ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

四国紀行

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道後温泉から松山道、徳島道を経て、11時ごろ大歩危に着いた。
大歩危は徳島県を貫く四国三郎吉野川の中流域に位置する渓谷で、手前の小歩危と共に「大歩危小歩危」として紹介されることが多い。
急峻な山腹の底、渓谷は岩だらけである。
「足場の石の間隔が狭く、大股で歩いて危ない大歩危
足場の石の間隔が広く、小股で歩いて危ない小歩危」なことから、こう呼ばれるようになったとか(昔から「ぼけ」を「歩危」と当てていた訳でなく、「歩危」と当てるようになってからのこじつけと言う説もある)。
この風景を見たら、この説明に素直に納得してしまう。

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ここで遊覧船に乗船する。乗船場には谷に4本のロープを渡し、多くの鯉のぼりを吊り下げていた。それが風に吹かれて谷を一斉に泳いでいた。壮観だった。(実は昨日高知から道後温泉まで移動する間、同じように鯉のぼりを飾っている光景を何度か見たが、いずれも雨に打たれて、メザシかシシャモの串刺しのように、口を上に向けダラリとぶら下がっていた。)

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水は比較的少なく、大雨の時は遥か上まで水嵩が増すと聞かされ驚いた。岩に根付いた山つづじが満開できれいだった。
今にも雨が降りそうな空模様に、雨が降らなかったことを喜んだが、天気がよければ新緑が映えて更に綺麗だったろう、と少し残念だった。
足に傷を負った一羽の白鷺が傷を癒しているのを見て発見された、との伝説を持つ道後温泉は日本書紀にも登場する日本最古の温泉の一つだ。

しかし、道後温泉を一般に有名にしたのは夏目漱石の「坊ちゃん」である。道後温泉でも観光PRの点から、「坊ちゃん」を積極的に活用している。

道後温泉に着いたのは17時半ごろだった。雨は既に止んでいる様だったので、ホテルで湯かごを借りて、近くの道後温泉本館へ行った。
明治27年(1894)建築(その後増築、昭和10年には男女二室に改造などしている)のこの建物は「明治時代の温泉施設をこんなにきれいに残している」のはここだけとか。
道後温泉には数回来た事があるが、毎回道後温泉本館へ行っている。今ではここも「坊ちゃん湯」と愛称を付けている。

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泉質はアルカリ単純泉だとか、泉温は20度〜55度、効能は・・・、源泉かけ流しで・・ など
一時話題になった野暮なことは考えない。
建物内は迷路のようでどこに何があるのか良く分からない。案内にしたがって足を運ぶだけだった。
浴槽は花崗岩で作られ、真ん中に彫刻を施した花崗岩の大きな湯釜が鎮座していた。
入浴者は多くなかった。多分、時間の所為だろう。ただ、ぬるい湯に入慣れている身には熱い。半身浴で済ました。(無論、坊ちゃんの様に泳ぐことはしなかった。)

漱石は翌明治28年(1895)4月松山中学に赴任している。ここの温泉が大変気に入ったらしく、
「道後温泉は余程立派なる建物にて 八銭出すと 三階に上がり 茶を飲み  菓子を食ひ 湯に入れば頭まで石鹸で洗って呉れるという様な始末随分結好に御座候」と狩野亮吉に書き送っている(明治28年5月10日付書簡)

また、彼のヒット作「坊ちゃん」では 何箇所かで描写しているが例えば次の様な文章がある。
「此の所は何を見ても東京の足元のも及ばないが 温泉だけは立派なものだ。」
「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上 女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日はいるのは贅沢だと言い出した。余計なお世話だ。・・・・・」



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翌朝、曇天のため6時過ぎにしては暗かったが、 道後温泉本館の周囲を歩いてみた。道後温泉本館で入浴しようとする人の姿を多く見かけた。道後温泉本館の上に振鷺閣と呼ばれる「太鼓櫓」があり、毎朝6時に太鼓の音で開館を告げるとのことだが、「太鼓の音に気付かなかった。」そんなことを思いながら歩いているとからくり時計足湯場がある所に来た。、6時半ごろにも拘わらず数人が腰を据えて足湯をしていた。
からくり時計は8時から21時の間、1時間毎に「坊ちゃん」の登場人物が現れる仕掛けになっているとのこと。足湯場やからくり時計は記憶にないので多分最近造られたのだと思う。

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からくり時計のほぼ向いに伊予鉄道「道後温泉」駅があり、その前に客車を連ねた小さな蒸気機関車があり、「坊ちゃん列車」と表示してあった。漱石の時代は此のような列車だったのだろうか?

