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1週間ほど前、大坂のメインストリート・御堂筋のイルミネーションが、最も多く街路
樹に電飾を施した通りとしてギネスの世界記録に認定された、との報道があった。
そこで、日曜日の夕方御堂筋なんばから北の淀屋橋に向かって歩いてみた。
報道によれば、300個以上の電球でライトアップされた街路樹の本数などを競う新
設のカテゴリーで、「最初の世界一記録」になった。
6色のLED電球で飾った約700本の公孫樹のうち600本が条件を満足していると認
められた。
今シーズンから延伸され、難波西口交差点から淀屋橋の約3kmを約66万個の
電球で照らされている。
実際歩いてみると、御堂筋車道部の中央2列は赤紫色の電球で照らされており、
両サイド(歩道)の2列は場所によって、橙、青、白、ピンクなどと変化をもたせて
いた。
因みに、期間は18日(日)までとのこと。
三津寺町交差点辺りから北方向
大丸前
心斎橋交差点から北方向
伏見三交差点から北方向
北浜三交差点から北方向
ビルのイルミネーション
北浜三交差点から南方向
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大阪案内
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JR天王寺駅南向い,近鉄阿部野橋駅上に建つ「あべのハルカス」が聳える。 近鉄が1300億円と4年の歳月をかけて建設した超高層複合ビルである。 ビルとしては、横浜のランドマークタワー(297m)を超える300mで日本一の高いビルだ。 また、建造物としても、東京スカイツリー(634m)、東京タワー(333m)の次ぐ、日本で3番目を誇る。 今年3月7日にグランドオープンした。 近鉄百貨店本店、ホテル、オフィスなどが入り、最上階の58階から60階は展望台「ハルカス300」 となっている。 展望台へ、大勢の人が押し寄せるのが予想されたため、オープンから1か月間は予約制だった。 1か月も過ぎ、当日でも上れるかなと思いながら、多少並ぶことを覚悟して、大坂へ出てきたついでに 18時半ごろ行ってみた。 思ったより上る人は少なく、並ぶことなく直ぐに上れた。 予想されたことだったが、比較的若いカップルが多かった。 「ハルカス300」からの、四方の夜景を見て、確かに高いと思った。 地階からでは見上げる高層ビルも通天閣も眼下となり、大阪市内が一望できる夜景だった。 因みに、ハルカスは古語の「晴かす」が由来、とO氏から聞いた。 JR天王寺駅前の遊歩道から見上げたあべのハルカス 16Fから60Fの展望台に向かうエレベーターはほとんど振動は感じず奥壁のライトから上昇していくことが実感できた 西北方向の夜景 右下に大坂のシンボル・通天閣が望まれた。 右下は天王寺動物園 比較として16Fから通天閣を撮った 少しガラスの反射が入ってしまった。 比較としてJR天王寺駅前の遊歩道から通天閣を撮った。 北方向の夜景 右中に四天王寺の伽藍が確認できる。 中央の大通りは谷町筋 60F天井回廊から吹き抜けを通して58Fを眺める 58Fから天井回廊を見上げた。 最上のヘリポートに高さと緯度経度が記されていた。 |
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関西地方の恒例行事・十日戎も終わった11日の夕方18時半頃、大阪駅で下車した。
イルミネーションと言えば冬―殊に年末の風物詩であるが、大阪駅および昨年オープンしたグランフロント周辺では、年明けでも行われたいるので覗いてみた。
大阪駅5階「時空の広場」では1月19日まで「Twilight Fantasy 〜光り輝く天空の城〜」と銘打って、イルミネションをしていた。
また、これらのイルミネーションは毎時と30分に音楽に合わせて点滅する。
19時から5分ばかりのイルミネーションの点滅が終わった後、中央会場で電子ピアノの演奏と唄のコンサートが行われていた。
