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行く春に わかの浦にて 追い付くなり (松尾芭蕉「笈の小文」) 紀三井寺は名草山の中腹に建つ。本堂の上の高台にも堂宇が建っていたので上ってみた。 高台に上り、桜の花の間から和歌の浦を眺めるとまた素晴らしい。 高台にある堂宇は、開山堂、多宝塔、鎮守社などであった。 距離的には、ほんの僅かな距離であるが、本堂前の人出に比べると格段に少なく静かであった。 素晴らしい景色を眺め、堂宇を参拝し、帰路に着く。 帰りは裏門に回った。その方が駅に心持近いからだ。 裏門の建立時期は分らないが、良く見ると彫刻は素晴らしい。 しかし、手入れされていないらしく、欠損などし破損がひどい。惜しいと思った。 更に高い所からの眺望 眼下の人が立っている場所が、本堂前の展望台 全く飾り気がなく、ひっそりと建っていた。 多宝塔 文案6年(1449)再建 重文 五智如来を安置する。 華頭窓、唐戸を用いている。 三社であるが何方をお祀りしているのか分らなかった。 風格ある門だが、傷みが激しい。 左右の扉に霊鳥の彫刻がされていた。 |
近畿紀聞
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自分達は母の見た丈で恐れたといふ高い石段を一直線に上った。 其上は平たい山の中腹で眺望の好い所にベンチが一つ据ゑてあった。 本堂の傍らに五重の塔が控へて普通ありふれた仏閣より寂(サビ)があった。 (夏目漱石 「行人」 兄 22節) 231段の石段を上ると、主要伽藍の並ぶ平地になっている境内に来た。 右から、巨大な建物の仏殿、階段の近くに六角堂、その左に鐘楼、大師堂と続き、左端に本堂が建つ。 ただ、夏目漱石の小説「行人」に書かれている様な五重の塔は見当たらない。 本堂には、西国三十三箇所第2番札所だけあって参拝者が絶えない。 参拝を終え、前の展望台からは景勝和歌の浦が眺められた。 紀三井寺は、元は真言宗山階派に属していたが、昭和26年(1951)独立「救世観音宗」の総本山である。 宝亀元年(770)唐の僧・為光上人によって開かれた、と伝わる。 為光上人が行脚の途中名草山の麓に一宿した時、山頂付近から光っていた。 不思議に思い登ったら、そこで金色輝く千手観音菩薩を感得した。 この地が霊場と悟った為光上人は、自ら一刀三礼のもとに十一面観音像を彫り、千手観音と共に草庵を 造って安置したのが紀三井寺の始まりと伝える。 その後、後白河法皇の勅願所となり、隆盛を極め、近世には紀州徳川家の祈祷所として歴代藩主が参詣し た。 改めて境内を見渡すと、上方に朱色の塔が見えた。 重文の多宝塔だ。もしかしたら漱石は、この塔を五重塔と間違えたのかもしれない。 そこで、多宝塔の建つ高台の方に足を向けた。 佛 殿 平成14年(2002)竣工 鉄筋コンクリート造、 内部に高さ約12mの金色に輝く大十一面観音像を安置 寛延年間(1750年頃)建立 西国三十三ヶ所本尊を祀る 天正16年(1588)再建 重文 入母屋造 袴腰付き、縁を廻した逆蓮柱のある高欄取り付け 弘法大師像を安置
本 堂
宝暦9年(1759)建立正面に唐破風と千鳥破風を設けた総欅造り内陣には秘仏の本尊十一面観音と千手観音を安置した厨子が並ぶ 西国三十三箇所第二番札所
正面には掛け仏が、その左右には多くの額が掲げられていた。 展望台 本堂に向かって左手の展望台からは、風光明媚な和歌の浦が眺められる。 |
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今年は桜の開花が遅れるといわれていたが、時期になれば、各地の開花宣言が次々となされた。 関西では、早咲きで知られる紀三井寺が数日前に満開宣言された。 その次の日、参拝と花見を兼ねて出かけた。 JR紀勢線紀三井寺駅から徒歩10分ほどで、紀三井寺の正門・楼門前に来た。 他の参拝者の列についていったので惑わなかった。平日だったが思った以上に参拝者が来ていた。 紀三井寺は名草山の山麓から中腹に建つが、山腹の桜は満開というより9分咲きという感じであった。 早速楼門から主要伽藍が建つ境内までの231段の石段を上る。 