ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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住吉大社は古い由緒を持つ神社だけあって、摂社、末社が多くあった。

まず、住吉大社と縁の深い神様を祀った摂社は次の通りだった。

大海神社(タイカイジンジャ)


豊玉彦命、豊玉姫命を祀る。神殿前の井戸「玉の井」は海神から授かった「潮満珠(シオミツタマ)」を沈めた処

と伝えられる。

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船玉神社(フナタマジンジャ)


天鳥船命(アメノトリフネノミコト)、猿田彦神を祀る。船や航空機の安全を守る神様。

航海・航空を問わず海外に渡航する前に参拝するする人が増えているそうだ

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若宮八幡宮


応神天皇(誉田別尊:オンダワケノミコト)、武内宿禰を祀る。国家鎮護、厄除開運、安産育児にご利益

社殿前の石の鳥居は柱が四角で、貫の両端が柱から外に出ていない「住吉鳥居」あるいは「角鳥居」と呼

ばれる様式のもの。


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志賀社


底津少童命(ソコツワダツミノミコト)、中津少童命(ナカツワダツミノミコト)、表津少童命(ウワツワダツミノミコト)を祀る。

伊邪那岐命(イザアナギノミコト)が黄泉の国から帰り、海中で禊祓した時、住吉大神と共に出現した神といわれ

る。本社は福岡市の志賀海神社


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住吉大社は摂津の国一の宮で全国約2000社余の住吉神社の総本宮である。

祭神は住吉三神{表筒男命(ウハツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツオノミコト)、底筒男命(ソコツツオノミコト)}と神功皇后であ

る。

創建の歴史は古く、仲哀天皇9年(200)神功皇后が三韓征伐より七道浜に帰還した時、神功皇后への神託に

より、天火明命の流れを汲む尾張氏の一族である土地の豪族田裳見宿禰が住吉三神を祀り、その後、神

功皇后も祀られたと言う。

桜の蕾が随分膨れ、種類によっては咲き始めているこの時節住吉大社に参拝した。

南海電鉄和歌山線住吉大社駅で下車すると目の前が住吉大社の社頭だった。


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境内に入ると、朱塗りの反橋(太鼓橋)が架けられていた。現世と天上の神を結ぶ架け橋とされている。

橋脚は慶長年間に淀殿が寄進と言うこの橋は朱色の優美なシルエットが美しい。

この反橋は今では誰でも渡れるが、明治時代までは神様だけに限られていたそうだ。

江戸時代初期までは、この反橋の直ぐ前まで海岸線が迫っていた。


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橋を渡ると門があり、その前に建つ石の鳥居の柱は四角だ。

住吉鳥居、角(カク)鳥居とよばれる珍しい形式の鳥居である。

額は伊万里焼の陶製で「住吉神社」の文字は有栖川宮幟仁(アリスガワノミヤタカヒト)親王(1812〜1886)の揮毫


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門をくぐり、社殿の前に来た。表筒男命を祀る第3本宮と神功皇后を祀る第4本宮の拝殿と本殿が並んで

建っている。

最近まで修理の工事がなされ、現在は第1本宮に仮遷宮されているとのことだ。(来月4月に戻られると

のこと)


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第3本宮の後に並ぶのが、中筒男命を祀る第2本宮だ。


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一番奥に建つのが底筒男命を祀り、現在は、表筒男命と神功皇后が仮遷宮されている第1本宮だ。


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本殿はは文化7年(1810)に造営され、「住吉造り」と呼ばれる神社建築史上最古の様式だそうで、国宝に

指定されている。

因みに、屋根の上に交差した木を「千木」と言うが、第1本宮から第3本宮は縦に切られているが、第4本

宮だけは水平に切られている。祀られている神様が男神か女神かの違いによるものだそうだ。

適塾の近くに高塀に囲まれた御殿風建物があった。大阪市立愛珠幼稚園で市内で現存する最古の幼稚園で

ある。

明治13年(1880)船場北部の連合町会が創立し、明治22年(1889)に大阪市に移管された。

現園舎は明治34年(1901)竣工のものである。

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愛珠幼稚園門の脇に「銅座の跡」の碑が建っていた。

イメージ 3銅座は明和3年(1766)設置された。
江戸時代、銅は重要な輸出品だった。銅座は銅山から荒銅を買い上げ、大阪で技術を競っていた銅吹仲間に精錬させ、それを集荷して海路長崎へ回送するのが役目だった。

懐徳堂と適塾

船場をぶらついていて、江戸時代後期、船場には名の知れた教育機関が2箇所あったことが、わかった。

一つは懐徳堂、もう一つは適塾だ。両者の流れは、現在大阪大学に引き継がれている。


懐 徳 堂


懐徳堂を伝える遺構は無く、御堂筋「今橋3」交差点近くにある日本生命本社ビル南壁に「懐徳堂旧址の

碑」があるに過ぎない。

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懐徳堂は享保9年(1724)5人の大阪豪商により創設された町人の学問所である。

