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二番目の巡拝地である金剛輪寺は、僧行基が開いた天台宗屈指の古刹で、西明寺からシャトルバスで約10 分の所にあった。 ここも、門前の駐車場には,西明寺以上に大型観光バスが沢山停まっていた。 天気は幸いにして青空を見せていた。 門前は露店が並び賑々しかったが、一歩境内に入ると静謐な空気に包まれた。 長い上り坂の参道を多くの観光客とともに上る。 途中からは2千体とも言われる千体地蔵が両側に祀られ、その表情には心和むものがあった。 やがて二天門に着いた。ここをくぐると主要建物が並ぶ境内の中心となる。 金剛輪寺の惣門 江戸時代初期の建立と言われている。 西谷堂 参道の途中にある小さなお堂。阿弥陀如来を安置していた。 参道の途中、左奥に単独に建っている裏門。 他に白門(表門)がある。 参 道 参道にはまばらではあるが鮮やかな紅葉をみせる。 千体地蔵 長い上りの参道の途中から、両側に石造の地蔵像が並ぶ。いずれもよだれかけ(およだれさん)をし、風車が供えられていた。実際には約2千体あるそうだ。 |
近畿紀聞
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山門を過ぎ参道の左側に名勝庭園「蓬莱庭」があった。 江戸時代延宝元年(1673)望月越中守友閑(ユウカン)が当山復興の記念として造園した。 心字池に鶴島・亀島を設えた池泉回遊式の庭園である。 築山の立石群は本堂の本尊の薬師如来と日光・月光両菩薩、十二神将などの眷属を表し、植木の刈り込み は雲を模って、薬師の浄瑠璃浄土を具現化してものだとのこと。 庭園拝観中は雨も止み、見終わって帰る頃には雲の切れ目が広がりつつあった。 蓬莱庭 拝観通路は観光客が列をなしていた。 八角石燈籠(左)と連珠模様の石燈籠(右) 八角石灯篭は鎌倉時代 石屋弥陀六の作、連珠模様の石燈籠は室町時代の作品 |
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参道を登り切ると、二天門、本堂、三重塔(屋根の葺き替え工事中)等が建つ境内の中心に来た。 西明寺は、山号を龍應山と号する天台宗の寺院である。 承和元年(834)仁明天皇の勅願により、三修上人が創建したと伝える。 寺伝によると、琵琶湖の東方の山に紫雲がたなびき、光明が射すのを見た三修上人が訪ねてみると古池が あった。 そこで礼拝すると、地中より霊霞が立ち昇り、薬師如来が日光・月光両菩薩、十二神将を随えて現われ た。 三修上人は感激し、薬師如来の尊像を立木に彫刻し、本尊として祀った。 これが西明寺の起こりとされる。 これを聞いた仁明天皇は本堂や諸堂を建立した。 承和3年(836)落慶法要に臨幸した天皇は、薬師如来が放つ瑠璃光が西方を照らしたことから西明寺と名付 け、勅願寺とした。 鎌倉・室町時代には、祈願修行道場として諸堂17、僧房300を有する大寺院であった。 戦国時代、元亀2年(1571)織田信長が比叡山を焼き討ちした直後に、当山を焼き討ちしたが、幸いに、本 堂(国宝)、三重塔(国宝)、二天門(重文)が難を免れたが、その後、寺は荒廃した。 江戸時代、天海大僧正、公海大僧正の尽力により、延宝年間(1673〜1681)望月越中守友閑(ユウカン)が復興整 備した。 その後も代々の住職が寺観の保持に尽力し現在に至っている。 二天門 室町時代初期 応永14年(1407)建立 重文 杮葺き 八脚門 周囲の紅葉が美しい。 二天像 二天門の両脇に安置する増長天、持国天。 寄木造りで共に像高1.95m 正長2年(1429)院尋(インジン)という仏師によって造られた。 鎌倉時代初期の建立 桧皮葺 国宝 須弥壇には本尊薬師像が秘仏で厨子に安置 その左右に日光・月光菩薩立像 十二神将、四天王像が固めていた。 須弥壇の外側に大きな広目天、多聞天(いずれも重文)が守っていた。 なお裏堂には、親鸞聖人坐像、釈迦如来像(重文) 不動明王と二童子像(共に重文) 阿弥陀三尊像、役行者像などが安置されていた。 西国薬師霊場第32番札所
