ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

大阪案内

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

地下鉄御堂筋線「あびこ」駅で下車、5分ほど歩くと「あびこ観音」こと吾彦山大聖観音寺に着いた。

「厄除開運 諸願成就」の御霊験顕かな観音様といて知られているが、平日とあって、ちらほらと

参拝者の姿を見る程度での静かな境内だった。

あびこ観音は、その名の通り、本尊は聖観音菩薩で、日本最古の寺の一つと言われる。

欽明天皇7年(546)膳臣巴提便(カシワデノオミハテビ)が百済の聖明王から身の丈一寸八分(約8cm)の小さな観音像

を託されて帰朝した。

しかし、当時は仏教がまだ正式には飛鳥の都に容れられないので、止むを得ず難波依網郷(ナニワヨサミノサト)の

阿比古浦の丘に草庵を作って安置した。

やがて、地元の豪族依網吾彦(ヨサミノアビコ)などが信仰した。

推古天皇15年(606)聖徳太子があびこ浦の赴き、観音像を拝し、寺を建てることを命じたので、「吾彦山

観音寺」が建てられた。

聖観音像は応仁の乱以降一時高野山の聖無動院へ遷座していたが、徳川家康が再建し、本尊も戻った。

江戸時代には境内に36の支院があるほど隆盛したが明治14年(1881)焼失し、明治23年(1890)再建し現在に

至っている。

なお、昭和22年(1947)真言宗より独立して観音宗と称している。


イメージ 1 イメージ 2
                               本 堂
本堂奥には四天王、聖観音、如意輪観音、千手観音、十一面観音、馬頭観音、準提観音、地蔵菩薩、愛染明王などが並んでいた。本尊の聖観音は2月3日の「節分厄除大法会」に開帳される。
川口が居留地時代(1868〜1899)から立つのが川口基督教会だ。

正しくは「日本聖公会 大阪教区主教座聖堂 川口基督教会」と云うらしい。

教会は明治24年(1881)設立されたが、現在の礼拝堂は、川口が既に居留地でなくなった大正9年(1920)

