ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

関東紀聞

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

トはなしながら随身門をくぐりて観世音を詣で、東谷の石段を下りて三社の方へ歩行、宮戸川

(隅田川)の床机に休らふ。 此時すでに巳の刻の鐘音、弁天山より告渡り、炎暑堪がたくして、

奥山の樹下茂り、枝に涼風を待人のみぞ多かりける。(為永春水「春色梅美婦弥(シュンショクウメミブネ)」)

浅草寺本堂(観音堂)、浅草神社と過ぎた東に、重文の二天門が建っている。

浅草寺の東門であるが、江戸時代を通じて、本堂の西側、今の淡島堂辺り、に建てられた東照宮の随身門

と伝えられ、2随身像(豊岩間戸命、節岩間戸命)が安置されていた。

明治初年の神仏分離令によって2随身像は浅間神社に移され、替わって仏教を守護する四天王の内、持国

天、多聞天の2天王像が安置され、名称も二天門と改称された。

太平洋戦争では門は戦災に遭わなかったが、皮肉にも2天王像は疎開先で焼失した。

現在の2天像(持国天、増長天)は昭和32年(1957)上野寛永寺の厳有院殿(4代将軍家綱)霊廟の勅使門から

移されたものである。

なお、浅草寺の東照宮は、元和4年(1618)建立されたが、寛永8年(1631)と寛永19年(1642)の火災によっ

て、浅草寺の他の堂宇と共に焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山の移されたが、随身門は類焼を免

れが、慶安2年(1649)再建された。それが現在の二天門である。 



イメージ 1二天門
二天門から本堂(観音堂)および大提灯が見える。


イメージ 2 イメージ 3
                               二天像
四天王の内増長天(左)、持国天(右)で、京都七条の仏師吉田兵部が江戸時代初期に制作したもの

本堂の東に三社権現の社あり。是は観音を網にて引上げ奉りし檜熊の浜成と竹成と云、二人の

漁夫の在家を改て精舎となし、真中知といひし漁師と併せて三人を権現といはい、三社の護法

という是なり」 (戸田茂睡「紫の一本」)


浅草寺本堂(観音堂)を出て、右手(東)の二天門に向かって進むと浅草神社があった。

もしかしたら、五月の例祭の名から、浅草神社というより、旧名称である「三社明神」あるいは「三社

大権現」と言った方が通りが良いかも知れない。

また、明治の神仏分離令後は、浅草寺と別法人であるから、浅草寺の稿で取り上げるのはおかしいかも知

れない。

しかし、江戸時代までは浅草寺と一体であったし、現在でも境内の中に鎮座している感じなので、浅草寺

の稿として扱うことにした。


祭神は土師真中知命(ハジノマツチノミコト)、檜前浜成命(ヒノクマノハマナリノミコト)、檜前竹成命(ヒノクマノタケナリノミコト)、東照宮

(権現様、徳川家康)である。

浜成と竹成は隅田川で漁労中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像を奉安者と言

われている。

3神を祀る神社なので「三社さま」と呼ばれた。

慶安2年(1649)東照宮を合祀し、それ以来「三社大権現」と言い、明治元年(1868)三社明神社、明治6年

(1873)浅草神社と改称した。

浅草神社は、創建年代は不詳であるが、浅草の総鎮守である。

(昔は3月だったが)毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、百体近い町神輿の渡御があって

人々が群集し賑やかである。

:)は延べ5年近く東京近在に住んだことがあるが、残念なことに一度も見物したことがない。

関西に移っている現在、悔やまれる。



イメージ 1 浅草神社社頭
祭神は浅草寺創建に関わった3社
      土師真中知命(ハジノマツチノミコト)、
      檜前浜成命(ヒノクマノハマナリノミコト)、
      檜前竹成命(ヒノクマノタケナリノミコト)、
  と 東照宮(権現様、徳川家康)である。


