ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

関東紀聞

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歩くのが楽しくて仕方がないという感じの小さいお嬢さん連れのTさん一家の案内で「小江戸」と呼ばれ

る川越をぶらついた。

川越は、天正18年(1590)酒井重忠が初代藩主として入って以来、江戸に近いこともあって、軍事上の要所

として江戸幕府重鎮が藩主を務め、また商業上の要衝として栄えた。

それは、江戸と結ぶ川越街道の往来や新河岸川(シンガシカワ)からの舟運によって、江戸とは盛んに交流が行

われ、江戸の物資や文化が運ばれた川越は「小江戸」とよばれた。

その名残が川越の中心に建つ「時の鐘」である。

明治26年(1893)の川越大火後再建されたものであるが、今も現役として一日四回時を告げている。

川越大火後蔵造りの商家が建てられたが、大正、昭和に入ると鉄筋コンクリート造りの建物が造られ、

埼玉りそな銀行川越支店や川越商工会議所として残っていた。

川越の蔵造りの街並みを歩いていると、江戸時代から近代までの特色ある建築が眺めらた。

ここは、さまざまな時代の特色を反映した建築が一体となって町並みを形成していることが良く分かっ

た。


雲一つない晴天で、日差しが強く、風がなく蒸し暑い。

そんな中を、よく付き合ってくれていたTさんの可愛い御嬢さんは、今や乳母車の中ですやすや眠りには

いった。

これを機に我々は帰路についた。



イメージ 1

                                  時の鐘
蔵造りの商家越しに、川越のシンボル・「時の鐘」が眺められる。
江戸時代の初期、川越城主・酒井忠勝が寛永年間(1624〜1644)に建てたと伝えられる。
その後幾度か焼失し再建された。
現在のものは明治26年(1893)の川越の大火の翌年再建されたもので4代目。





イメージ 2  時の鐘
現在でも1日4回(6時、12時、15時、18時)川越の町にその音を響かせている。
平成8年(1996)環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれている。
除夜の鐘以外は自動鐘撞き機によるとのこと。
「時の鐘」の高さは16m 下は薬師神社の参道の入り口になっていた。





イメージ 3  薬師神社
説明板によれば、
以前瑞光山医王院常蓮寺という寺だったが、明治維新の折、薬師神社となった。本尊は行基作と伝えられる薬師如来立像。
五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒特に眼病に御利益があるといわれている。





イメージ 4  半夏生
境内の片隅に群生していた。




イメージ 5  半夏生




イメージ 6  歌詞碑
参道の脇に建っていた。
昭和45年(1970)旧多賀町薬師講が建立

川越小唄  作詞:西條八十 作曲:町田嘉章

春はうらうら  多賀町あたり   鐘も霞の ヤンレヤレコノ 中で鳴る

                 鐘もかすみの中でな鳴る




イメージ 7  埼玉りそな銀行川越支店
登録有形文化財
大正5年(1918)第八十五銀行本店として建てられた。
設計:保岡勝也
青緑色の塔屋が印象的なルネサンス様式の建物。




イメージ 8  川越商工会議所
登録有形文化財
昭和2年(1927)武州銀行川越支店として建てられた。
設計:前田健二郎
巨大円柱を配したギリシャ神殿のような建物。


川越蔵造りの街並み散策マップはここ をクリック

東武東上線沿線に住むTさん一家の案内で「小江戸」と言われる川越を訪れた。

東武東上線「川越」駅でバスに乗り換え「一番街」で下車した。

もう、そこは一時代戻った感じに蔵造り商家が軒を連ねていた。

重厚な厚い壁と観音開扉、格子の窓、大きな鬼瓦、高い棟が連ねる景観は、江戸情緒あふれる独特の街並

みだった。

蔵造りの街並みは、車がひっきりなしに通る県道を中心に「仲町」交差点から「札の辻」交差点のかけて

の約400mの界隈で、観光客であふれていた。

ただ、江戸時代からの建物も残っているが、このような景観は、江戸時代からだった訳ではないようだ。

駅でもらったパンフレットによれば、明治26年(1893)川越の三分の一を焼いたといわれる「川越大火」の後、

防火対策の必要性を痛感した商人たちは伝統的な耐火建築である蔵造りの店舗をこぞって建てたもので、

現在でも30数棟が残っているそうである。

蔵造りに用いられる漆喰は「江戸黒」と言われる黒色の漆喰である。

江戸時代、白漆喰の武家対して商家は黒漆喰とした流れを伝えるものだ。

以前はこの様な町並みを時代遅れという風潮もあった様だが、先人たちの貴重な遺産を残そうという市民

運動がおこり、今では積極的に保存し、その景観維持に取り組まれているそうだ。

平成11年(1999)には国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、平成19年(2007)には「美しい日本