享保11年(1726)には江戸幕府からも「大阪学問所」として公認され、明治2年(1869)閉鎖されるまでの

約140年間にわたって大阪学術の発展と商道徳の育成に貢献し、一時は江戸の「昌平坂学問所」と並ぶ隆

盛を誇ったと伝えられる。

学則に当る定書の第一条には「書生の交わりは貴賎貧富を論ぜず、同輩と為すべきこと」と記され、身分

社会の中にあって、大阪らしく柔軟な学風を目指していた。


適 塾


適塾の遺構は内北浜通り沿い、御堂筋と堺筋のほぼ中間にあった。

現在は大阪大学に引き継がれ、建物自体を保護すると共に東西のビルを撤去して史跡公園化し、一般にも

公開されていた。

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適塾は緒方洪庵が天保9年(1838)開いた蘭学塾で、洪庵は幕府の奥医師として迎えられる文久2年(1862)ま

での24年間教育した。(適塾は明治初年まで存続した)

明治維新に身を捧げた橋本左内、大村益次郎、教育者の福沢諭吉、初代衛生局長として我が国の衛生行政

を確立していった長與専斎、初代日本赤十字社総裁の佐野常民、幕府側の大鳥圭介、高松凌雲らを輩出し

たことでしられる。

イメージ 3建物は「重要文化財」である。中に入ると当時使用した医療器具や勉強に使用した辞書などの資料が展示してあった。塾生部屋の中央の柱には有り余るエネルギーの発散のためか塾生がつけた刀疵が無数にあった。


イメージ 4建物の東側公園入口にはちょうど紅梅が満開だった。


イメージ 5西側公園には緒方洪庵の像が建っていた。


塾の暮らしについて、安政3年(1856)11月から安政5年(1858)10月まで在籍した福沢諭吉が、その著「福翁

自伝」に相当の頁を割いている。

それによると、福沢を含む塾生たちは、色々な乱暴悪戯をしているが、一方で一つの辞書を取り合いし、

まともに寝ることなく勉強したとある。

乱暴悪戯の事例を挙げ、およそこういうふうで、外に出てもまた内にいても、乱暴もすれば議論

もする

ソレゆえちょっと一目見たところではーー今までの話を聞いたところでは、いかにも学問

どころのことではなく、ただワイワイしていたのかと人が思うでありましょうが

そこの一段に至ってはけっしてそうでない

学問勉強ということになっては、当時、世の中に緒方塾生の右に出る者はなかったと思われる

この後、適塾の勉強システムや塾生の勉強の取り組む姿を述べている。

道修町に戻る。道修町1交差点から(道修町通りに)西に入ると、薬関係者はもとより大阪市民から崇敬

を集めている少彦名神社があった。

道修町通りに面して、社務所のビル(3階は「くすりのまち道修町資料館」となっている)があり、東脇

に参道があった。参道に入ると、石の鳥居、奥に社殿となっていた。境内は周囲がビルに囲まれ、非常に

狭い。


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安永9年(1780)薬種中買仲間で組織する伊勢講が京都五條天神宮より薬祖神「少彦名命」の分霊を勧請

し、以前から祭っていた中国の医薬の祖とされる「神農氏」を合わせ祀ったのが始めとされる。

境内の絵馬棚を見ると絵馬の図柄は少彦名命と神農氏の2神を描いたものと、後述する張子の虎の2種が

架けられていた

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この神社は11月23日、24日の神農祭が盛大で、大阪では(正月の「えびす祭り」で始まり、この祭りで終

わるため)「とめの祭り」とよばれている。

このとき授与されるのが五葉笹につけられた張子の虎である。


イメージ 6張子の虎
五葉笹に張子の虎と共に「祈願 家内安全無病息災」と記した赤い札がつけられており、その裏面に説明が記載されていた。


文政5年の秋、疫病(コレラ)流行して万民大いに苦しむ。
これにより、道修町薬種商相議り、疫病除薬として虎頭骨等を配合し、虎頭殺鬼雄黄円という丸薬を施与すると共に、張子の虎をつくり、神前に祈願を行い、病除御守として授与する。
古人、病を療するに薬を服用すると共に、また神の加護を祈る用意周到なること誠に想うべきものなり。

イメージ 7春琴抄の碑
参道入口に、「春琴抄」は昭和8年(1933)谷崎潤一郎が道修町を舞台に借りて、松子夫人に対する思慕を架空の人物、幼児に失明した琴三弦の天才春琴と彼女を献身的に仕える佐助に託して創作した、日本近代文学史上屈指の名作である、と言う三島祐一氏の解説と共に谷崎の原稿を写した碑が建っていた。原稿は社務所3階資料館に展示してあった。


蛇足だが、谷崎潤一郎の代表作の一つである「春琴抄」の書き出しは「ー春琴、ほんとうの名は鵙

屋琴、大阪市東区道修町の薬種卸商の生まれであって・・・」とあり、松子夫人の嫁ぎ先である根

津商店は本町にある江戸時代から続く綿布太物商の大店で、鵙屋の雰囲気は道修町の商家よりは根津商店

をモデルにしたと言われている。

ともあれ、近くには明治の商家、旧小西儀助商店があり、鵙屋を彷彿させるとともに、文豪の筆により道

修町の名が春琴と佐助の物語と結びつき文学史上に残っていることを実感した。

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