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親しき友人達と小田原で集合し、新緑の箱根周遊の旅を楽しんだ。
小田原→(小田急)→箱根湯本→(箱根登山鉄道)→強羅→(ケーブルカー)→早雲山→(ロープウェイ)→大涌谷と乗り物を乗り継いで大涌谷へと来た。
看板によれば、ここの標高1050m。
冠ケ岳(1409)の北斜面で、ここだけ赤茶色の地肌を露出して、地面から白い蒸気を吹き上げ、温泉が湧き出ている噴煙地だ。
約3000年前箱根火山最後の水蒸気爆発を起こした爆発火口で、かっては地獄谷、大地獄谷と呼ばれていたが、明治6年(1873)明治天皇・皇后両陛下の箱根静養の際、名が不適当と言うことで、「大涌谷」に改められた。
ここでは温泉と地熱を利用した殻の黒いゆで卵「黒卵」を売っていた。
「1個で7年寿命が延びる」という触れ込みに釣られ、早速食した。
確かに、7年寿命が延びる気がするおいしさだった。
大涌谷噴煙地風景
大涌谷噴煙地風景
温泉池で玉子を茹でている風景
黒玉子
パンフレットによれば、温泉池の温泉の温度は80℃、蒸釜の温度は95℃〜100℃、
温泉池の中で、玉子を1時間ほど茹でる
この間に温泉に含まれている硫化水素と鉄分が結合して硫化鉄となり、それが玉子の殻に付着して黒くなる。
その後、温泉池から出して、更に5分ほど蒸釜で蒸して出来上がる
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関東紀聞
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浅草寺境内の西(本堂左方向)端に淡島堂が建っていた。 寛永19年(1642)火災で焼失した東照宮(東照大権現)の跡に、元禄年間(1688〜1704)紀伊国加太神社より 勧請したもの。 加太神社は淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため淡島堂と呼ばれている。 堂内に入ってみると、堂内には中尊の阿弥陀如来坐像、左脇壇には淡島明神を納めた厨子、右脇壇のは虚 空蔵菩薩立像更にその右隣に地蔵立像が安置してあった。 淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として信仰を集めた。 現在でも毎年2月8日労いと諸芸上達を願う「針供養」が営まれ、女性の参詣人で賑わう。 淡島は 剣の山を 御殿にし (「川柳評万句」宝暦八年合印十) 祭神は少彦名命(淡島大明神、本地佛は虚空蔵菩薩) 旧淡島堂は昭和20年3月戦災で焼失。 現在の淡島堂は、戦後仮本堂であった影向堂(ヨウゴウドウ)を平成6年(1994)曳屋作業により現在地に移築したもの。 淡島堂も左前にある石燈籠 燈籠の下を潜ることで子供の虫封じや疱瘡除けのまじないになるとされている。 江戸時代から有名だったらしい。 明和7年(1777)造立 淡島堂の左前軒下にある天水桶 太平戦争時この桶に本尊の観音様を厨子ごと納め、本堂の地下に埋め、難を逃れたという。 雨が激しくなって来た、それに寒くなってきた。帰ることにする。再び仲見世、雷門に向かう。 途中、宝蔵門を過ぎ、二尊佛近くの茶店・木村屋本店に、店頭で煎餅を焼く光景に惹かれて、 休憩の為に入る。 店員の勧めで、浅草団子を注文。 熱いお茶に、ほっかほかの団子、体が温まった。 この後、友人OとIが、さらに温たまる所へ案内してくれ、最終便で神戸に帰った。 熱々の御手洗団子にきな粉をたっぷりまぶしたものだった。 偶然同席したお嬢ちゃんの話では、 ここの団子はWEBで評価が高いとのこと。、 |