「坊ちゃん」には次のように記されている。
「停車場はすぐ知れた。切符もわけなく買えた。乗り込んでみると マッチ箱のような汽車だ。
ごろごろと五分ばかり動いたかと思ったら、もうおりなければならない。どうりで切符が安いと思った。たった三銭である。・・・」


なお、伊予鉄道は現存する地方鉄道の中で最も古い歴史を持つ鉄道会社だそうだ。 

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高知から国道56号線を走りに走り、四万十川河口近くの国道321号沿いの遊覧船船着場に着いたのは13時

近くになっていた。

天気は途中から小雨になっていた。

ここから屋形船に乗り込み、船頭さんの説明を聞きながら弁当を食べ、四万十川の汽水域を遊覧した。

四万十川は高知・愛媛県境の山岳を源とし、総延長196Kmの川で、日本最後の清流として喧伝されてい

る。

河口から9kmまでの広い汽水域での流れは穏やかで、どちらが上流なのかよく分からなかった。

途中に漁師が待機しており、遊覧船が近づくと、四万十川伝統漁法である柴漬漁、投網漁を披露してくれ

た。

 漁船に小さい鯉のぼりを立てていたのは漁師の愛嬌か?

船頭さんはこれら漁法の説明の他、四万十川の豊かさ、青のり採り、しろうお漁や、しらす漁などについ

て軽妙に説明した。

四万十川に生息する魚「アカメ」が船乗り場の水槽に展示したあったが。名の由来となった赤い眼は光の

加減か赤というより黒かった、しかし、白眼はなかった。

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この後、国道56号線、松山道を通って松山の道後温泉に向った。

  関 連 記 事


潮騒と龍馬像の桂浜

高知市中から南下すると、黒潮躍る太平洋面した桂浜に来た。
この頃、すでに天気は崩れ始め、厚い雲が空を覆っていた。
早速木々の茂る龍頭岬の石段を駆け上ると、着物にブーツという出で立ちで、(日本の将来を思いながら)太平洋沖に眼を向けた(ガイドによれば室戸岬の中岡慎太郎像に眼を向けているのだとのこと)坂本龍馬の像が建っていた。

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龍馬を慕う若者たちが、高知県下を歩き回って募金を集め、昭和3年(1928)完成した。


木々の間から海岸を眺めると、先端に龍王宮が建てられている龍王岬から弓形の砂浜が延びており、まるで箱庭のような風景がひろがっていた。

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室戸岬から土佐湾海岸に沿って国道55号線を走り高知市に入った。
国道沿いにはビワの果樹園が点在しており、ビワの実に袋かぶせをしており、まるで白い花が満開に咲いているようだった。
高知では市内中央を流れる鏡川川岸で、対岸に筆山がのぞめるホテルにチックインした。
ここから半径1Kmの範囲に、高知城、はりまや橋、立志社跡、山内容堂誕生地碑、板垣退助誕生地碑、後藤象二郎誕生地碑、坂本誕生地碑、旧山内家下屋敷長屋等があり、見て回った
この辺りは道路がほぼ碁盤目状になっており、街角に尾長鶏の形した案内標識があり、回り易かった。
ホテルでご当地料理の皿鉢料理(本来は酒席料理らしいが、残念ながら:(は酒をたしまない)を食べ、満腹感と疲れで早々に寝てしまった。

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坂本龍馬生誕地碑
ビルの谷間に建てられていた。
今回は回らなかったが、近くには龍馬のうまれたまち記念館がある。



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はりまや橋
竹林寺の僧純信といかけ屋のお馬の悲恋でしられ、土佐節のフレーズをはめ込んだ、ペギー葉山の「南国土佐をあとにして」で全国的に知られるようになった。

「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんカンザシ買うを見た よさこい よさこい」


翌朝眼を覚ますと、外は昨日の曇天と異なり、日が射していた。
近くの天神橋から対岸の筆山を眺めると、少しが雲のかかった筆山の新緑が映え、実に綺麗だった。

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なお、晴天かと思われた今日の天気だったが、しばらくすると雲が多くなり、数時間後には小雨となった。

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