紀三井寺は正しくは「紀三井山金剛宝寺護国院」というが、誰もが俗称である「紀三井寺」と言う。 紀州の、境内に三つの霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)がある寺と言うことから紀三井寺と呼ばれるもの らしい。 石段を上っていく途中に「清浄水」、右に少し進むと「楊柳水」があった。 残りの一つ、吉祥水は楼門から外に出て、左手約200m歩いた所にあった。 楼 門 参道正面に建つ。永正6年(1509)建立 三間一戸 重文 建立以来、度々の修理を受けてきたが、桃山時代の様式を残す。左右に金剛力士像を安置する。 金剛力士像 上っていく石段の途中に建つ。 弘法大師自刻の不動尊を祀る。 弘法大師が唐から帰る折、船が嵐に遭い、難破しかかった。 その時、師の恵果和尚から授かった霊木に大師自ら一刀三礼して刻んだ不動明王に祈念すると、その不動明王は右手に持った「利剣」で押し寄せる波を切り裂き無事に帰国できたと伝えられる。 その霊力から波切不動明王のご利益は航海の安全さったが、昨今だは諸々の災難を無事にする厄除け不動そして信仰されている。 石段の右側に建つ。 私たちに代わって厄を引き受けてくださるお大師様を祀る。 清浄水 三井水の一つ、建屋内の井戸から湧き出た水は、石樋から滝となって流れていた。 石段から右手に少し入ったところにあった。 蓋がかぶせてあった。 楼門の左手約200mの所にあった。 滔々と湧き出ていた。 「紀三井寺縁起」によると、吉祥天女の内証により湧き出たもので、一切衆生の災難を除き、五穀豊穣にし、万姓を安楽にすると伝えられる。 |
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義仲寺へ参拝した帰り、更に一駅先の石山駅に足をのばし、今井兼平の墓を参拝した。 今井四郎兼平(33)は木曾義仲(31)の乳母子で、粟津合戦では、義仲に最後の一人になるまで戦った剛勇の 者で、義仲が討取られたと聞いて、刀先を口に含み、馬上から逆さまに飛び落ちて自害した、と「平家物 語」に書かれている。 JR石山駅から徒歩5分ほどのところに兼平の墓はあった。 元は山手の墨黒谷(スクロタニ)に、「兼平の塚」と言われる粗末な塚があったと言う。 寛文元年(1661)膳所(ゼゼ)藩主・本多俊次が「兼平の塚」に墓碑を建立し、兼平の義勇を讃えた。 その後、寛文7年(1667)次の藩主・康将(ヤスマサ)が参拝の便を考えて、東海道粟津の松並木に近い現在地に 兼平の墓を移設した。 街中の小公園程度の敷地の奥に、一段高く石柵に囲まれた墓石があった。 それが今井兼平の墓だ。 現在、周辺は住宅、工場が立ち並び、移設当時の面影はない。 しかし、境内には兼平の末裔によって建立された灯篭や記念碑が、数多く建っていた。 今井兼平の墓 墓石の中央に大きく「今井四郎兼平」と彫られ、両側に表忠文が刻まれているが風化していて良く分らない。 平成18年(2006)建立 墓の近くにあり、墓石に刻まれていた表忠文を復刻したもの 明治44年(1911)兼平の墓を再改修した時のもの 碑文によれば、滋賀県知事・川島純幹、膳所町長・長杉庄平、兼平の末裔信州諏訪の人・今井千尋らが発起して、旧跡の規模を拡大し、その参道を改修したものと言う。 義仲を見送った兼平の望みは、義仲が雑兵の手に討取られることなく、自害してくれることだけだった。 その間、己は盾となり、押し寄せる敵を防がなければならない。 今井四郎只一騎、五十騎ばかりが中へかけ入り 鐙ふんばり たちあがり 大音声あげて 名乗りけるは、 「日来 音にも聞きつらん、今は目に見にも見給へ、木曾殿の御めのと子、今井の四郎兼平、 生年三十三にまかりなる。さる者ありとは 鎌倉殿までもしろしめされたるらんぞ。 兼平討って見参にいれよ」とて、 射のこしたる八すぢの矢を、さしつめ引きつめ、さんざん射る。 死生は知らず、やにはに敵八騎射おとす。 その後、打物ぬいて あれに馳せあひ、 これに馳せあひ、きってまはるに、面をあはする者ぞなき。 ・・・・・・・・ 「此日ごろ日本国に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郎為久が討ち奉ったるぞや」 と名乗りければ、今井四郎いくさしけるが、これを聞き、 「今は誰をかばはむとてか いくさをもうすべき。これを見給へ、東国の殿原、日本一の 剛の者の自害する手本」とて、太刀のさきを口にふくみ、馬より逆さまに飛び落ち、 つらぬかってぞ うせにける。 (「平家物語」巻第九 木曾最後)
