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柏島・大堂海岸から再び国道321号を足摺岬に向かって走る。やがて右手に、奇岩が沖に続く竜串見残し海 岸が現われた。 そこに建つ「レスト竜串」で食事した後、海岸を散策した。 ここは砂岩・泥岩の層が互いに重なる岩が続き、それらが長年の波食、風食によって奇岩を形造ってい る。 西側の海岸を見残し海岸といい、空海が室戸崎の修行を終え、足摺岬を訪れた際、奇岩奇勝の名勝を見残 したことにより、後世の人々が「見残し」となづけ呼ぶようになったそうだ。 遊歩道には、竜の波返し、夫婦岩、千のこしかけ、と名付けた岩があった。 遊歩道と岩の先の沖に、目当ての海中展望台が造られていた。入館観覧料は800円だ。 しかし、太平洋を遊弋する台風11、12号の影響で、水が濁って水中での見通しが悪いそうで、料金は半額 になっていた。 海岸に沿う化石漣痕の岩 化石漣痕は、波や水流の影響で水中の堆積物の表面に残された凸凹がそのまま地層面に残されたもの。 昭和21年(1946)の南海道地震により隆起した岩に見られ、天然記念物に指定されている。 沖に建つのが海中展望台。 沖に伸びる化石漣痕の岩 竜串海岸 |
四国紀行
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国道321号を走り大島町で県道43号に入り柏島に向かう。 柏島手前の観音岩駐車場から数分歩くと観音岩展望台に着いた。 ここからは、細長い巨岩が海中からそそり立っているのが望まれた。 形が観音様の姿に似ていることから「観音岩」と呼ばれる。 高さ約30mもあるそうだ。 寛永15年(1638)島原の乱を鎮圧した武士雨森九太夫が帰路、一条の光を頼りに寄り、柏島で息を引き取っ た時、光を発したと云う。 また、この沖を航行する船に一条の光を発したという伝説があるそうだ。 この岩に代表される大堂海岸は、紺碧の海原を背景に、そそり立つ絶壁の景観が素晴らしかった。 |
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足摺岬に建つ金剛福寺は、正式には「蹉跎山(サダサン) 補陀洛院 金剛福寺」といい、真言宗豊山派の寺 院である。 開基は空海(弘法大師)と伝えられる。 空海が唐から帰国の際、有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵が足摺岬に飛来したとい われている。 空海は、足摺岬の突端に広がる太平洋の大海原に、観世音菩薩の居られる聖地補陀洛を感得し、嵯峨天皇 に奏上した。 弘仁13年(822)嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海が、三面千手観世音菩薩を刻み、堂宇を 建て安置し開創したといわれている。 室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配した一条家の庇護を受けた。 しかし、戦国時代には荒廃したが、江戸時代に入り、土佐藩二代藩主山内忠義が再興したものである。 境内には、本堂の右手に、護摩堂、多宝塔、左手に、池を囲むようにして、弁才天、鐘楼、愛染堂、 権現堂、行者堂、大師堂などが並んでいた。 護摩堂 不動明王を安置している 脇に応安8年(1368)の九輪宝塔が安置してあった。 鐘楼の内部には現鐘の下に旧鐘が展示してあった。 |
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四国の最南端の足摺岬、そこは80m余の断崖で、その上に白亜の燈台が建っていた。 その燈台の直ぐ北に、四国八十八ヶ所の第38番札所金剛福寺が建っていた。 第37番札所の岩本寺から約81km、次の第39番札所の延光寺には約61kmもある。 四国八十八ヶ所霊場の中でも、果にある寺なのだ。 その昔、この寺に苦難の末、やっとの思いでたどり着いたお遍路さんの安堵と喜びはいかばかりだったろ うか? そして目の前に青々とした大海がひろがっている。 参道脇の国道321号沿いに「渡海僧之碑」が設けられていた。 大海を渡海し補陀洛浄土を目指す補陀洛信仰は紀州熊野が有名だが、九州の南端でもあったし、四国でも あった。 四国では、三十八番の金剛福寺で渡海する人々が足摺岬の突端から船出したといわれている。 戦国時代以降盛んに行われたそうだ。 は、足摺岬の先端に立った時、ある種の恍惚に襲われた。 は信仰の輩ではないが、海の果に何かがあると思っても不思議ではない、と思った。なお、足摺岬という地名も補陀洛信仰に関係があることを、白洲正子が、鎌倉時代中後期に成立した「問 はずがたり」から紹介していた。 昔、寺で修行していた坊さんの所へ、毎日現われる小坊主がいた。 