しばらく見ていたが、寒くて途中から退席した。
大阪駅北側
うめきた広場より撮影
うめきた広場
大阪駅北側出口より撮影
ケヤキ並木
ザ・ガーデン
星空のヴェール
高さ18m、幅20mのヴェール
光輝く天空の城
光のブーケストリート
コンコースには花の形をした装飾を取り付けたブーケポールが20本設置されていた。
光の庭園
お城の街並みにある庭園をイメージ師延床面積約240㎡にLEDを敷き詰めている
中央にブーケポールが並んでいる。
コンサート風景
若手のアーティスト「よしこ」さんが演じていた
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大阪城「二の丸」の北の外側に作られた曲輪が「三の丸」、明治に入り大阪砲兵工廠が設置された。 大阪府立女性センター北側にある豊臣時代の「大坂城三の丸石垣(復元)」と合同庁舎一号館南面にある 「東奉行所跡」を訪れ、その後京橋口に向かった。 京橋口は大阪城北西の出入り口で、北方の寝屋川(旧大和川)に京都に通じる京橋があることからこう呼ば れている。 京橋口に向かって右(南)側は西外堀、左(北)側は北外堀である。 戦前までは、大手口と同様、立派な京橋門と多門櫓があったが、昭和20(1945)の空襲で焼失して、今は石 組が残るだけだった。 京橋口から二の丸に入ると右手前方に大きな狛犬が通路を挟んで一対安置されていた。 日中戦争中戦利品として持ち帰ったものだが、戦後日中友好の為中国より改めて贈与の手続きが取られ たものとのこと。 何かとギクシャクしている今日、隣国と親しくなるよう改善されることを切望する。 右手は西の丸庭園になっているので先には進めない。 そこで、左手に内堀に沿って行くとやがて極楽橋の前に来た。 大阪府立女性センター(ドーンセンター)北側道路に面してあった。 平成元年(1989)同センターの建設に伴う発掘調査で、地下約20mのところで、長さ25mにわたる豊臣時代大坂城の石垣が発見された。 その一部を移築復元したもの。 大阪合同庁舎一号館の道路に面した境に碑が建っていた。 江戸時代、幕府が大坂の町を支配するために東西町奉行所を設置した。 東町奉行所は、現在の合同庁舎一号館辺りにあった。 西奉行所は、当初東町奉行所の西に隣接していたが、享保9年(1724)の大火の後、本町橋東詰付近に移転した。 西外堀は、西の丸の西に位置する水掘で、北が京橋口、南が大手口である。 元和6年(1620)徳川幕府の大坂城再築工事で築かれた。 内側二の丸(西の丸)の、京橋口近くの石垣上には乾櫓が建っている。 乾櫓はL字型をしており、1階と2階が同じ面積になっている総二階造りである。 北外堀は二の丸の北に位置する水掘で、西が京橋口、東が青屋口である。 もともと一続きの堀だった東外堀(北・東総延長約3km)、北方の旧大和川(平野川)べりと共に、元和6年(1620)大阪城再築工事で築かれた。 内側二の丸の西北にあたる石垣の隅には3層の伏見櫓が建っていたが、第二次大戦の空襲で焼失した。 江戸時代からの門・京橋門があったが、昭和20年(1945)の空襲で焼失し石組のみ残る。 門の背後は大手口と同じく枡形となっていて、城内第二位の巨石「肥後石」が顔を出している。 京橋口は大手口と同じく桝形になっていた。 京橋門から入って正面のに見えるのが城内第二位の巨石「肥後石」である。 築城の名人加藤肥後守清正が運んできたと伝承されることからそうよばれている。 しかし、実際は備前岡山藩主池田忠雄が運ばせたもの。 肥後石の左手に京橋口二番石(城内第七位)の巨石がある。 京橋口枡形石垣上には、大手口と同じく立派な多聞櫓が建っていたが、空襲で京橋門とともに焼失した。 明朝の狛犬 日中戦争中日本に運び込まれた明朝時代の狛犬。 戦後も長らく山里丸に放置されていたが、昭和56年(1981)改めて中国から寄贈され、現在地に移された。 夫々高さ約3m、重さ約2.9t 正面に、内堀越しの天守閣が覗く。 |
