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清盛橋近く、新川運河沿いに建つ寺院で、山号は医王山、時宗の寺院である(地図)。 天平18年(746)行基が開基と伝わり、永元元年(1207)法然上人が讃岐に下る時ここに立ち寄り教化した。 また、文久元年(1874)英国初代公使オールコック一行が、兵庫開港予定地視察するため宿泊した。 かっては広大な寺域と多くの塔頭を有していたが、明治7年(1874)新川運河掘削で狭められ、貯木場の建 設で更に狭められ、神戸空襲を受けその後復興し、現在の姿となっている。 境内の奥に鉄筋コンクリート造りの本堂が見える。 本尊は薬師如来坐像(重文)であるが、秘仏であろうか?お姿を確認はできなかった。 本堂外陣に安置してあった。 後醍醐天皇医薬水 当山本尊薬師如来示現の霊薬泉で、元弘の変(1333)の時、後醍醐天皇が隠岐から還幸の途中、兵庫の福厳寺に泊まられたが、病床に伏せられた。この時、ここの霊水を服薬に差し上げたら病が回復した。 これにより、天皇より「医王山」と山号を賜り、「薬仙寺」と名付けた。 因みに、福厳時は薬仙寺北約1kmの所にあり、門前に「史蹟 後醍醐天皇御駐譯之処」の碑が建っていた。 平清盛の別荘「萱の御所」跡(神戸市夢野町にあった「平教盛邸」だという説もある) 福原遷都の際、後白河法皇をここに幽閉したので「牢の御所」ともよばれた。 元は北東約100m離れた所にあったが、昭和28年(1953)運河拡張工事の際水没した為現在地に移し、 旧碑破損により現時の碑を再建(昭和47年=1972)。 第65代天皇花山天皇(968〜1008)は、若くして妻を失い、藤原氏の策謀により退位し19歳で出家、三田花山院に隠棲した。こよなく大輪田の海を愛し、しばしばこの寺に滞在したと伝えられる。 その縁によりいつの頃かこの歌碑が建立された。 古碑の為判読しにくい。 有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かと聞かば 小野の松風 右:万延元年(1860)碑、左;嘉永5年(1852)碑 時宗開祖一遍上人は踊り念仏とお札くばり布教を中心として遊行し、正応2年(1289)この兵庫の地で没した。この関係で兵庫津は踊り念仏が盛んであった。また、江戸時代から福原西国霊場巡拝も盛んになり、ご詠歌と踊り念仏をミックスして娯楽的な兵庫の庶民的な芸能が生まれた。 この連名には兵庫津の有力な町人や夫人たちの名が記され、踊り念仏だった様子がうかがわれる。 本堂外陣で無人販売 和田宮:弁財天 薬仙寺:寿老人 真光寺:福禄寿 能福寺:毘沙門天 柳原天神社:布袋 柳原蛭子神社:蛭子 海福寺:大黒天
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神戸物語
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和田神社(和田宮ともいう)は和田岬駅の近くにあった(地図)。 元々は現在地より西南約800mの海岸近くにあったが、明治35年(1902)造船所建設により移転したものだ。 祭神は天御中主大神で、相殿には市杵嶋媛大神と蛭子大神である。 社務所で頂いた縁起書によれば、神代の昔、蛭子大神が鎮座の霊地を求めて淡路島から本州に上陸した最 初の地であることから祀られた。 市杵嶋媛大神は、承安3年(1172)平清盛が兵庫津築港に着手したが、ことのほか難渋したので この事業の無事完成と将来の繁栄を祈願して安芸の宮島より勧請したもの。 天御中主大神は、万治元年(1658)天御中主大神の坐す神輿が流れ着き、種々の神異を現した。時の領主青 山大膳亮幸利は社殿を造営し、この神を主神に、相殿に市杵嶋媛大神、蛭子大神を祀った。 主神に天御中主大神、相殿に市杵嶋媛大神、蛭子大神を祀る 拝殿手前の社にも祀られていた。 市杵嶋媛大神が弁財天と同一視されて、祀られているようだ。
弁財天像
拝殿の向かって左隣に建っていた。図柄も弁財天の持つ楽器とお使いの蛇となっていた。 和田明神の使いとして信仰される白蛇が姿を現した松(二代目)。 根元に陶器製の白蛇が沢山おいてあった。 兵庫七福神巡りの記念として、社務所で購入。 和田宮:弁財天 薬仙寺:寿老人 真光寺:福禄寿 能福寺:毘沙門天 柳原天神社:布袋 柳原蛭子神社:蛭子 海福寺:大黒天
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所用があって兵庫区和田岬にいくことになりJR兵庫駅で下車した。兵庫駅から山陽本線の支線である和田 岬線で一駅であるが。時間があるのと、健康も兼ねて歩いていくことにしたのだ。 兵庫駅の構内で、清盛七弁天と兵庫七福神巡りのパンフレットを貰った。清盛七弁天巡りはともかく、兵庫七 福神巡りの方は、和田岬ー兵庫間の往復で回れそうだったのでやってみたところ、参拝だけだったら1時 間程度で回れるが、記念に土人形を買ったり、境内をゆっくり見て廻ったりしたので2時間半ほどかかっ た。
