ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

近畿紀聞

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十二日の申の刻、死顔うるはしく睡れるを期として、物打かけ、夜ひそかに長櫃に入れて

あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきのせ、・・・

      ・・・・・・・・

義仲寺の直禺上人をみちびきにして、門前の少し引き入れたる所に、かたのごとく

木曾塚の右にならべて、土かいをさめたり

おのづからふりたる柳もあり。かねての墓のちぎりならんと、そのままに卵塔をまねび

あら垣をしめ、冬枯のばせうを植ゑて名のかたみとす。 (宝井基角「芭蕉翁終焉記」)


松尾芭蕉の門弟が記した「芭蕉翁終焉記」や「笈日記」等によれば、

芭蕉は、元禄7年(1694)10月12日16時ごろ、大阪南御堂前 花屋の離れ座敷にて没した。享年51歳。

門人たちは、遺言にしたがい亡骸を義仲寺に葬る為、その夜10人ばかり付き従い淀川をのぼり伏見に運

び、13日伏見から義仲寺に入る。

14日に葬儀を行い、夜境内に木曾塚の右に埋葬した。会葬者は300人に及んだ。


義仲寺はJR膳所駅から琵琶湖畔に向かって10分ほど歩いた所に建っている。

その名の通り木曾義仲を祀る寺であるが、松尾芭蕉は幾度か訪れている。木曾義仲に共感したらしい。

そして、遺言どおり埋葬され、木曾義仲の墓の隣りに墓があった。

芭蕉の忌日は「時雨忌」といい、旧暦の気節に合わせて、毎年の11月の第二土曜日に年中行事として営ま

れているとのこと。

境内には、松尾芭蕉を祀る「翁堂」、多くの句碑、所縁の無名庵があり、史料展示室には関連資料が展示

してあった。


イメージ 1 イメージ 2
                              芭蕉の墓
自然石に「芭蕉翁」と彫られている。裏面には特に何も掘られていない。
湖南江北人おの々義仲寺に会して無縫塔を造立す。面には芭蕉翁の三文字をしるし
背には年月日時なり、塚の東隅に芭蕉一本餓て、世の人に、冬夏の盛衰をしめすなり
と各務支考が記す「笈日記」や冒頭の「芭蕉翁終焉記」の記述と異なる。
以後に建替えられたものだろうか?


イメージ 3 芭蕉真筆句碑
行春を おふミの人と おしみける

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                               翁堂
安政5年(1858)再建、昭和45年(1965)修復

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                             翁堂内部
正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸、去来の木像、側面には蝶夢法師陶像(写真では膝の一部のみしか写ってない)、を安置し、正面壁上に正風の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げている。
天井は明治21年(1888)穂積永機が奉納したもの(レプリカ)


イメージ 7 無名庵
元禄4年(1691)新築落成した年をはじめ元禄7年(1694)と芭蕉は滞在した。
現在の建物は昭和51年(1976)拡張新築したもの。


イメージ 8 芭蕉像
芭蕉門鯉屋杉風筆
讃は芭蕉の句
「大津絵の 筆のはじめは 何佛」
史料展示室には展示してあった書画の一つ

大津文化会館の裏手にひっそりと建っていた。まるで世に憚る様に建っていた。

この辺りを訪ねてきた人で、どれだけの人がこの碑を知るだろうか?

今大津市の官庁や公園となっているこの辺りに、太平洋戦争末期に大津陸軍少年飛行兵学校があったこと

を知るだろうか?

