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JR阪和線「天王寺」駅から2駅目の「南田辺」駅で下車した。 南田辺駅から東北200mほどの所に訪ねる法楽寺があった。 堂々した山門の上に、平成に建立された三重塔と樹齢800年と言われている大楠が、姿を見せていた。 法楽寺は山号は紫金山、真言宗泉涌寺派の大本山である。 治承2年(1178)平清盛の嫡男・平重盛の創建と伝わる。 重盛は父清盛に先立って42歳で病没したが、法楽寺を創建したのは亡くなる前年のことで、当時の伽藍は 壮麗なものだったという。 元亀2年(1571)織田信長による兵火で伽藍が焼失し、江戸中期になって本格的な再興された。 このとき本堂と山門は織田信長の次男・信雄(ノブカツ)を祖とする藩だった大和の宇陀松山藩(元禄8年:169 5に丹波柏原に移封となり、廃藩となっていた)の殿舎と門を移築したという。 信長が焼いた堂宇を、信長の末裔が住んだ建物で復興したことになる。 江戸時代、本尊の不動明王への信仰が高まり「田辺のお不動さん」と呼ばれるようになった。 近畿36不動尊霊場台3番、大阪13仏札所第1番 正徳元年(1711)大和宇陀松山藩の門を移築したものという。 平成8年(1996)落慶法要 高さ約23m 正式名は「平成の三重宝塔」と言うそうだ。 何故か?三重塔の初層扉前に大きな「大根」(レプリカ)が置かれていた。 もっとも、この辺りは「田辺大根」が名産で、 年末の縁日「終い不動」ではそれを用いた大根炊きが振舞われる。 それと関係があるのだろうか? 正徳元年(1711)大和宇陀松山藩の殿舎を移築したものという。 内部は内陣と外陣に分かれている 一般参拝者は外陣まで上がることが出来る。 内陣には 左脇陣:歓喜天、十一面観音菩薩 中央:2童子を左右に従えた不動明王 右脇陣:釈迦如来(中尊)、如意輪観音(左)、地蔵菩薩(右) を祀っている。
本堂の庇の下に安置してあった。 あっちこっち撫でて病気平癒を願った。 |
大阪案内
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JR関西本線平野駅で下車し、南に下ると直ぐに国道25号線にぶつかる。 そこから国道25号線を東に5分ほど歩くと平野の鎮守・杭全(クマタ)神社の社頭に出た。 杭全(クマタ)神社の参道を歩いていると、大楠が参道を覆う様に生えており、参道東脇の伊勢神宮遥拝所近 くに平野環濠跡の碑が建っていた。 杭全神社東側に流れる小川は中世平野郷を囲っていた環濠の 名残りとか。 閑静な境内には、大門、拝殿、本殿が並び、周りには摂社末社が鎮座していた。 杭全(クマタ)神社は9世紀平安時代の初め平野郷の守護神として第1殿が奉祀されたのが始まりという。 12世紀に第3殿が奉祀され、更に14世紀に後醍醐天皇の勅命により第2殿が勧請され、ここに現在の規模が 出来た。 古くは祇園社、熊野権現社と称せられたが、明治3年(1870)杭全(クマタ)神社と改称した。 参道標柱西脇に聳えている大楠木 高さ30m、樹齢は1、000年と言われて、「楠さん」として親しまれている。 鎌倉時代の建物で、杭全神社最古の建物 安政5年(1858)築 平成2年(1990)大改造 拝殿前の左右に鎮座する青銅製の狛犬 足には種々の紐で結ばれている。 この狛犬の足に紐を結んで願を掛け、一本を持ち帰り家出をした人の履物に結んでおけば必ず居所が分るか、家に帰ってくると、言い伝えられる「走人足止め」の祈願の紐。 熊野との強い結びつきを示す八咫烏の図柄
中門・本殿
本殿は現在修理工事中で素屋根に覆われていた第1殿:征夷大将軍坂上田村麿の子広野麿が杭全荘を荘園として賜ってこの地に居を構え、その子当道が 貞観4年(862)氏神として素盞鳴尊を勧請し祇園社を創建したのが始まり。 現在の社殿は正徳元年(1711)春日大社本殿を移築 重文 第2殿:元亨元年(1321)熊野三所権現(伊弉冊尊、速玉男尊、事解男尊)を勧請建立 現在の社殿は永正10年(1513)造営 重文 第3殿:建久元年(1190)熊野信仰の流行するに及び熊野証誠権現(伊弉諾尊)を勧請建立。 現在の社殿は永正10年(1513)造営 重文 高さ18m、幹回り4.8m 樹齢500年以上の銀杏の大木 昔、乳の出が悪くて子供を育てることが出来ない夫婦が願を掛けたところ、乳がよく出る様になって、無事に子供を育てることが出来たと言い伝えられる。 今も乳の出の悪い人や病気を持つ人のお参りが絶えないとのこと。 |