地 図
七福神
七箇所で各々の土人形と宝船を買うと、七福神が乗った宝船となった。七福神巡りは、江戸時代、庶民の間で大ブームとなった。福を呼ぶ神様七箇所を巡礼することで、「七難 即滅・七福即生」つまり七つの災難から逃れ、七つの福徳が授かると言われている。 パンフレットによれば、兵庫七福神とは次の通りだ。 薬仙寺:寿老人(寿星の化身または老子の化身と言われその姿は長い白髪、長い頭の仙人姿で、福禄寿と 同体異名という説もある。福禄寿の鶴亀に対し、鹿を伴っている姿が多い。 この鹿は千年以上生きている鹿で、その肉を食べると二千歳の長寿を得ると言う話も ある。) 能福寺:毘沙門天(四天王及び十二天の一人で、鎧を着ているところに特徴がある。 多聞天とも呼ばれ、漢字で書くと全く別の神のようになるが、意味はすべてのことを 一切聞き漏らさない知恵者と言う意味。 七福神の中では、勝運の神で、仏法を守護し道徳授ける神。) 柳原天神社:布袋(中国の唐代末期に実在したお坊さん。比較的小柄でお腹が出て、破れた衣を着て、 生活に必要なものがすべて入っていた大きな袋を持っていた。 占いや天候を予知することが上手で、雪の中に寝ても体が濡れなかったという話が ある。) 柳原蛭子神社:蛭子(恵比寿は右手に釣り竿、左手に鯛を抱えている。始めはその姿から想像できる ように漁の神だった。海の彼方から渡ってきた豊漁をもたらす神として、また 航海安全の神として港の近くに多く祀られた。港は船の出入りによって商売が 繁盛するので、商売繁盛の神としても有名になった。) 海福寺:大黒天(俵に乗っているのは「毎日ごはんを供えてお参りすれば、一生食に不自由にさせない」
というお告げがあった話から結びついたようである。 食堂や台所に祀られる事が多く、家の大黒柱は大黒様が天・地・人を守ることから きている。) |
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本堂、不動堂、大師堂の参拝を終えて息災門を出る。一番西側に玄関左右に仁王像を安置した歓喜閣とい う名の信徒会館があり、その前の境内には諸像が建っていた。 ただ、これらの像は比較的最近に置かれたもののようであった。 昭和60年(1985)建立 昭和60年(1985)造立 息災門近くに並んで置かれていた。背後に大不動尊、鐘楼堂が見える。 昭和54年(1979)造立 平成10年(1998)造立 近くに平成9年(1997)造立した水向け薬師如来、水向け不動尊があった。 道を挟んで東側の境内に建っていた。 正面には、天上界におられる日光地蔵菩薩を中心に、十王像が安置してあった。 左右の壁にはびっしりと地蔵菩薩像が並べられていた。
神戸六地蔵巡りは、昭和55年(1980)神戸市内の宗派を越えて集まった7ヵ寺で構成されたものである。 客番:須磨寺 となっている。
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西光寺はJR大久保から神姫バスで20分「田井」下車のすぐ近くにあった。 周囲は田植えも終り、満々と水が張られた水田が目立つ長閑な田園地帯だ。 縁日でもない平日の昼頃出かけた所為もあって人気さえない静かな境内だった。 したがって人目も気にすることなくゆっくりと参拝や境内を周ることができた。 西光寺は山号が無量寿山で、真言宗大覚寺派の準別格本山である。 鎌倉中期の建長年間(1249〜1256)唯称院心覚禅師が無量庵を開いたのが始まり、その後幾多の変遷を経て 明暦年間(1655〜1658)無量寿山西光寺と称するようになった。 阪神大震災(平成7年=1995)では大きな被害を受けたが、現在は修復なっているようである。 西光寺のシンボルまたはランドマーク的存在。像の前に三途の川に有橋渡が模して造られていた。 周囲には供養地蔵菩薩が配置されていた。 不動堂の前にあり、不動堂や本堂、大師堂へお参りの通用門。 左右に鬼神が護っていた。 不動明王を祀る 明暦年間(1655〜1658)霊幢上人が建立、文化年間(1804〜1818)龍雅法印が二重塔に改築した。 本尊阿弥陀如来の他不動明王、弘法大師を祀る。
「南無大師遍照金剛」と記された弘法大師御入定1150年報恩供養塔が正面に建つ。 大師堂内部には弘法大師が祀られていた。 神戸六地蔵巡りは、昭和55年(1980)神戸市内の宗派を越えて集まった7ヵ寺で構成されたものである。 客番:須磨寺 となっている。
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