坊さんは一人の稚児を召使っていたが慈悲深い少年で、その小坊主が来る度に食事を与えたが、あまり度 重なるので今後は与えてはいけないと、きつく戒めた。 稚児が悲しんでいると、小坊主がそのことを聞き、では一緒に自分の住家に行こうといって連れ出した。 不思議に思った坊さんが、後を追って行くと、二人は小さな舟に乗って、沖へ漕ぎ出してゆく。 ふと気がつくと、小坊主は観音の姿と化し、稚児は菩薩に変じていた。 とり残された坊さんは、浜辺に立って足を摺り、自分の不明を恥じて泣き叫んだという。 (白洲正子 「古典の細道」) 足摺岬は、そのような伝説が生れても不思議に思わない、外洋に面した絶壁の眺めであった。 海に見立てた池の中央に、宝塔を形取った船を表す石組み 池の縁には5体の石仏が並べられていた。 参道の奥は仁王門 仁王像
本 堂
本尊は千手観世音菩薩前に祈願成就の大きな亀の像が置かれていた。 空海が亀の背に乗って、足摺岬の先の海中にある不動岩に渡り修行したという言い伝えがある。
本堂の庇の下に安置してあった。 頭を撫でてきた。 |
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「蒼い怒涛がはてしもなくつづいて、鴎が白い波がしらを這ってとんでいた。 砕け散る荒波の飛沫が崖肌の巨巌いちめんに雨のようにふりそそいでいた。 巨大な石の孟宗をおし並べたように奇岩が海中に走っている。 私はそれをじっとみつめていた。 だが、私の心に、死のうといった気持ちは不思議にうかばなかった。」 ( 田宮虎彦 「足摺岬」) 旅館にはすっかり暗くなった頃到着したので、今朝になって気が付いた。 窓から見る景色は、青々とした海原が広がる太平洋だった(不思議と波の音は耳にしなかった)。 朝食を終えた後、早速海岸おりてみた。海岸沿いに遊歩道が造られており、それにそって足摺岬の先端燈 台まで行った。 下りた浜はアロウド浜と云う小さな丸い石ころの浜であった。 小石の浜の「アロウド浜」を歩き、海食でトンネル状になった白山洞門、最先端に位置する燈台と見てま わった。 足摺岬は、東の室戸岬と向かい合う四国最南端の岬である。 そこに位置する燈台は約80mの海食断崖となっている。先端に立つと180度以上に大海原が広がっていた。 そして、眼下を見ると断崖の下では白い波が、繰り返し押し寄せ、渦まいていた。 ここはかっては自殺の名所だったらしいがなんとなく納得ができる。 そう言われる様になったのは、昭和24年(1949)発表された田宮虎彦の「足摺岬」からか、それともそれ以 前かは知らない。 田宮虎彦の「足摺岬」は、自殺するつもりで訪れた青年が、死に切れず、逆に病に罹り、宿に泊まってい た戊辰戦争の死を覚悟していた武士の生き残りと云う遍路の老人、やはり宿泊人で行商の薬売り、宿のお 内儀、その娘八重の親切な介抱で、回復し生きていく決心をする物語である。 その18年後、死ぬことを期待されながら死の機会を失った特攻隊崩れの義弟が、新たな生きる意味をみつ けられないでいる姿が描かれて終わっている。 冒頭の文章は、主人公の青年が回復し再び断崖に訪れ、自殺の意思が無いことを確認した箇所である。 燈台近くに田宮虎彦の文学碑があり、「砕け散る・・・ふりそそいでいた」の文が刻まれていた。 近くには、ジョン万次郎の像、万次郎足湯、薄暗い林の中に「木の股地蔵」や四国八十八ヶ所第38番札所 「金剛福寺」等があった。 案内図 海食により形成された断崖があっちこっちにある。 白山洞門 花崗岩が海食されてトンネル状になっている。海食洞門としては日本一とか。天然記念物 足摺岬 断崖の下は、太平洋上に睥睨する台風11号と12号の所為か、それとも普段のことか白波が大きくたてていた。 燈台は大正3年(1914)設置された。昭和35年(1960)現在のロケット型に改築された。 中浜万次郎(ジョン万次郎 1827〜1898) 近代日本最初の国際人、中ノ浜出身 1841年出漁中遭難するが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号のウイリアム・H・ホイットフィールド船長に助けられる。船長の生地フェアヘーブンで学校教育を受けると共に見聞を広める。1851年帰国後その国際知識をかわれて幕府直参となり、1860年には遣米使節の加えられるなど開国に向け大役をはたす。 広い視野に立ち、日米交流の礎を築いた万次郎の功績は、国際化時代の今日ますます意義深いものとなっている。(説明板より) 像の後は四国八十八ヶ所第38番札所「金剛福寺」で森の中から多宝塔が覗いている。 木の股地蔵 樹木のトンネル道の奥にあった。 木の窪みに石の地蔵様が安置し、生花が手向けられていた。 由緒もご利益も分らないが、旅の安全を祈願した。合掌 ここから白川洞門が眼下に眺められた。 |
は、足摺岬の先端に立った時、ある種の恍惚に襲われた。
は信仰の輩ではないが、海の果に何かがあると思っても不思議ではない、と思った。


