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友情の中には、すばらしい喜びがある。 喜びが伝染性のものであることを見れば、このことは難なく理解される。 私のいることが、私の友人に対して、少しでもほんとうの喜びを与えさえすれば、 その喜びを見ることが、こんどは私に喜びを感じさせることができるのだ。 (アラン著、石川湧訳「幸福論」77友情) 東京に住む学生時代の友人OとIに、東京スカイツリーが完成したから見に来い、と誘われていた。 そこで今朝、神戸空港発の便で東京にやって来た。 勿論東京スカイツリー云々は口実で、久し振りに顔を合わそうというのが本当の意図である。 東京に着けば、生憎の雨だ。口実だったとはいえ、一応東京スカイツリーを見に浅草の吾妻橋まで来た。 ここからは朝日ビール本社ビルと墨田区役所にはさまれて東京スカイツリーの全容が綺麗に見られるはず であった。 しかし、お目当ての東京スカイツリーは、下5分の1しか見えず、上の5分の4は雲の隠れていた。 Oが昨年末送ってくれた写真のような景色を期待していたのだが、それは打ち砕かれた。 ただ、大方が雲に包まれてしまう東京スカイツリーは高いということだけは確認できた。 もはやこれ以上近付いて見てみようという気は起こらなかった。 隅田川の対岸には首都高速六号が横切りその先に 左から墨田区役所、東京スカイツリー、朝日ビール本社、朝日ビール吾妻橋ホール、UR都市機構ライフタワーと並ぶ。 雲に隠れた東京スカイツリー 東京スカイツリーは総事業費650億円で、2008年7月に起工、2012年2月29日完成、3月2日竣工式を催した。建設を請け負った大林組から運営会社の東武タワースカイツリーに引き渡され、5月22日営業開始を予定している。 高さ634mは、中国の広州タワー(600m)を抜いて、世界一高い自立式電波塔。 追記 東京スカイツリー展望デッキから吾妻橋方向の眺めはここをクリック
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関東紀聞
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上野公園散策している内に随分薄暗くなった。 再び西郷さんの銅像近くに来ると一本の大きな木が電飾されていた。 丁度今灯りが点ったようで、見ているとぐんぐん明るさを増していった。 銅像の近くの坂を下った所―上野公園の入口近く―でも動物のオブジェクトを使っての電飾が灯された。 この電飾のタイトルは「恋人たちの森」と付けられ、心和ませる作品だった。 ここも真っ暗になった頃は光輝くようになり更に魅了することだろう。 だが、残念ながら帰りの便のこともあり、そろそろ急いで羽田に向かわなければならない。 最後まで見届けずこの場を立ち去った。 恋人たちの森 |
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「上野の清水堂と春の桜、秋の紅葉の対照もまた、日本固有の植物と建築物との調和を示す一例で ある。」 (永井荷風「日和下駄」) 日が西に相当傾きかけた頃、久し振りに上野公園を歩く。 東照宮からJR上野駅に向かって歩いていると、清水観音堂が目に入った。 序でにと言ったら仏様に失礼かも知れないが、序でに寄って拝してきた。 元々寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模して寛永8年(1612)創建したものだ。 当初は現在地より100m余北にあったが、元禄7年(1694)この地に移築し現在に至っている。 観音堂は最近解体修理が行われた所為か、夕陽に照らされた観音堂は、丹色が更に鮮やかに見えた。 清水観音堂(舞台下から) 桁行五間、梁間四間、単層入母屋造り、本瓦葺き 重文 不忍池に臨む正面の舞台造りは江戸時代より浮世に描かれるなど著名な景観である。 近年老朽化が目立ち、平成2年(1990)より全面的な解体修理工事を実施、平成8年(1996)完成。 清水観音堂(舞台から) 本尊は千手観音菩薩坐像、京都清水寺より奉安したもので秘仏、平常は厨子内に安置するが毎年2月初午の日のみ開扉される。 脇本尊の子育観音は子供に関するさまざまな願いをもつ人々の信仰を集め、願い事が成就した際には、身代わりの人形を奉納する。9月25日には奉納された人形を供養する行事がある。 なお、江戸時代正月10日は、諸大名が参詣のため、この前を通る行列を品評したのか、古川柳に 清水に 居て大名の 評議する(「誹風柳多留」9篇 )というのがある。 案内図 |
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名物の桜の木はすっかり葉を落とた冬枯れの上野山を歩いていると、東照宮へ来た。 社殿は改修工事中で素屋根にすっぽりと覆われていた。 参道沿いに東照宮牡丹園があり、2月20日まで開園中で冬ぼたんを展示していた。 入口には、次のように説明してあった。: 昔寒牡丹は正月の縁起物の飾り花として使われた。しかし、生育が弱く「葉牡丹」がその主流に なっている。 牡丹は普通春(4月中旬〜5月中旬)に豪華絢爛な花をつけるが、当宮では牡丹の持つ特性を活かし、 寒中の花として「冬ぼたん」を開花させた。 入園してみると、牡丹は一本一本雪除けの「わら囲い」をされ、その中で柔らかい花びらの大きな花を 咲かせていた。 花の色は白、赤、ピンクが主であったが、中には黄色があった。 寒い中にひっそりと咲くその姿は、見る人々の心を温かく和ませてくれた。 東照宮参道入口に立っていた。 寛永8年(1631)信濃国川中島の領主佐久間勝之が寄進したもの。 高さ6m、笠石の周囲3.63mと巨大な石燈籠。 その巨大さ故お化け灯篭と呼ばれている。 同じ勝之が寄進した南禅寺(京都)、熱田神宮(名古屋)の大灯篭と共に日本三大灯篭と呼ばれる。 冬牡丹 冬牡丹 案内図 |
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念願の葛飾柴又の散策を終え、少し時間があるので浅草による心算で京成に乗ったが、乗り換える駅を乗 り過ごしてしまい、知らない内に上野へ帰ってきてしまった。 やむ終えず上野公園を散策して、帰りの便までの時間を過ごすことにした。 おのぼりさんにとって、上野といえばまず「西郷さん」の銅像だ。 流石に光雲の作と思わせる立派な像だ。西郷隆盛の夫人が「本人に似ていない」と言ったとか。 しかし、それは光雲の所為ではない、光雲に渡された資料の所為だ。 像の前では何やら工事をしており、白色に塗られた鉄柵がされて、最適と思われる場所からの写真は撮れ なかった。 西郷さんの銅像の近くに彰義隊の墓があった。 一時は敵味方に戦、その後、両者とも賊名を負った者たちが、ここに名をとどめている。 時の流れの面白さを覚えた。 西郷隆盛像 西郷隆盛は明治の3傑の一人。いまさら、その業績を記すことも無いだろう。 明治10年(1877)西南戦争に敗れ、死亡、享年51歳。明治22年(1889)賊名が除かれ、正3位を追贈された。 像は高村光雲の作で、明治30年(1897)竣工。 彰義隊墓 徳川慶喜は大政奉還後、鳥羽伏見の戦に敗れて江戸に戻った。東征軍(官軍)や公家の間では徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、後に 彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として、上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。 慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。 彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千手円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付せられた。 正面の小墓石は明治2年(1869)寛叡寺小院の寒松院と護国院の住職が密かに附近の地中に埋納したものだが後に掘り出された。 大墓石は明治14年(1881)12月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。 彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。(傍に立てられていた説明板より) 案内図 |