若鷲の碑の側には、大津陸軍少年飛行学校校歌、銘文碑が建っていた。

その銘文は次の通りであった。

大津陸軍少年飛行兵学校は 太平洋戦争が苛烈の度を加え、その戦域が益々拡大された昭和十七年

十月、航空戦力増強の要請に応じ東京陸軍航空学校大津教育隊として此の地に開設され、

翌年4月、大津陸軍少年飛行兵学校に独立した。

当時十五・六歳の少年たちは、祖国存亡のとき、陸軍航空の期待と栄光の重責を担い、「至誠、

純真、元気、周到」の校風のもと炎熱の朝、酷寒の夕、琵琶湖畔に、長等山麓に、幹部要員として

徹底した1ヵ年の基礎訓練に励んだ。その数、第十五期生から第二十期生に至るまで八千有余人。

ついで操縦・通信・整備の各上級学校に学び、若鷲となって大空に巣立ち、北辺の空に、

南溟の果てに、本土防衛のさきがけとなって愛機と生死を供にした。

昭和二十年八月 戦は終り、これらの出身者、また未だ学業半ばの者は、ともに全国に離散し、

本校もまたその歴史を閉じた。

往時范々、戦後三十年、教えし者 教えられし者相つどい、かって青春のすべてを抛げうった

想い出深きこの地に、永遠の平和を願って、茲に「若鷲の碑」を建立する。

 昭和五十年十月十二日         大津陸軍少年飛行兵学校 関係者一同


イメージ 1

                             若鷲の碑

山ノ上迎賓館の前の坂道を上っていく。皇子が丘公園コートの南側を過ぎると法明院の前に来た。

享保8年(1723)義瑞律師性慶によって開かれた三井寺の塔頭である。

日本美術再発見に貢献したフェノロサ等が授戒した寺であり、彼等の墓があることで知られている。

書院の襖絵など見るべきものが多くあるらしいが、入口は閉められ、しーんとしていた。

人気は全く感じられない。入山料も箱が置いてあるだけだ。

入山料を入れ、勝手に庭に入る。木々の隙間から南琵琶湖が一望できる。

ここからの光景を愛したといわれるフェノロサがいた頃はもっと視界がもっと開けていたのだろうか。

そんなことを思いながら更に奥に進む。

鬱蒼とした木々が茂る参道に入り、そこに沿って建つフェノロサ等の墓、供養塔に詣でた。

帰るまでに会ったのは、ハイキング姿の老夫婦2人だけだった。

一般観光目的では、北院と言われるここまでは、わざわざ来ないようである。


イメージ 1 法名院入口



イメージ 2 参道



イメージ 3 法明院
人気は全くなかった。入山料100円を箱に入れて庭に入った。


イメージ 4 庭からの眺め
書院前は傾斜地で琵琶湖を見下ろすように池泉回遊式の庭園となっている。
書院からは紅葉の間から琵琶湖や大津の街が眺められる。


イメージ 5 フェノロサの墓
フェノロサ(1857〜1908)はアメリカの哲学者。
明治11年(1878)招かれて来日し、東京大学で哲学などを講じた。
其の傍ら日本美術に関心を持ち、日本の美術の真価を、欧米に紹介・啓発に努めた。
岡倉天心と共にその振興に貢献し、日本美術の恩人といわれる。
明治18年(1885)景勝をこよなく愛した法明院で得度授戒した。
法名は諦信。
帰国後はボストン美術館東洋部長
明治41年(1908)ロンドンで客死。
遺言によりここに葬られた。
隣には親友のハーバード大学のビゲロー博士の墓もある。



イメージ 6 ウッズ供養塔
ジェームス・ウッズ博士はハーバード大学で講授、他方ヨーガスートラの英訳者として印度哲学の第一人者であった。
晩年天台仏教の研究の為昭和9年(1934)来日
印度哲学を教授の傍ら、ヨーガスートラを講授、東西の文化の理解につくした貢献は大きい。
ウッズは法明院にて授戒 法名は円妙院正輝阿蘭若居士