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浅草寺境内の東側から本堂西側に足をのばす。 西側には、影向堂(ヨウゴウドウ)、淡島堂等のほか、その周辺に小堂、金銅・石造物が点在する。 ただ、これらは戦後境内整備の一環として配置替えされた結果のようである。 特に、平成6年(1994)浅草寺中興開山慈覚大師円仁の生誕1200年記念を記念して再配置された。 影向堂には聖観世音菩薩と、観音様の説法や活躍に不断の讃嘆協力する仏様である「影向衆(ヨウゴウシュウ)」 の十二支に応じた生まれ年の守り本尊を祀る。 即ち、子年:千手観世音菩薩、丑・寅:虚空蔵菩薩、卯:文殊菩薩、辰・巳:普賢菩薩、 午:勢至菩薩、 未・申:大日如来、 酉:不動明王、 戌・亥:阿弥陀如来 である。 は未年なので、大日如来に諸願成就を祈った。平成6年(1994)現在地に再建。鉄筋コンクリート造 中央に聖観世音菩薩、その左右に十二支に応じた生まれ年の守り本尊を祀る。 これらの仏様は、観音様の影向衆(ヨウゴウシュウ)と呼ばれる。 また、入口に真っ黒な色の大黒様(米櫃大黒天と呼ばれるそうだ)が安置してあった。 なお、戦後仮本堂にもなった旧影向堂は現在の淡島堂となっている。 元禄6年(1693)建立 銅製 高さ1.5m 元本堂裏にあったものを平成6年(1994)現在地に移動。 宝暦11年(1761)建立、安政2年(1855)に地震で被災 明治40年(1907)再建 銅製 高さ約8m 西仏板碑(サイブツバンヒ): 西仏(サイブツ 詳細不詳)が妻子の後世の安楽を祈って建立したものと推測される。 建立は鎌倉末から室町初期と思われる。 寛保2年(1742)暴風雨で倒れ破損したのを文化11年(1814)側柱で補強して立てた。 現在の板碑の高さは破損しているが2.2m、元は3m近くあったものと思われる。 三尊名号供養塔: 阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩)の名号が彫られた石塔 元和4年(1618)東照宮造営の際建立 全長3.3m、幅2.2m 都内最古の石橋といわれている。 秩父三峰神社より勧請された。 火防、盗難除けの神様 江戸時代初期の建築と考えられ、浅草寺内で最古の遺構。 文化10年(1813)編の「浅草寺志」には元和4年(1618)建立とある。 元は東方約22mの場所(現影向堂)に建っていたが平成6年(1994)現在地に移動した。 本尊は日限(ヒギリ)地蔵尊 木造 造立年代不明 日数を決めてお願いすれば聞いて下さる有難いお地蔵様 享保10年(1725)造立 一つに限ってお願いすると聞いて下さる有難いお不動様 当初は観音堂の北方にあって北薬師とよばれた。 慶安2年(1649)3代将軍家光が観音堂の北西に再建。 堀に架かる橋の傍らにあったので橋本薬師堂と名付けた。 平成6年(1994)現在地に移動した。 本尊薬師如来坐像、他に前立ちの薬師如来と十二神将を安置。 扉の隙間から覗いてみたが真っ暗で何も見えなかった。 |
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「二露佛有り、佛ニ隣ル石像ヲ 久米平内ト曰フ」(寺門静軒「江戸繁昌記」) 特に江戸時代以降庶民の信仰が衰えることがなかった浅草寺、その境内には様々な小堂や石造物がある。 境内東側、即ち参道の(本堂に向かって)右側の弁天山麓辺りを巡ってみた。 江戸時代から建つ二尊佛(濡れ仏の名で世に知られる)や阿弥陀如来像、江戸時代から建ち戦後再建された 久米平内堂、それに戦後新たに造立された平和地蔵尊があった。 ただ、江戸時代からの由緒を持つ像や堂の位置が、戦後の境内整備によるものだろうか、必ずしも昔の位 置にあるとは限らない、との印象を受けた。 二尊佛(濡れ仏): 勢至菩薩(左)、観音菩薩(右) 像高約2.4m 蓮台を含めれば約4.5m 金銅坐像で「濡れ仏」の名で世に知られる。 基壇の組石は長さ約12m、幅6.2m、高さ1.5mとなっている。 蓮弁台座の銘によれば、上野国館林在大久保村の高瀬善兵衛が願主。 かって奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像(右)が旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像(左)はその子次郎助の繁栄を祈る為貞享4年(1687)造立した。 安永6年(1777)高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり修理したことが観音像銘に追刻されている。 「付文の そば弁天と 濡仏」 (「誹風柳多留」135篇) 付文とは久米平内像を指す。 「不動さん あたりに来たと 濡仏」(「誹風柳多留」124篇) 不動とは火炎の中に坐す三社様の傍 らにあった荒沢不動 説明板のよれば、 江戸時代前期承応3年(1654)造立 文化10年(1813)編纂の「浅草寺志」にも載っている。 