William Wilsonの設計で建設された。

しかし、平成7年(1995)1月7日阪神淡路大震災では塔が倒れるなど多大な被害を受けたが、

平成10年(1998)昔の姿に復元されたものだ。

煉瓦造2階建 塔付スレート葺でなかなか風格ある建物(国の登録有形文化財)だ。

中に入ると、若い女性がオルガンの練習をしていた。

祭壇中央上窓、礼拝堂側面窓、後(入口上部)窓はステンドガラスになっており、薄暗い内部から見ると陽

が当ったステンドグラスは実に綺麗だった。


イメージ 1

                           川口基督教会


イメージ 2 川口基督教会


イメージ 3 礼拝堂内部
内部は外から見て思う以上に広い。


イメージ 4 祭壇上部窓
幾何学的模様となっている。


イメージ 5 後窓(入口上部窓)
キリストの復活・昇天をイメージしたものだ。


イメージ 6

                                 礼拝堂側面窓
小さな草花の図柄となっている。



尻無川に架かる若松橋を渡り、木津川に沿って歩く、京セラドーム(大阪ドーム)の前を過ぎ、やがて阪神

高速16号高架下をくぐると、本田小学校があった。

その本田小学校の一隅に、「川口居留地跡」碑が建っていた。

関西で外国人居留地と言えば神戸だが、大阪にもあったのだ。

幕府が5カ国と結んだ安政条約(1858)により慶応4年7月29日(1868年9月15日)東京、神戸、新潟と共に大阪

も開港した。

同時に川口は外国人居留地と定められ、26区画が外国人に競売され、大阪川口居留地の歴史が始まった。

明治19年(1886)には10区画が増設された。

また、居留地に接する本田、富島、古川、梅本町も外国人雑居地となった。

しかし、川口は、水深が浅い為貿易商は良港を有する神戸に移り、貿易港としては発展せず、ミッション

系学校や病院等が並んだ。

明治32年(1899)7月居留地が廃止されると、雑居地からの華僑(主に山東省出身者)が進出し中国人街とな

った。

第二次大戦で焼け野原となり、戦後は倉庫街となったりした。

碑のある場所は旧雑居地の位置に当たり、旧居留地で残っているのは川口基督教会くらいで、

これも現在の建物は大正9年(1920)建てられたもので、往時の面影は残っていない、と言えよう。


イメージ 1 川口居留地跡碑
昭和36年(1961)大阪市が建てたもので、
本田小学校一隅にある。


イメージ 2イメージ 3
                        明治24年頃の区割り
当時は木津川対岸の江之子島に大阪府庁舎(1926年大手前に移転)、大阪市役所(1912年堂島浜に移転)があった。

干時嘉永七甲寅年六月十四日子刻頃大地震・・・・・・同十一月四日辰刻大地震・・・・・・・

翌五日申刻大地震家くずれ出火も有恐敷有様漸く治る頃雷の如くひびき、日暮れ頃海辺一同津浪

安治川は勿論木津川別而はげ敷、山の如き大波立・・・・・・・・

・・・・・水勢平日の高汐と違う事、今の人能知る所なれども充分心得且溺死追善旁有儘拙文にて

記し置き願わくば心あらん人年々文字よみ安きよう墨を入れたまふべし (大地震両川口津浪記)

去る11日の東日本大震災は大津波により甚大な被害をもたらした。

TVが繰り返し報じた映像は強烈であった。

海面が盛り上がり、堤防から流れ込む海水は滝のようだし、海の船、陸の車、家屋がごっちゃになり、

木屑か木の葉の様に押し流され、陸地に流れ込んだ海水はアメーバーのように広がり市街地を

呑み込んでいった。

まるでハリウッドのパニック映画の1シーンを見ているようだった。

25日現在で死者1万人以上、行方不明者1.7万人以上、と言い、地震・津波により外部・非常用両電源喪失し

た福島第一原発からの放射性物質の漏洩は一向に収まらない。

:)は先人の戒めを確認するためJR大正駅から5分ほどの大正橋東詰に来た。

ここは大阪湾河口近くで、木津川、道頓堀川、尻無川が合流する。近くには京セラドーム(大阪ドーム)が見

える。

ここに一基の碑が建っている。:)はこれを確認しに来たのだ。

この碑は安政2年(1855)7月建立された「安政大津波碑」といわれるもので。

表から見ると「南天阿弥陀佛、南無妙法蓮華経」と大きく彫られ、前には花が供せられ、一見ありふれた

供養碑かと見えるが、側面裏面には冒頭の文字がびっしりと刻まれ、文字には墨が入れられている。

この碑文は「大地震両川口津浪記」と題し、津波の被害体験(恐ろしさと対処)を後世に伝えようとする

ものだ。

嘉永7年(1854)6月14日に大地震があった。11月4日に大地震があり翌日に大地震の後大津波が来て大被害

と多くの死者を出した状況が累々語られる。

そして、宝永4年(1767)にも大地震があり、多くの犠牲者を出した。

今回、長い年月でこのときの被害体験が忘れ去られていた。(悔しさが滲んでいる。)

続いて、大地震の後必ず津波が来ると心得、津波に対する注意・対処法が記され、

最後に、津波の勢いは普通の高潮と違う事を十分心得ておくこと。犠牲になった方々の冥福を祈り、

(被害体験を風化させないため)つたない文章であるが記録しておくので心ある人は時々碑文が読みやす

いよう墨を入れて欲しい、と締めくくっている。

大地震、大津波は防ぎようも無い。しかし、その危険のある地震国日本に住み続けなければならない。

そこで、どこかで折り合いつけ、何らかの危険を覚悟して生きていかなければならない。

このためにも、被害を最小限になるよう、過去の被害体験、他所の被害体験から学び取り、必要な対策を

講じ、被害体験を風化させることなく後世に伝えておく必要があろう。

海外から、大地震、大津波のニュースがありながら、多くの専門家の口から「想定外」と云う言葉が

多々発せられるのは残念の一言だ。


イメージ 1

                             安政大津波碑(正面)