イメージ 2 浅草神社社殿
慶安2年(1649)徳川家光が再建。 重文
拝殿・石の間(幣殿、相の間)・本殿と繋がり、
屋根の棟数が多いことを特徴とする権現造



イメージ 3 イメージ 4
                        社殿(拝殿)外と内部
拝殿の木組、壁には極彩色の画が描かれている。


所は大江戸の東北の霊地にて、彼王城のそれならで、固く守る浅草観音、参詣群集は言も更也。

鉢坊主の木魚の音ポクポクとして腹に響は、千日参りの鉦の音カンカンとして耳に貫く。

雷神風神左右に開けば、新場の提灯真中にぶらさがり、陰陽の仁王つっ立かへれば、

久米の平内席を正して畏る。  (鸚鵡斎貢「松登妓話」)


宝蔵門(旧仁王門)を過ぎると、正面に本堂が建つ。屋根は急勾配で棟が他寺院に比べて高い。

内陣に入り、本尊及びお前立ち本尊が居られるという宮殿の前に座り「南無観世音菩薩」と合掌した。

浅草寺は、山号を金龍山と号し、元は天台宗に属したが、戦後独立し「聖観音宗」の総本山である。

本尊は聖観世音菩薩(秘仏)、開基は勝海上人、中興開山は慈覚大師円仁 としている。

縁起は種々あるが、その一つとして次のようである。

推古天皇36年(628)3月18日の朝、檜前浜成(ヒノクマ ハマナリ)、竹成(タケナリ)の兄弟は江戸浦(隅田川)に漁労中、

網にかかった一体の観音像を得た。

郷司土師中知(ハジノナカモト 名前に諸説あり)は、これを拝し、聖観世音菩薩であることを知り深く帰依し、

その後出家し、自宅を改めて寺とし、礼拝供養して生涯を捧げた。

こうした縁起とは別に十人の童子がアカザという草で御堂を建てたという伝承(「江戸砂子」など)も

ある。

大化元年(645)勝海上人がこの地に来て御堂を建立し、夢告により本尊を秘仏と定めた。

平安初期の天安元年(857)慈覚大師円仁(浅草中興開山、比叡山天台座主3世)が来山し、お前立ちの本尊と

御影版木(ミエイハンギ)を刻んだ。

平安中期安房の国守であった平公雅(タイラノキンマサ)が京都へ帰る途次、浅草寺に参拝し、次は武蔵の国守に任

ぜられる様に祈願したところ、その願いが叶ったことから、そのお礼に、天慶5年(942)堂塔伽藍を再建

し、田地数百町を寄進したと伝える。

鎌倉時代将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として武将らの信仰を集め、伽藍の荘厳は

いよいよ増した。

江戸時代初め、徳川家康によって幕府の祈願所とされ、3代将軍家光によって本堂、仁王門、五重塔な

どが再建されるなど、堂宇の威容が更に整い、いわゆる江戸文化の中心として大きく繁栄した。

本尊は一寸八分といわれるので 小粒でも これ見てくれの 大伽藍 (「誹風柳多留」36)との川柳も。

第二次大戦では、昭和20年(1945)3月10日の空襲で主要堂宇の多くを焼失したが、戦後再建整備された。

こうして、都内最古の寺院である浅草寺は、「浅草観音」の名称で全国的にあらゆる階層に親しまれ、

年間約3千万人もの参拝者が訪れる民衆信仰の中心となっている。


イメージ 1お水舎の沙竭羅(サカラ)龍王像
本堂前右にあるお水舎は昭和39年(1964)建立
その中央の八角形の手水鉢の中央に建つ沙竭羅(サカラ)龍王像は高村光雲作で
明治36年(1903)奉安され、本堂裏の噴水に在ったものを移設。


イメージ 2本堂(観音堂)
昭和33年(1958)再建 鉄筋コンクリート造
屋根瓦はチタン製で耐震化を図っている。
本堂内は外陣と内陣に区切られている。


イメージ 3正面入口の大提灯
本堂は南に面し、正面に懸る大提灯には「志ん橋」と書かれ、東京新橋組合から奉納されたもの。
     提灯に 釣鐘負ける 浅草寺  
              (「柳多留拾遺」3)



