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天気は余り良くない。時折青空が現れるが、全体的には今にも雨が降りそうと言う空模様だ。 天気予報では午後から雨とのことだった。 JR鶴見駅に下車したが、少し時間があったので近くの総持寺に行ってみた。徒歩5分位だ。 総持寺は山号を諸嶽山といい、元々は石川県能登にあった曹洞宗大本山の古刹だ。 明治38年(1898)火災で全山焼失したため、明治44年(1911)現在地に移転したもので、平成23年(2011)11 月15日に移転百年記念法要が行われるらしい。 広大な境内に並ぶ主要堂宇は鉄筋コンクリート造りのようだ。とは言え、境内の木々は大きく茂り、緑は 益々豊になり大寺院の風格といったものが出てきたように思えた。 昭和44年(1969)落成 鉄筋コンクリート造りの山門としては日本一とか。 大雄宝殿(仏殿) 七堂伽藍の中で中心堂宇。 須弥壇 須弥壇中央に本尊釈迦牟尼坐像、脇侍として向って左は阿難尊者立像、右は迦葉尊者立像が祀られていた。 今回は、残念ながら時間が無かったので、他の建物を覗いていくことが出来なかった。 ここのHPで詳細を知らせていたので紹介しておく。 |
関東紀聞
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朝から曇天だったが、11時ごろに京浜急行生麦駅改札口を出た時は雨となっていた。 K君に教えられたとおり、商店街を通り抜けると国道15号線があり、それに沿って横浜方向に歩くと、数 分で旧東海道との合流点に来た。そこに生麦事件の碑が建っていた。 生麦事件は、攘夷断行を幕府に求める朝廷が江戸に赴く大原勅使の護衛として同行し、その帰路にあった 島津久光(藩主茂久の父)の行列が、文久2年8月21日(西暦1862年9月14日)生麦(横浜市鶴見区)にさし かかった際、英国人4人が騎馬のまま行列の前を通過しようとしたのを怒り、従士が殺傷(1人死亡3人負 傷)した事件である。 翌年英国軍艦が鹿児島を砲撃する薩英戦争の原因となり、幕府は責任を負い償金10万ポンドを英国に支払 った。 碑は明治16年(1883)鶴見の人・黒川荘三が中村敬宇の撰文を得て英国商人リチャードソン落命の地に碑を 建てたものだ。碑の頂部は破損しており、さらに破損するといけないので線香しないで、と言った主旨の 注意書きがしてあった。 碑の前には「生麦事件之跡」と掲示しているが上述のように発生現場ではない。 発生現場はどこだろうかと思いながら、旧東海道を川崎方向に10分ほど歩くと、街道沿いの民家のフェン スに「生麦事件発生現場」と言う看板が掲げられていた。 看板は近くにある「生麦事件参考館」が設置したもので、事件の模様を描いた絵と当日のことを記した生 麦村名主関口日記文を掲示してあった。 |
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養老5年(721)徳道上人が大和国長谷の山林の中で見出した佳い香りがし、瑞光を発する楠の大木を見つ け、それより十一面観音像を2体彫り出してもらった。 その内1体を本尊とし、藤原房前を開基として大和国の長谷寺を創建した。 他の一体は、開眼供養の導師を務めた行基菩薩によって衆生済度の願を込められて、海にながした。 15年後の天平8年(736)6月相模国長井村(現 横須賀市)の海上に光明があり、十一面観音像が漂着した。 このことが朝廷に聞こえ、又徳道上人を開山とし、藤原房前を開基として長谷寺が開かれたという。 散策路からの眺め 山腹に広がる長谷寺の境内の上段の見晴らし台や眺望散策路からは、夕暮れの鎌倉の町並みや海岸が良く眺められた。 が訪れた時(11月18日)境内の紅葉はそれほどでもなかった。後一週間もすれば見ごたえが出てくるだろう。夜間ライトアップされるらしい。境内中段に建てられていた。堂及び安置するする地蔵尊は平成15年(2003)再建されたもの。 「子安・繁栄」の御利益を授ける「福寿地蔵」だそうだ。 堂の内部は地蔵尊の周りにお菓子や玩具が沢山奉納してあった。 堂の横、裏には供養の為奉納された石像の地蔵様がぎっしり並んでいた。 下の境内の放生池過ぎた辺りにb弁天堂があり、その奥に弘法大師参篭したと伝わる弁天窟あった。 中に入ると弁財天とその眷属の童子の像が壁に彫り込まれ、ろうそくの煤によるものか黒くなっていた。 下の境内の放生池近くに置かれた今流行りのお地蔵様。見ていると意外に人気があった。 |
