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福海寺は柳原蛭子神社の北側に建ち、正しくは大光山福海興国禅寺、臨済宗南禅寺派の寺院である(地図)。 門前には「開基 征夷大将軍足利尊氏公」の石柱が建っていた。 後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、建武3年(1336)京都合戦に破れ、丹波路から兵庫に出た。 しかし、新田義貞軍に追われ、福海寺の前身である「針が崎観音堂」の壇下に身を潜ませ辛うじて命を取 り留め、九州に落ち逃れた。 その後足利尊氏は九州より攻め上り、兵庫に再上陸し、湊川の合戦で勝利した。 室町幕府を開いた尊氏は康永3年(1344)報恩のため福海寺をひらいたのだ。 足利尊氏御詠歌
本尊は釈迦三尊だが、法堂に祀られる大黒様の方がよく知られている。 足利氏が大黒天を篤く信仰していたことによる様だが、柳原の大黒天として庶民に信仰され、 昔から毎年1月9日〜11日の縁日には大勢の参拝客で賑わう。 なお、境内の向って左手に「時雨の松の碑」があった。 時雨の松は平清盛が愛した松といわれ、 元々は範国寺にあったが、戦災で焼けた。 残った切り株も平成7年(1995)に起きた阪神・淡路大震災の後、マンションの建設で無くなってしまい、 碑だけをここ に移されたとのこと。 正面に、「雲海堂」の扁額を掲げた法堂が建っている 法堂内部 須弥壇には、真っ黒な鎧を着た憤怒相の大きな大黒天と、その前ににこやかな大黒天の、二体の大黒天が安置してあった。 和田宮:弁財天 薬仙寺:寿老人 真光寺:福禄寿 能福寺:毘沙門天 柳原天神社:布袋 柳原蛭子神社:蛭子 海福寺:大黒天
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神戸物語
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兵庫駅から東数百mのところ、西国街道柳原中心に建立されている神社だ(地図)。 祭神は蛭子大神(ヒルコノオオカミ 恵比寿様)、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ 大黒様) 地元では「柳原のエベッサン」と呼ばれて親しまれている。 元禄5年(1691)の兵庫津の「寺社改帳」に、この神社の名が記されているそうで、 少なくとも元禄以前から祀られていた様である。 毎年1月9日から11日の祭礼「十日えびす」には商売繁盛、家内安全、学業成就などの祈願に多くの 参拝者が賑わい、それを当て込んだ屋台が兵庫駅から神社周辺にならぶ。 現在は新社殿を造営中で、近くの仮社殿にご神体を移している。神社殿は今年中に完成させ、来年の「十 日えびす」大祭には間に合わせたいとのことだった。 神社のそばに「西国街道 兵庫 西惣門跡」の碑があり、この近くが西国街道往還西の出入り口になって いた様だ。 背後で新社殿建立の工事がされている 鳥居の近くに安置されていた。 右手に釣竿、左手に鯛を抱えている。 和田宮:弁財天 薬仙寺:寿老人 真光寺:福禄寿 能福寺:毘沙門天 柳原天神社:布袋 柳原蛭子神社:蛭子 海福寺:大黒天
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能福寺から西に数分、兵庫駅からは南東に5分ほど歩いたところの街角にあった(地図)。 主祭神は当然ながら菅原道真、それに天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)、野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)を祀っている。 昌泰4年(901)菅原道真が大宰府に左遷された時、暴風雨を避けて和田岬に一時上陸した。その所縁で 道真の私語太宰府安養寺の御廟より分霊を迎え奉祀したのが起源である。 鎌倉時代時宗の他阿(タア)上人が当社の北隣に満福寺(真光寺の末寺)を建立し僧侶が奉仕した。 明治に入り神仏判然令により独立して神道祭祀の柳原天神社となった。 