の歴史的風土100選」に選ばれている、とのことであった。




イメージ 1 「くらづくり本舗」
鬼瓦が面白い。
創業明治20年 
サツマイモを素材とした菓子の専門店




イメージ 2 「亀 屋」
観音扉は開くと隣りの観音開扉と重なる豪華な仕組みになっている。
天明3年(1783)創業
旧川越藩御用達の生菓子老舗
山崎美術館を併設




イメージ 3 「蔵造り資料館」
明治26年(1893)の大火の後、煙草卸商「万文(マンブン)」が建てた蔵造り家屋。
現在資料館として内部の構造や意匠や、川越大火の史料を見ることができる。





イメージ 4 町並み





イメージ 9

                              蔵造りの町並み
重厚な観音扉は大火になった時に閉じられ、通常は開いている。その代り鉄格子が入っている。




イメージ 5 格子の商家 




イメージ 6 大沢家住宅
川越最古の蔵造り(店舗蔵) 重文
寛政4年(1792)豪商・近江屋半右衛門が呉服太物を商うための店舗として建てた商家
平成元年(1989)から3年かけて修理工事が行われた。



イメージ 7 川越まつり会館 





イメージ 8 町並み
左に折れると、川越のシンボル「時の鐘」があった。


川越蔵造りの街並み散策マップはここ をクリック

三越本店の北側に「三井本館」があり、その西側に「日本銀行本店」があった。

三井本館は現在三井住友銀行、三井住友信託銀行、三井記念美術館が入っているビルだが、かっては三井

財閥の総本部だったビルらしく新古典主義様式の重厚な感じのビルだ。

西隣の日本銀行本店の内旧館は上空から眺めると「円」の字に見え、何やら因縁めいているようだが、

建てられたのは明治29年(1896)でその頃は「円」ではなく「圓」だったから後付けの説だろう。

守衛が立ち、何やら近づきがたい感じだった。

別館の貨幣博物館は残念ながら定休日だった。

傘をさすほどではないが、雨がぽつりぽつりし始めた。本降りにならない内にと思い、東京駅に戻る。

途中(来る時も気が付いていたが)永代通りの交差点角に窓際に蔓性の植物で覆ったビルがあった。

そのビルの藤が満開で綺麗だったが、雨が降り始めていたのでゆっくり眺めている余裕がなかった。



イメージ 1 三井本館
昭和4年(1929)竣工  重文
地上7階地下2階 ヴェネッア産大理石など使用
設計:トローブリッジ&リヴィングストン社
施工:ジェームス・スチュワート社




イメージ 2 三井本館の装飾(一部)




イメージ 3 日銀旧館(部分)
明治29年(1896)竣工  重文
設計:辰野金吾
柱や丸屋根などのバロック様式に、規則正しく並ぶ窓などのルネッサンス様式を取り入れたネオ・バロック様式で、ベルギー中央銀行を手本にしたといわれている。



イメージ 4 日銀旧館(部分)