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とうとう今日最後の巡拝地である長谷寺(長谷観音)に来た。陽は山の端に沈もうとしていた。 長谷寺は正式には「海光山慈照寺長谷寺」本尊は十一面観音立像、それに因んで「長谷観音」とも呼ばれ ている。元は光明寺の末寺であったが、現在は単立の浄土寺院である。 「長谷村浄土宗長谷寺観世音菩薩略縁起」(年不詳 江戸時代か?)によれば、大和の長谷観音と一本二 体と言い、開山は徳道、開基は藤原房前、天平8年(736)草創と言う。 その真偽はともかく、中世都市鎌倉の発展につれて、古代寺院をモデルにして建立された寺院の一つと考 えられている。 山腹に広がる境内にあって、主要堂宇は境内上段に建てられている。堂宇は幾度と無く再建されてきたが 関東大震災による傷みはひどく、昭和60年(1985)鉄筋つくりの堂宇に建替えられた。 山 門 なぜか門中央にぶら下げられた赤提灯が印象的だった。 阿弥陀堂 本尊:阿弥陀如来坐像 源頼朝が42歳の厄除けのため建立したと伝えられ、「厄除阿弥陀」と呼ばれているが、この像の銘文によれば、この像はもともと長谷寺で造立されたものでなく、廃寺となっている誓願寺の本尊であったという。 観音堂 本尊の十一面観音立像は右手に錫杖を持ち、岩座に立つ、総高9.18mあり、最大級の木造観音と言われている。 造立は養老5年(721)と伝えられるが、現在の像が創建当初からのものかは言いがたく、年代不詳だが少なくとも室町時代以前に遡ると推定されている。 大黒堂 本尊:大黒天 元々は弘法大師の作と伝えられる大黒天像が祀られていたが、その像は宝物館に移され、出世開運授け大黒天として新像が祀られていた。 一切経を納めた輪蔵が収蔵されている。なぜか建物全体が銀紙を張られていた。 輪蔵は中国の梁時代(5世紀)傳大士が発明したもので、蔵内には一切経が納められており、時計方向に一回廻すと一切経を一通り読んだと同じ功徳があると言われている。 保存保護の為、観音様の縁日(毎月18日)だけ回すことが許されている。 参拝した日は運良くその日に当たり、家内安全を祈りながら一回廻した。 |
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大佛は昔にかはらぬ御姿ながらも その御心には數百年の夢幻何とか觀じ給ふらん。 きのふ見し人は けふ見る人にあらず、けふ見る人は 明日見ん人にもあらず。 況して 今の人七百年の昔も知らねば 七百年の昔いかでか今の世を推し量らん。 大佛のうつら/\と春日かな (正岡子規「鎌倉一見の記」) 鎌倉駅から20分位歩くと長谷寺の前に来た。その近くに鎌倉の大仏で御馴染みの高徳院がある。 まずそちらに行ってみた。 「大異山」と山号が書かれた仁王門を過ぎると手水舎があり、その先に大仏が鎮座していた。その周りに まるで砂糖に群がる蟻のように参拝客や観光客がたむろしていた。 鎌倉大仏の名で馴染みのこの大仏は阿弥陀如来である。 像高は11.36mとあるが、屋外のためか14.98mの奈良の大仏と3mほどしか違わないのにそれ以上に小 ぶりに見える。少し猫背のせいかも知れない。しかし、大きいことに変わりが無い。 鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像) 建長4年(1252)から十年前後の歳月をかけて像立されたと見られる。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたというが、創建に関わる事情の多くは謎に包まれている。(国宝) そもそも、阿弥陀如来坐像と言うのも印相が阿弥陀如来が結ぶ定印(親指ともう一本の指で輪を作る印相)であるからそう言っていることらしい。本当にその心算で造られたのか議論のあるところだと言う。 と言うのも、製作開始の根拠となっている「吾妻鏡」建長4年八月十七日の条では「今日 彼岸の第七日に当る 深沢里に金剛八丈の釈迦如来像を鋳始め奉る」とあるからだ。 因みに、廻廊の裏に与謝野晶子の歌碑があった。 かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな 彼女はそこまで知って釈迦牟尼と詠んだのだろうか? 今露座になっているが、初めは大仏殿はあった。しかし、明応7年(1498)津波により倒壊し、その後は再建されることなく野ざらしとなっている。 像の胎内に入ると鋳継がれて造られたものであることがわかる。 胎内は足場がコンクリートで固められ、写真入りの説明板などがそなえられていたが、ずーと以前入った時は薄暗い廃屋のような感じだったことを覚えている。 元禄16年(1703)大地震で大きな被害を受け、増上寺の援助などにより修復した歴史があると言う。 大仏が露座に以降、大仏は建長寺や、長谷寺の預かりになっていた。その後(ここから車で10分くらいの所にある)光明寺の奥の院となった。それをこの手水舎の水盤が物語っている。 裏に回り、水盤を見ると「光明寺奥院」と彫られている。光明寺奥の院だった名残りである。 因みに、現在の高徳院は,正式には「大異山高徳院清浄泉寺」と号し、光明寺から独立した浄土宗の寺院である。 |
が訪れた時(11月18日)境内の紅葉はそれほどでもなかった。後一週間もすれば見ごたえが出てくるだろう。夜間ライトアップされるらしい。


