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関西移ってから久しぶりに東京へ出てきた。 そこで、増上寺から芝公園へと散策した。増上寺の西側に芝東照宮があり、そこも参拝した。 芝東照宮は元々増上寺の一部だった。 徳川家康の遺言により、増上寺に社殿(安国殿)が創建されたが、明治の神仏分離令により芝東照宮となっ たのだ。 境内は人の姿より、駐車してある車の方がよく眼に入った。 旧社殿は権現造りで国宝になったが、先の戦火で焼失し、現社殿は昭和44年(1971)完成したものだ。 |
関東紀聞
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かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂 (吉田松陰) すっかり寒くなり冬到来の感がある。 11月もわずかとなり12月に入ると参拝者が多くなると思われる高輪の泉岳寺にいってみた。 京浜急行「泉岳寺駅」を出て、坂を上ると中門があり、されに進むと山門が続き その奥に本堂があっ た。 泉岳寺は曹洞宗の寺で禅寺らしい厳しい雰囲気があった。 泉岳寺は徳川家康が慶長17年(1612)門庵宗関(今川義元の孫)に創立させた寺であるが、一般には 赤穂義士の墓があることで知られており、寺内には墓以外にも義士ゆかりのものが点在していた。 それまでは ただの寺なり 泉岳寺 (「誹風柳多留」95)
今時は 無いと出て来る せんがく寺 (「誹風柳多留」4)
山門 天保3年(1832)に再建されたもの。 中門 天保7年(1836)に再建されたもの。 本堂 第2次大戦の空襲で焼失したが、昭和28年(1953)再建された。鎌倉様式の建築 本尊は釈迦如来。 大石内蔵助の守り本尊である「摩利支天」も安置されている 首洗い井戸 義士たちが本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供えたという。 玉垣を川上音二郎建てた。 浅野内匠頭と同夫人の墓 左奥が浅野内匠頭の墓、右の手前が夫人の墓 義士の墓 主君浅野内匠頭と夫人向って「日」の字型に並んでいた。 墓に刻まれた戒名は、主君内匠頭の戒名の他はすべて刃、剣の二字が入っていた。 石塔も 無腰ではいぬ 四十七 (「誹風柳多留」57) 霊宝に 武器沢山な 泉岳寺 (「誹風柳多留」50) ところで、福沢諭吉は「学問のすすめ」で 「昔徳川の時代に、浅野家の家来、主人の敵討とて、吉良上野介を殺したることあり。 世にこれを赤穂の義士と唱えり。大いなる間違いならずや。」(「学問のすすめ」六編) と言い、私裁を禁ずる立場から、47士の行動を批判している。 しかし、今も参拝者の姿は絶えない。
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東京駅で下りたついでに、久しぶりに皇居外苑まで足を延ばしてみた。 皇居外苑へは記憶にあるのは平成11年12月(だったと思う)皇居一周ウォーキング以来だ。 雲は多少あるが、夏の盛りとあって暑い。警備しているお巡りさんは大変だろうと同情したくなる。 堀を伝って、二重橋を見る。こんな暑いのに外国人団体が多く来ていた。 国際親善と思い、彼らのカメラのシャッターを押してやった。 この後、楠木正成像を見にいった。実はこの像を見るのは中学生の時以来だ。 だから、二重橋のすぐ前だったとの記憶だったが、今回、前は前でも外苑の入口近くと、 思っていたより離れていることが分った。 今回は楠木正成像を見たいと、強く思った。 結果が分っていながら沖縄に向った戦艦大和の運命に感慨を覚えると同様、湊川へ出陣していった楠木 正成の運命に類似の感慨を覚えたからだ。 この像は住友財閥が別子銅山開山200年記念として、明治30年(1897)に寄付した銅で作られた。 正成像は高村光雲、馬は後藤貞行の製作によるもので、明治33年(1900)完成したことだ。 多分以前見たときは、周囲のビルは木々で遮られていたろうが、今は高層ビルがのぞいている。 しかし、周囲が変化しても像は変わっていなかった。
