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安倍王子神社前の旧熊野街道を北に100mほど歩いた所に安倍清明神社があった。 安倍清明神社は、祭神が安倍清明で、創建は寛弘4年(1007)であるが、その後衰微し大正10年(1921)安倍 王子神社の末社として復興された。 清明は天慶7年(944)3月辰の日、辰の刻にこの地に生誕し幼名は安倍童子といった。(生誕年については 延喜21年=921という説もある) 後に天文陰陽推算の術を修め、主計権助、従四位上、大膳太夫、左京権太夫、天文博士、播磨守などを歴 任した。 花山天皇の退位を予知したり、大江山の鬼退治を指導した事などは有名である。また職神を自在に駆使し たと言われ、そうした説話が「今昔物語」などに伝えられている。 清明伝に、「冷泉、円融、花山三帝に仕え、清明がかって修めた陰陽卜占の術で帝のご病気を癒したとの 功により、名を清明と賜り、又芦屋道万法師との問答に打ち勝って播磨守に任ぜられ、従四位を賜った」 とある。 そのことから、学術の神、火難痛難災除の神、安産の神として信仰されているまた、生誕に関しては、 父・安倍保名(アベノヤスナ)が助けた白狐生んだと言う、有名な「葛の葉」伝説がある。 境内には安倍清明公像、葛之葉霊狐飛来像、安倍清明産湯井の跡、安倍清明生誕地碑、鎮石、や末社の 泰名神社があり、社務所では占い師が常駐する占いコーナーが設けられていた。 大正14年(1925)再建 絵馬の図柄は白狐と清明となっていた。 安倍清明産湯井の跡碑:江戸時代の摂津名所図会に産湯井の図が見える 安倍清明誕生地の碑:文政年間(1818〜1826)堺の住人神奈辺大道心が建立 鎮石(シズミイシ):古代の船の碇で、鎮める意から安産を祈る石となり、孕み石とも呼ばれ信仰されている。 清明の父・泰名(ヤスナ 保名)稲荷大神を祀る。 |
大阪案内
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あべの筋を北に歩いていると、松虫交差点近くに安倍王子神社があった。 社伝によれば仁徳天皇の創建と伝え、一説にはかって此の地を本拠とした安倍氏の創建とも言われる。 平安時代から熊野詣が盛んになるや、九十九王子の第二王子社として阿倍野王子等称せられ、上皇女院な どを始め、一般参詣客の礼拝休息などの用に充てられ殷賑を極めた。 その後、社運も幾変遷を経て現在に至っている。 当社は大阪府下で唯一の、旧地に現存する王子社だそうである。 社頭(西側) 鳥居に向って左側に、「もと熊野街道」の碑が建っている。 熊野街道は八軒家を起点にして四天王寺、阿倍野王子を経て、和泉の海岸沿いを南下して紀伊に入り、熊野三山へと至った。 鳥居前には「安倍野王子旧蹟」の石柱が立っていた。 鳥居から本殿に向う参道には大きな楠が生えており、ご神木で、大阪市の保存樹でもある。 ご神木には注連縄が張られ、高さ20m近く、幹周り約3m〜約4mある。 昭和42年(1967)竣工 祭神は伊弉諾尊、伊弉冊尊、素盞鳴尊、品陀別尊(ホンダワケノミコト、八幡大神) 品陀別尊は東区安土町に鎮座していた男山八幡神社の祭神で明治40年(1907)合祀したもの。 三熊野権現のお使いである八咫烏を祀る。 社伝によれば、応神天皇の夢に三熊野権現のお使いが現れ「早く祀るべし」と告げた。そこでその場所を探していると、安倍島の松の下に3足の烏がおり、首は雪より白く、目は日より明るかった。そこにお祭りしたのが安倍王子神社の始まりと伝える。 紅白の御幣または絵馬に願い事を記し、御烏尊にお願いすればその願いを熊野の本社まで届けて下さるそうだ。、 葛之葉稲荷大神、末広大神など合計9柱合祀。すべて稲荷大神で宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ) 中の本殿は元禄時代の建物で、木像桧皮葺極彩色 |
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炎天下の阿部野筋を、日陰を拾いながら「播磨町」から「松虫」方向に歩いていた。
すると、北畠公園という小公園の北隅に北畠顕家(キタバタケアキイエ)の墓があった。
室生寺の境内に伝北畠親房の墓があったことを思い出し、寄って参拝した。顕家は親房の長男だ。
鉄製のフェンスに囲まれた廟所の中央に墓石が建っていた。
墓には「別当鎮守府大将軍従二位行権中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」と彫られており、前には花が手向けられていた。