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大阪城は4つの出入り口がある、玉造口、大手口、京橋口、青屋口である。 JRを利用して訪れる場合、森ノ宮駅で下車して入城する場合は「玉造口」、大阪城公園駅で下車した場合 は「青屋口」となる。 大坂城公園駅を下車すると、普段は目の前の「太陽の広場」、「大阪城ホール」の側を通って青屋口へと 行くが、今回は少し北に向い、平野川(第二寝屋川)を渡り、高層ビルが林立する大阪ビネスパーク(OBP) の麓・平野川の川岸を西を歩き、新鴫野橋を渡るという、大回りして行った。 一つには「大阪砲兵工廠荷揚門」を対岸から眺めるためであった。(投稿済) 大阪ビジネスパーク(OBP)辺りは、江戸時代は大坂定番の下屋敷や幕府の火薬製造所があった。 また、慶長19年(1614)大坂冬の陣では「鴫野・今福の戦い」と呼ばれる激戦地でもあった。 大阪ビジネスパーク(OBP)西端には、江戸時代の護岸石垣や河川改修で引き揚げられた築城用の石が展示 されていた。 新鴫野橋を渡り、北外掘と東外堀の間にある青屋口から二の丸に入った。 青屋口は、大阪城二の丸の北に位置する出入り口で、青屋口に向かって右が北外堀、左が東外堀である。 青屋口の桝形は、「二の丸」の他の各口とは異なり、外側に突き出す出枡形だった。 更にその外側は、かっては水掘りとなっていて(東外堀と北外掘はつながっていた)、橋が架かっていた。 その橋は押し出し、引き入れ自在のいわゆる「算盤橋」で非常時以外は引き入れたままとなっていた そうだ。 だが、大正年間に東外堀部分は埋め建てられたが、平成9年(1997)復元された。 しかし、青屋口の部分の堀は埋め立てられたままになっている。 「二の丸」から、内堀に架かる「極楽橋」を渡って本丸のの北側にあたる「山里丸」へと出た。 ここからは、山里口出枡形を抜けるともう天守閣の下だ。 江戸時代は下屋敷などと城内とを結ぶ橋として、公儀橋の「鴫野橋」がかかっていた。 青屋口は、大阪城二の丸の北に位置する出入り口。 青屋門はその桝形の内側に建つ門。 創建は徳川幕府による大坂城再建工事の開始された元和6年(1626)と考えられる。 慶応4年(明治元年 1868)明治維新の大火に被災し、その後陸軍によって改築された。 しかし、昭和20年(1945)空襲で再び大破した。 昭和44年(1969)大阪市が残材を用いて再建した。 現状は上部に櫓を乗せた独立櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分が更に北西の石垣沿いに長く延びていた。 名称については、大坂(石山)本願寺時代、寺内に「青屋町」という町があったことから、その地名が引き継がれたと考えられる。 極楽橋 二の丸と山里丸を結ぶ橋 昭和40年(1965)架橋 鉄筋コンクリート製であるが上部は伝統的な擬宝珠高欄をとしている。 秀吉築城の大坂城本丸絵図でも付近に木造の橋が描かれている。 徳川幕府が再築城した際も橋を掛けられたが慶応4年(明治元年 1868)明治維新の時焼け落ちて以来ずっとないままになっていた。 名称は秀吉築城前の大坂(石山)本願寺に因むと考えられている。 慶長20年(元和元年 1615)大坂夏の陣で豊臣秀頼と母・淀殿が山里丸の櫓にひそみ自害したと伝えられる。 それに因んで平成9年(1997)建碑された。 どなたであろうか?花が手向けられていた。 本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形。 幕府の大坂城再築工事で築かれた。 本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。 南に本丸に通じる姫門、東に山里丸に通じる山里口門があった。 ずれも慶応4年(明治元年 1868)明治維新の大火で石垣上の塀と共に焼失した。 姫門跡辺りから山里口門方向に眺めると、石垣越しにOBPのビル群が見えた。 |