他の社寺と同様、本殿などを昭和20年(1945)の戦災で焼失し、昭和23年(1948)再建した。 参拝の後、社殿の前で無人販売の布袋の土人形を買ったが、社殿、境内を見渡しても布袋さまと直接結び つくものが見当たらない。強いて言うなら、七福神の石像があるくらいか。 なぜ、ここが布袋をあてられているのか知りたいと思ったが、生憎社務所は留守であった。 祭神:菅原道真、 天之菩卑能命(アメノホヒノミコト) 野見宿禰命(ノミノスクネノミコト) 境内隅に安置してあった。 和田宮:弁財天 薬仙寺:寿老人 真光寺:福禄寿 能福寺:毘沙門天 柳原天神社:布袋 柳原蛭子神社:蛭子 海福寺:大黒天
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能福寺は真光寺から北に5分ほど歩いたところにある(地図)。 正しくは「天積山 能福護国蜜寺」といい、伝教大師最澄を開基とする天台宗の寺で、新西国33ヶ所第23 番霊場、神戸13仏第8番霊場である。 最澄が延暦23年(804)唐からの帰路、堂を建て、自作の薬師如来像を安置したという最澄最初の教化霊場 で、旧院家の格式を持つ古刹である。 兵庫駅で入手したパンフレットによれば能福寺は毘沙門天が当てられているが、どこにお祀りしてあるの か分らない。 寺務所で毘沙門天の土人形を買う時、尋ねると、月輪影殿に祀っているとのことだが 月輪影殿は扉を堅く閉めていたので外から手を合わせた。 北風正造は兵庫の豪商、姫路藩と官軍の紛争を解決させ、姫路城を無傷に現存する恩人、兵庫新川開発事業の発起人、第七十三銀行設立など神戸発展の功労者。 明治28年(1895)没、 明治29年(1896)兵庫県知事周布公平が建立、碑の文字は伊藤博文だが相当傷んでいる。 異人さんも見物した・・兵庫大仏 :兵庫大仏、 ジョウゼフ・ヒコの英文碑、 月輪影殿 清盛の記憶をたどる兵庫津:清盛廟 明治政府を震撼させた神戸事件:神戸事件で責任をとった滝善三郎ゆかりの碑 和田宮:弁財天 薬仙寺:寿老人 真光寺:福禄寿 能福寺:毘沙門天 柳原天神社:布袋 柳原蛭子神社:蛭子 海福寺:大黒天
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薬仙寺での参拝を終え、兵庫運河に架かる清盛橋を渡るとすぐに真光寺は見つかった(地図)。 門前には向って右側には「大壇林」と深く彫った大きな自然石が、左側には「元祖遊行 一遍上人示寂之 地」の石柱が、建っていた。 山号は西月山、時宗の寺である。開山は法道仙人という説もあると聞いているが、訪れてみてその気配は 全く無い。 正応2年(1289)時宗の開祖で踊り念仏で知られる一遍上人が、阿波で発病し、明石に渡ってきたところ を、兵庫からの迎え舟で兵庫観音堂に入り、8月23日没したといわれる。 弟子の他阿(タア)上人が寺を建立し、伏見天皇の勅額により「真光寺」と号した。 時宗の三壇林(学問所)の一つとされ、境内に一遍上人の墓が残る。 法道仙人開基の説はともかく、他阿上人が寺を建立する前にその前身となる寺院があったようだ。 だから次のような伝説も残っている。 寺の堂の一つに「広池山竜蔵院」があり、大竜の龍骨を納めていたと伝えられ、経が島築造の時住んでい た大池を失い祟りをなしたが、堂を建て大日如来を祀ったところ解脱昇天したといわれる。 また、福原遷都の際、都の周囲に祀られた7弁天の一つである真野弁天はこの大日堂にあったといわれて いる。
観音堂に安置されている仏像
左より毘沙門天像、観音菩薩像、福禄寿像昭和37年(1962)再建 本尊阿弥陀如来 一遍上人墓塔 造立年代は不明だが、様式などから南北朝時代(1336〜1392)頃と推定されている。 総高は約1.9mの五輪塔で 基壇は2段積み。 一遍上人ご詠歌
境内中央に建っていた。 「左 京大阪」が読める。 多分西国街道にあったものを移したのであろう。 記念に寺務所で買い求めた。 和田宮:弁財天 薬仙寺:寿老人 真光寺:福禄寿 能福寺:毘沙門天 柳原天神社:布袋 柳原蛭子神社:蛭子 海福寺:大黒天
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