イメージ 5内 陣
外陣と内陣とは網で仕切られている。、
網が少し目障りだが内陣の様子が良く分る。
しかし、一般参拝者も内陣に入ることができた。
中央正面の宮殿には絶対秘仏聖観世音菩薩、その前に慈覚大師円仁作の秘仏お前立ち本尊聖観世音菩薩を奉安。
その左右に梵天、帝釈天が立ち、左奥に愛染明王、右奥に不動明王が奉安されていた。
内陣にて「南無観世音菩薩」と合掌

坂東33観音札所第13番
ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草に 参る身なれば

江戸古川柳 江戸自慢 十三番が これくらい (「誹風柳多留」78)
            

イメージ 4外 陣
外陣は土間で、正面上の額は、
深見玄岱筆で「施無畏」と記されている。



イメージ 6龍の図
外陣天井中央には川端龍子画の「龍の図」が掲げられている。


イメージ 7 イメージ 8
                             天人の図
「龍の図」の左右には堂本印象画の「天人の図」が掲げられていた。

イメージ 9 イメージ 10
                              花の図
「龍の図」、「天人の図」を挟むように「花の図」が掲げられていた。

「当寺観音の霊像は 人皇参拾四代推古天皇の御宇、進(土師)の中臣といふ人あやまれる事ありて
此処に左遷せらる。
その臣檜熊・浜成・武成といふ三人の兄弟、主人の跡をしたひ来、中臣につかへて漁をいとなむ。
推古帝参拾六年戊子三月十八日、三人の兄弟宮戸川の沖に網をおろすに、あやしきものかかれり。
月かけに見やれば観音の佛体なり。 草をむすびて、此像を安置す。
その翌日近辺の草刈り童十人つれて朝草を刈りに出る。草陰より光明かくやくたり。
おどろき見るに大悲の像あり。
かくの所へ三人の者来て、しかじかの事をかたる。
おのおの奇異のおもひをなし、藜(アカザ)を柱として仮の草堂をむすびて尊む。此所今の一の権現也。
藜を以って作れるによりあかざ堂といふ。
今またこれをあやまりてあかん堂といふなり。」(菊岡沾凉「江戸砂子」)

金龍山浅草寺の仁王尊 右のかたの一体を拝し、いまだ疱瘡せざる小児をこのところへ連れ行き、

此股ぐらをくぐらすれば、疱瘡はしかいたってかるしとて、遠近より聞つたへ此所へきたる。

平常は錠をおろして内へ入ることを禁すれども、毎月八日御えん日、右の日に人を入るなり。
                                                      (「願掛重宝記」)

雷門から宝蔵門までの約140mの参道が仲見世通りで、菓子、玩具、小間物といった土産物などの店約90

店が並ぶ。

しかし、今日は雨で、ビニールシートなどで雨除けしている店が多く、のんびりと見物していく訳には行

かない。

名前の由来は、雷門と仁王門(現宝蔵門)の中にあったからだと言う。

花井戸の人々に浅草寺の境内の掃除役の代償として営業権が認められたのが始まりといい、元禄の頃から

みられた様だ。

ただ、現在の様になったのは、両側にあった支院12院が移転した明治以降である。

やがて左手に本坊の「伝法院」、五重塔が見えると、聳え立つ宝蔵門(旧仁王門)の前に来た。




イメージ 1 仲見世
店を眺めるのも楽しみの一つだが、雨の日はそうもいかない。
ただ通り過ぎるだけだった。



イメージ 6 伝法院表門
出法院は浅草寺の院号で、本坊の称号に用いられている。
諸建物の内、客殿、玄関、使者の間、大台所の一部は安永6年(1777)の建物である。
建物の背後には小堀遠州作といわれる回遊式庭園があるが、通常非公開である。



イメージ 2 宝蔵門(旧仁王門)
昭和39年(1964)大谷重工業、ホテルニュウーオオタニの創業者・大谷米太郎の寄進で再建
鉄筋コンクリート造り。
宝物の収蔵庫を兼ねた山門で重層の楼門であることから宝蔵門と名付けられた。
山門の創建は「浅草寺縁起」によると天慶5年(942)平公雅によると伝えられる。
その後、焼失と再建を繰り返し、慶安2年(1649)に再建された仁王門は山門として昭和20年空襲で焼失するまでその威容を誇っていたと言う。
江戸時代仁王門の上層回廊は、年6日間一般庶民に開放され、絶景スポットとして人気を博していたとか、今はどうか?