1ヶ月ほど前に三井寺を訪れた際、見落とした北院(法明院、新羅善神堂)を拝観する為、再度訪れた。

新羅善神堂の境内は、中院や南院と離れている所為であろうか、人影がほとんどない。

新羅善神堂は小堂と聞いていたが、立派な門と透塀で囲まれており、透塀の隙間から覗いてみる堂は、

三間四方、流造りの桧皮葺屋根と、どうしてなかなか立派なものだった。

お堂には新羅善神堂は新羅明神坐像(秘仏)を祀る。

「園城寺龍華会縁起」によると、園城寺開祖智証大師円珍が唐からの帰路、荒れる海上で異相の老翁が現

われた。

自らを新羅明神と名乗り、弥勒の世が来るまで円珍の守護神となり、教法加護を約したといわれる。

貞観2年(860)円珍は新羅神社を建立し新羅明神を祀った。

源頼義は陸奥の安倍頼時を攻める時(前九年の役)詣でて必勝祈願をした。

又、頼義の三男頼光はこの社前で元服し、新羅三郎と名乗った。

この様に源氏とは所縁が深く、平家討伐の兵を挙げた源頼政も三井寺に拠った。

そのため、金堂を残して全堂塔を平家に焼き払われた。(三井寺3参照)

現在の新羅善神堂は暦応3年(1339)足利尊氏が再建したもの(国宝)である。

新羅善神堂の境内から西の山林の中を行くと源新羅三郎頼光の墓があった。


イメージ 2 新羅善神堂
前に広い広場があり南向きに堂が建っている。
手入れがゆきとどかないのか、参道を含め周囲は荒れた感じがする。


イメージ 1

                              新羅善神堂
暦応3年(1339)足利尊氏が再建 三間四方流造 桧皮葺 国宝 新羅明神坐像(秘仏)を安置


イメージ 3 新羅三郎義光の墓
新羅三郎頼光は源頼義の三男、兄に八幡太郎義家、賀茂次郎義綱がいる。
義光は弓馬の道に優れ、後三年の役(1083〜1087)の際、官を辞して兄義家を助ける為に奥州に出向き、
清原家衡らを兄に協力して金沢柵(カネザワノキ)を陥落させた。
大治2年(1127)病没す。


イメージ 4 墓 碑
墓の前に建つ碑。
明治12年(1879)義光の末裔の佐竹氏、小笠原氏によって建てられた。

三井寺北院を訪れる為、山科で乗り換え、京阪電鉄石山坂本線別所駅で下車した。

天気は、京都まではきわめて良かったのだが、山科あたりから急に雲が多くなり、別所あたりでは小雨が

ぱらついていた。

別所駅の西側を南北に走る道路(県道47号)を北に向かって少し歩く。

消防署、地方検察庁を過ぎたところで左(西)に折れ、坂道を上る。

すぐに、「新羅善神堂」と彫った小さな石柱が建っているのを見つけたので、そこで左(南)に折れた。

道は急に狭くなり、これ以上前に進んで良いのだろうかと一瞬迷ったが、なお進むと左手(東)に弘文天皇

陵、右手(西)山側に「新羅善神堂」の鳥居が見えた。

弘文天皇陵は丁度大津消防局の裏手(西側)に位置することになる。

三井寺北院の新羅善神堂へ行く前にまず弘文天皇陵を参拝。


イメージ 1山ノ上迎賓館
「新羅善神堂」の石柱と道を挟んで北側にある結婚式場。
玄関の紅葉が綺麗だった。


イメージ 2弘文天皇陵の表示
御陵の正式名称は弘文天皇長等山前陵(ナガラヤマサキノミササギ)


イメージ 3弘文天皇陵
弘文天皇は天智天皇の第一皇子、大友皇子。
天智天皇の崩御 第39代天皇として即位したが、直後の大海人皇子(後の天武天皇)との戦(壬申の乱)に破れ自害した。
「日本書紀」に即位した記録が無い為、長い間歴代天皇として認められていなかったが、水戸徳川の「大日本史」にて大友天皇の即位を論定。
明治3年(1870)弘文天皇と諡号し、天皇として認められた。

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