イメージ 5 緑化したビル
藤が満開だった。

日本橋東北の橋詰(元標の広場)から北方向に眼をやると三越新館が見えた。

お上りさんとしては、特に買うようなものが無くても、日本を代表する百貨店「三越本店」を覗いて行か

ねばなるまいと思った。

新館の北隣に、ネオ・ルネッサンス様式の本館があった。

三越と言えばロンドンのトラファルガー広場のライオン像を模したと言うライオン像。

それをまず見なくてはならない。

そう思い玄関に行くと、創業祭とかで暖簾がかかり、ライオン像の周りは青竹で囲まれていた。

これではライオンの全体像が撮れないと思っていたら新館の入り口にも置いてあるとの事だったので後で

撮りに行った。

本館の奥に入ると、中央に5階まで吹き抜けの大ホールがあった。

素人目には、店内ではこの辺りが一番の稼ぎ場所とみえる。

それを、こうした空間にするなんて、「流石に三越さん!」と思った。

大ホールの正面に大きな天女像が建っていた。

三越創立50周年を記念して建てたものらしいが、好みの問題かもしれないが、やや違和感を覚えた。

なお、像の台座を見ていたら、アンモナイトの化石を幾つか見つけた。


三越は延宝元年(1673)に「越後屋」として創業、「三井呉服店」を経て「三越呉服店」となり大正3年(19

14)横河民輔、中村伝治の設計による鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店を新築した。

更に昭和10年(1935)全館の増改築が完成し、現在の見られるような規模になった。


イメージ 1 三越本店新館



イメージ 2 三越本店本館




イメージ 3 本館玄関
青銅製の一対のライオン像が鎮座している。
青竹で頭しか映っていない。




イメージ 4 新館のライオン像




イメージ 5

                             中央大ホール
5階まで吹き抜けとなっており、ゆったりとくつろげるようになっていた。
正面には昭和35年(1960)建立した天女像が置かれていた。
三越のお客様に対する基本理念「まごころ」をシンボリックに表現しているのだそうだ。



イメージ 6 天女像
瑞雲に包まれた天女が花芯に降りたつ瞬間の姿をとらえたものだとの事
佐藤玄々が制作




イメージ 7 アンモナイト
台座の大理石から幾つかアンモナイトを見つけられた。

東京駅丸の内口から八重洲口に移り、永代通りを10分ほど歩くと、日本橋に着いた。

隅田川の支流・日本橋川に架かる優雅な二蓮アーチの石橋であるが、覆いかぶさるように上には首都高速

都心環状線が走っており景観を台無しにしている。

日本橋が初めて架けられたのは、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1608)と伝えられている。

幕府は東海道を始めとする五街道の起点を日本橋とした。

その名残は続き、今なお道路の起点となっており橋の中央に「日本国道路元標」のプレートが埋め込まれ

ている。

火災などにより改築19回を経て、明治44年(19119東京市により完成した現在の石橋になった。

四隅の親柱の上には東京市章を抱えた青銅製の獅子が鎮座し、橋の欄干中央には麒麟像を装飾にしたc照

明塔が立っていた。

四か所橋詰めには現橋の架橋80周年を記念して花の広場(西南隅)、元標の広場(西北隅)、乙姫の広場(東

北隅)、滝の広場(東南隅)と愛称が付けられていた。




イメージ 1

                               日本橋


イメージ 2 照明塔
欄干中央の照明塔の装飾の麒麟は東京市の繁栄を表す





イメージ 3 道路元標プレート
交通量が多くて接近して撮ることができなかった。
プレートは橋の中央に埋め込まれている。
それまでは柱であったが、昭和42年(1967)都電廃止に伴い道路整備が行われのを契機に昭和47年(1972)プレートに変更された。




イメージ 4 イメージ 5
                           獅子
四隅の獅子像は橋の守護を表す。
台座になっている親柱に埋め込まれている橋名は第15代将軍だった徳川慶喜の揮毫によるもの。



イメージ 6 花の広場
日本橋の西南橋詰
日本橋由来を記したプレートなどがあった。



イメージ 7 元標の広場
日本橋の西北橋詰
旧道路元標だった柱や
現道路元標の複製が展示してあった。



イメージ 8 旧道路元標
昭和47年(1972)プレートに変更されるまでの道路元標。




イメージ 9 現道路元標の複製
「日本国道路元標」の文字は
当時の総理大臣・佐藤栄作の筆によるもの



イメージ 10 乙姫の広場
乙姫の像と「日本橋魚市場発祥の地」碑が建っていた。
江戸時代から大正時代まで日本橋川川沿いは魚河岸として江戸・東京で最も活気のある場所の一つだった。大正12年(1923)の関東大震災後、現在の筑地に移り、東京都中央卸売市場へと発展した。

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