イメージ 3 イメージ 4
                              仁王像
向かって左が阿形(錦戸新観の作)、右が吽形(村岡久作の作)で、夫々木曾檜造り総高5.45m、重さ約1tだそうだ。
江戸時代の仁王像には冒頭のような信仰が在った様で、次のような文言も見られる。
そして、まだ疱瘡前でございますから、観音さまの仁王さまの股をくぐらせてくださいましヨ。
この頃あっちこっちに、だいぶ疱瘡がありますそうだから」(曲山人「仮名文章娘節用」)



イメージ 5 宝蔵門裏側
宝蔵門の裏側には大きな草履が奉納されていた。
片方だけで、長さ4.5m、幅1.5m 重さ500kg在るそうだ。
この大草鞋も浅草名物の一つ。


イメージ 7 五重塔
宝蔵門の西側に五重塔が建つ。高さ53.3m。
昭和48年(1973)再建された鉄筋コンクリート造り
スリランカの王立寺院より勧請した「佛舎利」を安置する。
天慶5年(942)平公雅が建立したのが始まりとし、家光が再建した五重塔は昭和20年(1945)空襲により焼失。

雨が盛んに降っていたが、時間があったので、久し振りに浅草寺を参拝し、同時に境内を巡ってみること

にした。

まず、浅草の顔として知られる「雷門」に行く。

流石に、雨にも関わらず観光客で賑わっていた。

雷門から仲見世通りの名で知られる参道が続き、宝蔵門(旧仁王門)、本堂と一直線に並んでいる。

雷門は浅草寺の参詣の入口に当る「総門」なのだ。

雷門の創建の始まりは天慶5年(942)平公雅といわれるが、現在の建物は、慶応元年(1865)浅草田原町の

大火で焼失した後、昭和35年(1960)松下電器(現パナソニック)創業者の松下幸之助の寄進によって再建された

もので鉄筋コンクリート造である。

正面から左側に雷神、右側に風神を祀ることから、「風雷神門」というが通称「雷門」といっている。

それ故、古川柳で 「門の名で みれば風神 居候」(「誹風柳多留」72 )と詠まれている。

雷門と記された大提灯を提げた門をくぐり裏側には、天龍、金龍の龍神像が安置されたいて、

これら4神は浅草寺の護法善神として伽藍守護・天下泰平・五穀豊穣の守り神とされている。


イメージ 1 雷門 (風雷神門)
浅草の顔と言われるだけあって雨にも関わらず人出が多かった。



イメージ 2 イメージ 3
                           風雷神像
向かって左側に虎の皮の褌を締め、連鼓を打つ姿の雷神と、
    右側に鬼面蓬髪、風袋担いで天空を駆ける風神が、安置されていた。
二像の頭部は慶応元年(1865)火災で残ったもので、体部は明治8年(1877)仏師塩川蓮玉によって「浅草寺志」掲載の像を模して復元されたものだそうだ。
風雷神を安置することは、天下泰平、風雷順時、伽藍守護のため (「浅草寺志」)


イメージ 4 イメージ 5
                            龍神像
雷門の裏側には、向かって左側(風神の裏側)天龍、右側(雷神の裏側)女神の金龍が安置してあった。
平櫛田中、菅原安男作で、昭和53年(1978)安置されたものだ。

イメージ 6 大提灯の底
大提灯の底を覗くと、底には竜の彫り物がしてあった。

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事