にて示寂した。 遺命により日光山に葬られ、旧本覚院のこの地に供養塔が建てられた。 後に、本覚院伝来の毛髪を納めた塔が建てられ毛髪塔と呼ばれるようになった。 不忍池の中之島に建つ。 昭和33年(1958)再建 本尊は竹生島宝厳寺から勧請した八臂大弁財天 天海が琵琶湖竹生島になぞらえて寛永年間(1624〜1644)に不忍池に中之島を築き、弁天堂を建てたのが始まりと言われている。 不忍池の中之島、弁天度近くに建つ。 立札に「豊太閤護持大黒天堂」と記してあった。 案内図 |
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都立上野恩賜公園(上野公園)の桜通り北に歩いていると、東京国立博物館突き当った。 月曜日だったので残念ながら休館だった。 近くの国立科学博物館も同様だった。 東京国立博物館の東(国立科学博物館の北)に寛永寺開山堂(両大師堂)、輪宝殿があった。 輪宝殿の表門(寛永寺旧本坊表門)は、寛永年間(1624〜1643)に建立された、間口三間、中央を両開きとす る医薬門で、重文だけあって素晴らしい門であるが、輪宝殿で葬儀が行われるらしく門前に多くの花輪な どが並べて置かれ、黒装束の人が多く出入りしているので写真を撮るのを止めた。 隣りの寛永寺開山堂(両大師堂、輪王寺両大師堂ともいわれる)に足を運んだ。 (表門の表札には「東叡山寛永寺開山堂」と記しているが、東京都東部公園緑地事務所発行の案内図では「輪王寺大師堂」と記載している。) 表門から参道が延び、その先に開山堂(両太子堂)が建ち、その手前に一対の銅燈籠が置かれていた。 又参道の右側には、阿弥陀堂、左側には地蔵堂があった。 寛永2年(1625)は寛永寺を創建した慈眼大師(天海)は、寛永20年(1643)に没した。 翌正保元年(1644)天海を祀る開山堂が建てられた。 堂には、天海が崇敬する慈恵大師(良源、元三大師)を併せ祀ったことから両大師堂とよばれている。 境内は参拝人の姿なく静かであった。 銅燈籠の笠の三つ葉葵の紋が往時の御威光を偲ばせた。 平成5年(1993)再建 慈眼大師(天海)と 慈恵大師(良源、元三大師) の両大師を祀る 参道左右に立っている。 上野の大猷院(徳川家光)の霊廟に奉納されていたもの 傘に三つ葉葵紋が鋳出されている。 中央に阿弥陀如来坐像、 向って左側に地蔵菩薩立像、 向って右側に虚空蔵菩薩坐像 2体の石像地蔵菩薩像を安置してあった。 案内図 |
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上野動物園入り口辺りをぶらぶらしていたら、茂みの中に大きな石燈籠が覗いていた。 寛永8年(1631)信濃国川中島の領主佐久間勝之が寄進したという、東照宮の「お化け燈籠」だ。 これに魅かれて上野東照宮を参拝した。 東照宮へは直近では平成11年の2月ごろ冬牡丹を見に来たことがあるが、その頃は社殿の修理工事をして おり、社殿は素屋根ですっぽり覆われていた。 上野東照宮は、藤堂高虎(1558〜1630)が上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮 祠を造った。 これが上野東照宮の創建と言われている。 もとは「東照社」と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康を祀る神社を東照宮 (日光および各地の東照宮と区別する為上野東照宮)と呼ぶようになった。 現在の社殿は、慶安4年(1651)3代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているがほぼ当 初の姿を今に伝えると言われており、華麗荘厳な建物である。 参道が唐門、社殿に向かって一直線となっていた。 周囲に大名が奉納した、石燈籠、銅燈籠が並んでいた。 社殿に向かう途中、参道右手に建っていた。 明治7年(1874)深川木場組合が建てた。 屋根の勾配の美しさは都下随一と言われているそうだ。 社殿に向かう途中、参道右手に建っていた。 水屋には狛犬の名工・酒井八右衛門寄進の鈴が吊り下げられていた。 傍の説明板によれば、酒井八右衛門は「井亀泉(セイキセン)」の名で江戸三大石匠と呼ばれ、江戸時代から昭和初期まで十代に渡り多くの石造物を残した。 鳥居や狛犬などには「酒井八右衛門」、墓碑や顕彰碑には「井亀泉」の銘を刻んだ。 鈴の来歴は不明であるが、昭和30年(1955)頃珍品であるため、人目につくところにとこの水屋に付けられたとのことであった。 唐門と透塀 参道の奥に唐門、左右に透塀が建っていた。 透かし塀越しに拝殿が覗いていた。 東照宮には銅燈籠が50基(重文)あるが、唐門両側の6基は徳川御三家(紀伊、水戸、尾張)より寄進されたもの。 唐 門 慶安4年(1651)建立 唐破風造りの四脚門 重文 日本に一つしかない金箔の唐門。 扉には梅に亀甲の透彫、円柱には左甚五郎作昇竜(右)・降竜の高彫、 門の側面左右上部の松竹梅に錦鶏鳥の透彫など、非常に精巧を極めている。 左甚五郎の竜の彫刻は毎夜不忍池の水を飲みに行ったという伝説がある。 また、偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して頭が下を向いているものが昇り竜と呼ばれている。 唐門前に一対の狛犬が置かれている。 背後の銅燈籠は大名が寄進したもの(重文)。 拝 殿 慶安4年(1651)建立 重文 奥には幣殿ー本殿と続く。 祭神:徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜 内部の東照宮額は後水尾天皇の真筆で純金、壁画は狩野探幽作で桃山期の豪華雄大な画風の唐獅子が描かれている。 社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。 案内図 |
も外に目を向けると大噴水と、その先には東京国立博物館の本館と東洋館が望まれた。