鎌倉時代後期建立 桧皮葺 国宝 塔の高さ23.7m 現在屋根の葺き替え中で素屋根に覆われていた。 本堂右前に建つ。 |
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紅葉の湖東三山巡りが11月13日から12月4日まで開催されている。 車でない限り、なかなか行かれない三つの寺(龍応山西明寺、松峰山金剛輪寺、釈迦山百済寺)を、観光客 の便を計って、このシーズン中JR河瀬駅からシャトルバスが往復するのだ。 「天気がいいから」と言われMさんに誘われ、のこのこと出かけた。 確かに天気は良かった。 しかし、不思議なことに、河瀬駅から三山のある北鈴鹿山系だけは、まるで幅の広い帯のような雲が広が り、小粒の雨さえ降っていた。 最初に訪れる西明寺に向かって河瀬駅前でシャトルバスに乗り込んだ。 乗客は十人にも満たず、流石に平日だから人が少ないと、思った。 しかし、西明寺に着いた時、駐車場には大型観光バスがずらりと並び、参拝客を吐き出していた。 山門からまっすぐ延びる参道(途中 名神高速道路を越える)を登って行くとやがて二天門にたどり着い た。 参道で見た紅葉は、7、8分であったが、評判どおり綺麗だ。 参道の左右は往時の伽藍跡いわれる段々状の平地で、そこには苔が覆い、ビロードの様な独特の柔らかい その緑も美しかった。
閻魔堂
山門の外、近くに建っていた小堂。覗くと、閻魔大王像を中央に、前左右に司命像、司禄像が配されていた。 閻魔大王像の左は、三途の川で死者の衣類を剥ぎ取る奪衣婆(ダツエバ)像か? 山門を過ぎ、少し登ったところに建っていた。 周囲の紅葉が綺麗だ。
参 道
参道脇の伽藍僧房跡 参道の両側は段々の平地があり、かって栄えた頃の伽藍僧房跡といわれる。 戦争中は畑にもなっていたという。 跡地からの石仏が集められ供養されていた。 元亀2年(1571)織田信長は、比叡山と同じ天台寺院である西明寺を攻撃した。 寺では、二天門より下の伽藍僧房に自ら火を放つと、全山炎上したと思い込んだ織田軍は兵を引いたという。 その為、次稿で述べる本堂、三重塔、二天門は難を免れ、現在に至っている。 二天門近くの参道脇に生えている杉 元々2本あったが木が寄り添い、一つになり、共に育っていることから夫婦杉と呼ばれる。 |
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青岸渡寺境内と熊野那智大社の境内は隣り合わせになっていた。 と言うより、青岸渡寺の本堂の隣に熊野那智大社の6つの本殿が建っているのだ。 この配置こそ熊野三所権現の名残りで、那智山の歴史を物語っているという。 熊野三所権現は、長い間神仏混淆の歴史を経て、明治の初めの神仏分離・廃仏毀釈により、熊野速玉大社 と熊野本宮大社にあった仏殿は全て破却された。 しかし、那智山だけは如意輪堂(現、青岸渡寺本堂)が残され往時の姿を留めているのだ。 社伝によれば、神武天皇が那智山中に光輝く御瀧を見つけ、大己貴命(オオナムチノミコト)を祀った。 仁徳天皇の御世(313〜399)、社殿を御滝全体が見渡せる現在地の山腹に遷し、主祭神を熊野夫須美大神(フ スミノオオカミ)を祀ったのが那智大社の創建と伝えられる。 御縣彦社(ミアガタヒコシャ)を含め7棟ある本殿は戦国時代焼失したが、豊臣秀吉が再興、江戸中期と昭和10年(1 935)大改修され、現在に至っている(いずれも重文)。 天気はどす黒かったが、建物の朱が鮮やかであった。 「那智山熊野権現」の額を掲げた朱塗りの鳥居 先に続く各建物も同じように鮮やかな朱塗りだった 拝 殿 背後に本殿5殿(重文)が並ぶ。 右から、大己貴命(オオナムチノミコト)、家都御子(ケツミコ)大神、御子速玉大神、熊野夫須美大神、天照大神らを祀る。 左端一部は御縣彦社(ミアガタヒコシャ)、いずれも重文 台風12号での被害か石垣が崩れたりしていた。 |