イメージ 2 安政大津波碑(右側面、裏面)


イメージ 3 安政大津波碑(左側面)


大地震両川口津波記 現代語文                  (碑近くに設置のものより)
嘉永七年(一八五四年)六月十四日午前零時ごろに大きな地震が発生した。
 大阪の町の人々は驚き、川のほとりにたたずみ、余震を恐れながら四、五日の間、不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良では死者が数多く出た。
 同年十一月四日午前八時ごろ、大地震が発生した。以前から恐れていたので、空き地に小屋を建て、年寄りや子供が多く避難していた。
 地震が発生しても水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところへ、翌日の五日午後四時ごろ、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生し、その恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ、雷のような音とともに一斉に津波が押し寄せてきた。
 安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀まで約一・四メートルの深さの泥水が流れ込んだ。両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇やとも綱は切れ、川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れ落ちてしまった。さらに、大きな道にまで溢れた水に慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もあった。
 道頓堀川に架かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し川をせき止めたため、河口から押し流されてきた船を下敷きにして、その上に乗り上げてしまった。 大黒橋から西の道頓堀川、松ヶ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は流れてきた船によって壊され、その音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった。また、船場や島ノ内まで津波が押し寄せてくると心配した人々が上町方面へ慌てて避難した。
 その昔、宝永四年(一七〇七年)十月四日の大地震の時も、小舟に乗って避難したため津波で水死した人も多かったと聞いている。長い年月が過ぎ、これを伝え聞く人はほとんどいなかったため、今また同じように多くの人々が犠牲となってしまった。
 今後もこのようなことが起こり得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対してはいけない。また、建物は壊れ、火事になることもある。お金や大事な書類などは大切に保管し、なによりも「火の用心」が肝心である。川につないでいる船は、流れの穏やかなところを選んでつなぎ替え、早めに陸の高いところに運び、津波に備えるべきである。
 津波というのは沖から波が来るというだけではなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもあり、海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもある。今回の地震で大和の古市では、池の水があふれ出し、家を数多く押し流したのも、これに似た現象なので、海辺や大きな川や池のそばに住む人は用心が必要である。
 津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、十分心得ておきなさい。犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。

安政二年(一八五五年)七月建立 
 
クリスマスが終わって、街の中は一気に迎春モードに変わった。
 
それでも、折角撮った写真を眠らせるのは惜しいので、25日に終了している「OSAKA光のルネサンス」について続報しておく。
 
中之島の土佐堀川沿いに、種々の光のオブジェが置かれ、来訪者の目を楽しませていた。
 
栴檀木橋の上に立ち、下流方向(淀屋橋方向)に目を向けると、正面先のビルの壁面全体にサンタクロースの絵が描かれていた。
 
他の橋同様、淀屋橋もライトアップされ、中之島の周りを周回する遊覧船も電飾されて行き交っていた。
 
普段は周囲のビルのネオンサインを川面に移すだけの土佐堀川は、それだけでも一見の価値があった。
 
 
イメージ 1
 
 
 雪だるま
 
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
 
                イルカ
 
キラキラ輝く波に誘われ、イルカが飛び跳ねる様
後に見えるのは大阪市中央公会堂
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5
                            栴檀木橋からの夜景
中之島南側を流れる土佐堀川に架かる栴檀木橋から西を眺める
正面の橋は淀屋橋、左側は電飾された観光船と淀屋橋港、右側は中之島イルミネーションストリートのイルミネーションや雪だるまのオブジェが見える。
中央のビルの壁面はサンタクロースの像が映し出されている。
 
 
 
 
 

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事