久米平内堂の左隣 戦災供養のため 久米平内は江戸時代前期の武士。 喜多村信節の「武江年表」によると天和3年(1683)に没したとされるが、その生涯については諸説あり実像は不明。 平内堂について次の伝承がある。 平内は剣術に秀でており、多くの人を殺めてきた。 後年、その供養の為に仁王坐禅の法を修行し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ち込んだという。 臨終にのぞみ、自らの姿を石に刻ませ、多くの人々に踏んでもらうことにより、犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。 その後、石像はお堂に納められたという。 「線香や 平内堂の 春の雨」(小林一茶「一茶俳句集」) 「初雪や 平内堂の 小豆飯」( 同 上 ) 平内堂は昭和20年空襲で焼失した。現在のお堂は昭和53年(1978)再建されたもの。 また、「踏付け」が文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代以降、特に縁結びの神として庶民の信仰を集めた。 「風俗画報(新撰東京名所)」には次の様に様子を述べている。 「お文といひて、心に思ふことを細かに認め、一通の書状として堅く封じ、上書に平内様誰よりと しるし、像の前に納め、お返事と称して、兼ねて納めたる願望成就の能く知るところなり」 |
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「仁王門前右の方にあり。麓に大いなる池あり。 この山上に鐘楼ありて昼夜二六の時をつぐる。 明六つをもて仁王門をひらき、晩六つをもて是を閉づる。 この鐘をもて当山開閉の規とせり。」 (歌川広重「絵本江戸土産」) 宝蔵門(旧仁王門)の右手(浅草寺境内の東)の外れに、弁天山と呼ばれる小丘があった。 そこの頂上に弁天堂が建ち、側に鐘楼が建っていた。 冒頭の「絵本江戸土産」に記されているような池はない。 明治初年頃まではあったらしい。 参拝者が多く行き交う参道から外れているのと、雨の所為もあって訪れる人が全くない。 一人ゆっくりと散策し、参拝した。 ここの弁財天は裁縫にご利益あるとのことだが・・・・・。 東京の人にも、江戸の人にも、弁天山の弁天堂も、鐘楼も馴染みのものだった。 しかし、今回の戦災で焼失し、現在の弁天堂や鐘楼は戦後再建されたものだ。 そして、鐘だけは戦火から残り、昔からの鐘が吊られている。 ところで、芭蕉が貞享4年(1687)詠んだとされる「花の雲 鐘は上野か 浅草か」の句は、深川沿いの 草庵から、ここで撞かれた「時の鐘」の音を聞いたものだといわれている。 しかし、現在の鐘は元禄5年(1692)改鋳されたものであるので、芭蕉が耳にしたのはここからの鐘の音だ としても、少なくとも現在の鐘ではないようだ。 弁天山の弁天堂と鐘楼 弁天堂も鐘楼も昭和20年3月の空襲で焼失したが、弁天堂は昭和58年(1983)、鐘楼は昭和25年(1950)に再建された。 鐘は、元禄5年(1692)5代将軍徳川家綱の命により深川住の太田近江掾藤原正光が改鋳し、その費用を下総関宿藩主牧野備前守成貞が黄金200両を寄進した。 歌川広重「絵本江戸土産」に記しているように、 江戸時代「時の鐘」の役目をした。 現在は毎朝6時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点打される。 本尊は白髪の弁財天で「老女弁財天」と呼ばれる。 別名銭瓶弁財天といわれるそうだ。 関東3弁天(他の2つは神奈川県江ノ島、千葉県柏市布施)の一つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。 弁財天の縁日は「巳の日」で、堂内にてお参りができる。 大永二年(1522)九月のはじめ、北条氏綱よりの使として富永三郎左衛門、古河の御所へ参りける帰るさ、当寺の観音へ参詣せしに、折ふし十八日なれば、常よりも殊に参詣の人群集す。 このとき弁天堂辺より、銭湧き出づる事ありて、参詣人この銭をとる。 寺僧制しけれどもきかず。(「江戸名所図会」) |
は未年なので、大日如来に諸願成就を祈った。