周囲の木々の木陰になっており、こんな暑い中にも係わらず涼しげであった。
200m西にある阿倍野神社が管理しているようで、なにやら祭礼があるらしく廟所の周囲に多くの提灯が吊られていた。
人影がなかったので、何の祭礼か確認出来なかった(後で阿倍野神社の夏祭りと分った。)が、墓が大切に守られているようで嬉しく思いながらここを後にした。
北畠顕家(キタバタケアキイエ)は、南朝方に多い悲運の武将の一人だ。摂関家に次ぐ精華家の流をくみ、享年21歳で討ち死にした悲運さと貴公子振りから、「花将軍」と謳われたという。(ここで平成3年のNHK大河ドラマ「太平記」で顕家をゴクミこと後藤久美子が演じていたのを思い出した。)
北畠顕家は、後醍醐天皇を補佐した北畠親房の長男で、元弘3年(1333)鎌倉幕府が倒れ、建武の中興がなると、16歳の若さで陸奥守に任ぜられ、義良(ノリヨシ)親王(後の後村上天皇)を奉じ、父親房と共に、奥州に下向した。
建武2年(1335)鎮守府将軍に任ぜられた。
しかし、その頃足利尊氏が後醍醐天皇に叛し、京に攻め上ったので、顕家は奥州・関東の軍を率いて西上し、建武3年(1336)尊氏を破り九州へ敗走させた。
京を確保した後、奥州に戻ったが、尊氏は九州で勢力を盛り返し、再び京へ攻め上ってきた。
足利尊氏は楠正成を湊川で戦死させ、京に侵攻し光明天皇を立てたので、後醍醐天皇は吉野に逃れた。所謂南北朝の始まりである。
顕家は再度奥州を出発し、伊勢、奈良と進撃し、足利尊氏方の高師直の軍勢と摂津で対戦し、さらに天王寺阿倍野と転戦したが戦利あらず、次第に押され石津の戦で遂に戦場の華と散った。
墓は太平記などの伝承により、江戸期の学者並河誠所がそれまで「大名塚」と呼ばれていた塚を北畠顕家の墓と比定し、享保年間(1716〜1736)現在の墓碑を建てられたものだ。
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先週の金曜日、朝からの雨も15時ぐらいには止んだ。
夕方、夕涼みの心算で土佐堀川岸をぶらりぶらり歩いていたら、
大阪天満宮前にきていた。
境内に入ってみると、7月24,25日の天神祭りの準備に真っ最中という感じだった。
天神橋筋商店街に出ようと、境内を抜けると、軒下に沢山の提灯が点灯された天満
天神繁昌亭(以下 繁昌亭)が目に入った。繁昌亭は上方落語協会などが中心にな
って、平成18年(2006)9月開いた大阪唯一の定席の寄席である。
オープンしてからは評判も上々で、
その後も、その名のとおり繁昌していると思っていた。
切符売り場で、入場の可否を尋ねると、金曜日にも係わらず当日券がまだあり、
夜の部の入場を開始している、というので早速入ってみた。
客席は1,2階合わせて約220席あるようだが、がら透きだった。
すべて自由席なので通常取れないような4列目の中央に座った。
しかも、両側の席に鞄と傘を置けた。
その後も客が増える様子もなく18:30開演を迎えた。だが相変わらずがら透きで、
ざっと見渡した所、来客数はせいぜい30名というところだった。
1時間ぐらいは噺家の熱演に笑い、拍手していたが、その内疲れが出たのか寝て
しまい、途中の仲入りも気付かず、目が覚めたのは最後の拍手の時だった。
繁昌亭外観 向って右方向が大阪天満宮北門、左の赤い鳥居はお稲荷さん
今日のプログラム 下段が夜席のもので、「当日券あり」の張り紙がしてあった
天神祭り船渡御を描いた幕 客席の天井に吊られた提灯 提灯には寄付した人名や会社、団体名が記され、屋外の軒下周りと天井に吊り下げられた提灯は約1500個
のこと。(2階席最前列から撮影)
繁昌亭のHP
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大寒になったにも拘らず思ったより暖かい。御堂筋をぶらついていて、「今橋3」で西に折れると鉄筋コ ンクリート造4階建ながら外壁は化粧レンガのなかなか風情のあるビルが目に入った。 大正元年(1912)創立された大阪財界人の社交クラブ「大阪倶楽部」で、大正始めに建てられたビルが火災 で焼失し、現在の建物は大正13年(1924)安井武雄の設計で再建されたものだそうだ。 インド風の彫刻を施した正面列柱(高砂の竜山石を使っているとのこと)、イスラム建築風のアーチ、等 はエキゾチックである。又 飾りを施されたテラスなどは南欧風と見ていて飽きない建物だった。 |