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融通念仏宗を開いたのは、平安時代後期の僧・良忍(1072〜1132 聖応大師)である。 良忍上人は12歳の時比叡山に入り修行・学問に励み、更に仏道を求めようと23歳の時、念仏聖が集う洛北 の大原に移り、念仏三昧に浸った。 永久5年(1117)46歳の時、良忍の前に阿弥陀如来が現れ、良忍に融通念仏の教えを授けた。 その後、鞍馬寺の毘沙門天に勧められて融通念仏を広めることを決意した。 大治2年(1127)聖徳太子の夢告により摂津平野に念仏道場を定めた。 その後の復興、再興を経て、大念仏寺は融通念仏の根本道場として現在に至っている。 宗祖良忍上人立像が安置 声明をしている姿の良忍像のようだ。 良忍上人(1072〜1132)は美声と音楽才能に恵まれ、天台声明を集大成、声明の中興者として知られる。 大原で声明の修練をしていた頃、良忍の声明と瀧の音が和して、ついには瀧の音が聞こえなくなったという。 弘化元年(1844)再建 蓮台に乗る等身大木像 樂山(ギョウザン)上人作の五万人勧進回向地蔵菩薩像 元禄6年(1693)創建 平成元年(1989)修復 堂の両袖に霊牌安置所を設けている。 円通殿本尊 木像で伝教大師作と伝えられる。 良忍上人の念仏勧進を助け、自らも融通念仏に深く帰依した鳥羽上皇を祀る。 正門、廻廊、奉安殿、修法堂からなる。 正門と廻廊は江戸時代、奉安殿と修行堂は昭和5年(1930)再建 文化3年(1806)改築 鐘は同時期改鋳で、従一位右大臣藤原家孝の銘がある。 ネパールより贈られたもの。 マニ車の中にお経が納められていて、手で廻すとお経を一巻唱えるのと同じ功徳があるという。 |
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JR関西本線平野駅から南に5分ほど歩き、国道25号線を渡った先にあった。 大念仏寺は、正しくは「大源山諸佛護念院大念仏寺」と号し、俗に亀鉦寺とも称する融通念仏宗総本山で あり、平野の市街地に広大な伽藍を置いていた。 「大源山」の扁額が掛かる山門をくぐると、壮大な本堂が正面に姿を現し、境内には諸堂が点在してい た。 お寺で頂いたパンフレットによれば、 「大治2年(1127)、良忍上人が聖徳太子が四天王寺に立ち寄った際、聖徳太子から夢のお告げを受け、 鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが始まり。 平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれ る。 その後火災などで荒廃するが、元禄期(1700年頃)に本山として体裁が整い、現在に至る」とのこと。 先に見える山門は宝永3年(1703)建立 扁額「大源山」は霊験天皇の皇女、京都宝鏡寺尼門跡徳厳尼の真筆 山門近くに建っていた。 春風や 順礼共が 練り供養 寛政7年(1795)讃岐観音寺からの帰りにここを詣でている。 本 堂 山門のほぼ正面に建っていた。昭和13年(1938)再建 総欅造り 大阪府下最大の木造建築物 正面の宮殿に本尊十一尊天得阿弥陀如来画像、その両脇に多聞天王、八幡大王 左右の宮殿に宗祖聖応大師(良忍上人)、中祖法明上人の木造を安置 外陣一杯に大数珠が吊り下げられている。この大数珠は百萬遍大数珠繰り法要に使用される。 寛政11年(1799)再建 中央厨子の本尊毘沙門天は行基作と伝えられる。 また、阿弥陀如来坐像、地蔵菩薩半跏像を安置し、両脇段に十六羅漢、閻魔十王像を合祀している。 |
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「旧平野郷はいまでは大阪市内の一区画に過ぎないが、かっては堺と共に輝かしい自治都市 として,日本の近世史にその足跡を残した町であった。」(村田隆志「平野郷小史」) JR関西本線平野駅の下車した。平野(ヒラノ)駅前に漆喰塗りの古民家が一軒どっしりと構えていた。 周辺はどこにでもある駅前風景だが、これだけで平野を訪れたことに期待させた。 9世紀はじめ、征夷大将軍坂上田村麿の次男・広野麿が朝廷よりこの地を賜り「広野の庄」と呼ばれるよう になる。やがて広野が平野に転訛したのが地名の由来と伝えられる。 戦国時代の平野郷は奈良街道などが通り、摂津、河内、和泉、大和方面を結ぶ交通の要所として栄えた。 当時の平野郷は、町の安全を図って市街の周りを濠と土塁で囲み、その濠の間に各方面に通じる13の木 戸口がおかれ、門や地蔵動があったという。 平野の代表的寺社、大念仏寺と杭全(クマタ)神社を廻っているだけで、戦国時代の自治都市「平野郷」 の面影を垣間見ることができた。 杭全神社の参道に建っていた。 杭全神社東側に小川が流れているが、 それが環濠跡とのこと。 杭全神社前の、平野をほぼ東西に通る国道25号線、を渡り、数十m歩くと、旧奈良街道が通っている。 そこに建っていた道標。 江戸時代建立、「当社 熊野権現 祇園社」「右大阪 寛政12年」「右 こうや 大峰」と彫られているのが読める。 泥堂口地蔵堂と地蔵尊 13木戸口の一つ泥堂口門の傍らにあったもの。 泥堂口は奈良街道の大阪、天王寺方面に通じる大門をもつ木戸として重要な出入り口だった。
馬場口地蔵堂と地蔵尊
13木戸口の一つ馬場口門の傍らにあったもの。大門は泥堂口とともに奈良街道の大阪、天王寺方面に接続していて、大阪方面から大念仏寺への参詣口でもあった。 |