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3月19日の昼ごろ、「品川区立大森貝塚遺跡庭園」を訪れ、 もう一つの記念碑を見てきた。 詳細は後述するが、およそ1ヶ月前に読んだ毎日新聞の記事のためだ。 「大森貝塚庭園」は、JR大森駅から大井町駅寄りに約600M歩いたところにあり、園内にはモース博士像,品川区とポートランド市(米メイン州 モース博士の生誕地)の姉妹都市提携記念碑や縄文時代についての説明の展示パネルなどがあった。 南東隅のJR線沿いに、もう一つの記念碑、土器のモニュメントをのせた「大森貝塚」碑が建っていた。 南東隅のJR線沿いに「大森貝塚」碑(以下「貝塚」碑という)が建っていた。 車窓からでも注意して見ておれば確認できるが、佐々木忠次郎の「大森貝墟」碑(以下「貝墟」碑という)の方が高く、目立つのでどうしても見落としてしまう。 この「貝塚」碑は昭和4年(1929)11月に大坂毎日新聞社長 本山彦一が発起人になって建てたもので、翌年に「貝墟」碑を建てた佐々木忠次郎も賛成人の一人として名を連ねている。 2月20日の毎日新聞の記事は、大森遺跡には2つの記念碑、「貝塚」碑(品川区)と「貝墟」碑(大田区)が存在し、その経緯を考察したものだった。 モースの発掘場所はどこか? 長い間混乱が続いたが、いまでは「貝塚」碑の方だとなっている。 昭和52年(1977)貝塚発掘にかんして地主と東京府などが交わした公文書が見つかり、それは「貝塚」碑の方をさしていた。 さらに、昭和59年(1984)〜昭和60年(1985)、「貝塚」碑付近の発掘でモース報告と合致する貝層が発見される一方、「貝墟」碑付近では何もみつかっていないからだ。 佐々木はなぜ別に記念碑(「貝墟」碑)を建てたか? 「貝塚」碑建立前に発掘場所をめぐる論議があったと推測される。佐々木の意見が採用されなかった。 それに対する怒り、自分の功績を顕彰などの意見があるが 両碑建立の5年近く前の「人類学雑誌」(1926年4月)の佐々木の記述から、佐々木は「貝墟」碑の場所がモース発掘場所と信じ切っていた。 混乱の種を蒔いたのはモース? 遺跡の位置は今日では報告書の重要ポイント。だが、モースは場所を詳しく書いていない。モースは発表間もなかった進化論の研究者。研究の鍵を握るシャミセンガイなどの貝類を採取に来日して、偶然貝塚を発見したに過ぎない彼にとって、「日本の東海岸」で十分と思っていたのかもしれない。 昭和30年(1955)両碑は国史跡になっているが、「貝墟」碑側の史跡指定解除の意見が出ているが、それより両方うまく利用してモースの功績を生かす方がよい、が多数意見だ。 しかし、来訪者を欺く懸念は残る。 「貝墟」碑]入り口に「国史跡 大森貝塚」の看板が立つ。が、「貝墟」碑横の説明板には、近くに別の貝塚碑もあるといった案内はない。 大森駅に近い方だけに、「貝墟」碑だけ見て帰る見学者がいるのでは・・・ |
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日本考古学発祥の地として教科書にも載っている大森貝塚が、明治10年(1877)モース博士によって発見され,今年で130年になる。 大森貝塚の記念碑はJR京浜東北線に乗れば、大森駅近く北西側の線路沿いに建っているのが見られる。 いつも車窓から見ていたのだが、近くで見たいと思い、昨年の6月大森駅で下車した。 駅西口から道路沿いに大井町駅寄りに約300M歩くと「国史跡 大森貝塚 右」との標識があり、 それにしたがって右に折れ、細い道を行くとJR線に突き当たり、 そこに「大森貝墟」と彫られた、5M以上はあろうかと思える立派な碑があった。 これはモース博士の一番弟子で、大森貝塚発掘に携わり、後に昆虫学に転じて大成した佐々木忠次郎が、昭和5年(1930)に建てたものだ。国史跡になっており、地図にも記載されている。背後は樹木の茂る傾斜面となっており、ここから神話から科学的な考古学が始まったことに感慨を覚えた。 近くには、東京都大森貝塚保存会による、モース博士のレリーフとモース博士の功績を顕彰した説明文があった。 教科書にも載っている大森貝塚遺跡にきて、車窓でよく見かける記念碑を間近に見たことに満足して帰った。 (左写真は平成19年3月19日撮影) ーー(2)に続くーー
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はを昨年6月やってしまっていたのだ!!!