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JR膳所(ゼゼ)駅を下り、駅前の京阪電鉄石山線の線路を渡り、琵琶湖畔に向かう、やや下り坂の道を下る と10分もかからないところに義仲寺が建っていた。 義仲寺の名は木曾(源)義仲を弔った塚があるところからきている。 室町時代末に近江の守護・佐々木氏が建立したと伝えられ、当時は石山寺に、後に三井寺に属したが、 昭和40年(1965)単立寺院となった。 実は、 は平成17年(2005)5月に訪れたことがある。当時はNHK大河ドラマ「義経」が放送されていて、小沢征悦演じる木曾義仲が討ち死にした頃だった。 拝観料も同じで、時期こそ違え境内の様子は当時とほとんど変わりがなかった。 山門の右脇に巴御前を追福する石造地蔵尊を祀るお堂がある。 巴地蔵堂に祀る地蔵尊 巴御前は義仲の側室で、義仲と共にここ粟津野に来たが、義仲の強いての言葉に、最後の戦を行い、恩田八郎を討取り、涙ながら落延びた。 その後、鎌倉幕府に捉えられた後和田義盛の妻となる。 義盛戦死の後は尼となり各地を廻った。 当地にも暫く滞在し、亡き義仲の菩提を弔っていたという。 朝日堂 義仲寺本堂 昭和54年(1979)改築 本尊は聖観世音菩薩、左手に義仲、義高父子の木像を納める厨子、左手に義仲、今井兼平、松尾芭蕉、 丈艸(ジョウソウ)等の位牌を安置する
木曾義仲墓(木曾塚)
土壇の上に宝篋印塔を据えたもの。寿永3年(1184)1月21日粟津原で討ち死 享年31歳義仲の忌日「義仲忌」は毎年1月第三日曜日に営む。 向かって右隣に義仲を敬愛する芭蕉の墓があった。
木曾の情 雪や生えぬく 春の草' 芭蕉(史邦編「芭蕉庵小文庫」)
巴御前は義仲の側室。 義仲の妻とも側室ともいわれる。 病身の為、京にいたが義仲に遭う為大津まできて、義仲戦死の報を聞いて自殺したとか、捕われたとも言われる。 木曾義仲は治承4年(1180)挙兵し、寿永2年(1183)には平氏を京から放逐したが、翌寿永3年源義経、範頼 と戦い、大津まで落ちてきた。 木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に唐綾おどしの鎧着て、鍬形うったる甲の緒しめ、 いかものづくりの大太刀はき、右打ちの矢の、其日のいくさに射て少々のこったるを、 頭高に負ひなし滋藤(シゲトウ)の弓もって、きこゆる木曾の鬼葦毛といふ馬のきはめてふとう たくましいに、黄覆輪(キンブクリン)の鞍おいてぞ乗ったりける。 最後の戦を試みたが、多勢に無勢、とうとう今井兼平の二人だけになってしまった。 義仲は、一日中の戦で、すっかり疲れてしまっていた。馬も疲れていた。 兼平は,義仲が名も無き雑兵に打たれるのを恐れ、自らが盾となっている間に潔い自害を促した。 木曾殿は只一騎、粟津の松原へかけ給ふが、正月廿一日、入相ばかりの事なるに、うす氷は はったりけり。 ふか田ありとも知らずして、馬をさっとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。 あふれどもあふれども、うてどもうてどもはたらかず。 今井がゆくゑのおぼつかなさに、ふりあふぎ給へる内甲を、三浦石田の次郎為久おっかかって よっぴいて ひやぅふうと射る。 いた手なれば、まっかうを馬の頭にあててうつぶし給へる処に、石田が郎党二人落合ぅて つひに木曾殿の頸をばとってんげり。 (「平家物語」巻第九 木曾最後) 木曾義仲の首塚:東山のシンボル八坂の塔 今井兼平の墓:最後まで義仲を支えた武将
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は平成17年(2005)5月に訪れたことがある。


