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那智の大滝を拝した後、目的地である青岸渡寺参拝に向かう。 大門坂と呼ばれる約450段ある石段をのぼると仁王門が見上げるような位置に建っていた。 青岸渡寺は、山号が那智山、天台宗の寺院である。 寺伝によれば、仁徳天皇の時(313〜399)、熊野に漂着したインドの僧・裸形上人は那智の御瀧で修行を 積み、観音菩薩を感得し、現在の本堂の地に草庵を設け金像八寸(約24cm)の観音像を安置した。 これが青岸渡寺の始まりである。 後に、推古天皇の時(592〜628)、大和の仏生上人(ブツショウショウニン)が玉椿の大木で像高約3mの如意輪観音像 を刻み、裸形上人の観音像を内仏として納め、如意輪堂を建立した。 長い神仏混淆の歴史を経て如意輪堂(現 本堂)などが熊野那智大社と別れ、青岸渡寺となった。 参拝者で賑わう本堂外陣に入り、あらかじめ教えられていたお勤めを、先達にしたがって行った。 長い石段を上ったところに建っていた。
本 堂
天正15年豊臣秀吉が弟・秀長に再建を命じ、3年後完成内陣には本尊如意輪観音を安置。秘仏故、お前立ちの如意輪観音像を拝む。 西国三十三箇所観音霊場 第一番札所
先達に従い、外陣にて、次の順でお勤めをした。 1.開経偈(カイキョウゲ): 無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう 無上甚深微妙の法は) 百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう 百千万にも遭い遭うこと難し) 我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅうじ 我今見聞し受持することを得たり) 願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ 願わくは如来の真実義を解し奉らん) 2.懺悔文(サンゲモン): 我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう 我れ昔より造りし所の諸の悪業は) 皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち 皆な無始の貪、瞋、癡、に由る) 従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう 身と語と意より生ずる所の) 一切我今皆懴悔(いっさいがこんかいさんげ 一切を我れ今、皆な懺悔したてまつる) 3.般若心経:記載略 (那谷寺3の稿に記載) 4.延命十句観音経(エンメイジックカンノンギョウ):記載略 5.御本尊真言:「おん ばらだ はん どめい うん」 6.回向文(エコウモン): 願わくは この功徳をもって あまねく一切に及ぼし われらと 衆生と みなともに仏道を成ぜん 外陣に天井にぶら提げられている鰐口は径1.4m 重さ450kgあるそうだが、建物が大きい所為かそれほど大きいと思われなかった。 なお、太政大臣秀吉の銘が刻まれているとのこと。 元亨2年(1322)造立 重文 本堂向かって右側面に建つ。 梵鐘は元亨4年(1324)鋳造 重文 「那智山執行法印権大僧都道済瀧本執行法印尊付河内国河内介弘」の銘がある。
三重塔
昭和47年(1972)再建 高さ25m飛瀧権現の本地仏である千手観音座像を最上階に安置している。 朱に輝く塔が那智の御滝の水流を引き立てている。 養老2年(718)大和国長谷寺の徳道上人は、病の為生死の境をさまよっていた。 この時、夢の中で出会った閻魔大王から、世の中の病を苦しむ人々を救うため、33の観音霊場をつくり、 広めるよう法印を賜った。 しかし、当時の人々にはなかなか信じてもらえなかった。 徳道上人は仕方なく、法印を摂津国中山寺の石櫃に納めてしまった。 その約270年後、花山法皇がこの宝印を掘り出し、観音霊場を巡拝して西国観音霊場を復活した。 平安時代の後半から鎌倉・室町時代の初め頃までは、修行のために巡拝する僧が中心であったが、 室町時代の半ば過ぎからは、庶民の煩悩や苦しみを取り除き、救ってくださる観音信仰が広がり、次第に庶民の間にも西国巡礼が広まった。 江戸時代には伊勢参り、熊野詣、と並ぶ大きな信仰となった。 わざわざ西国と言うのは、主に東国(現在の関東)の人々が、彼等からみて西国区域ににある観音霊場を巡る時の呼称であったそうだ。 鎌倉時代にも西国観音巡礼になぞらえ、坂東観音巡礼が制定された。 坂東の観音巡礼、所謂東国に対して、西国と呼称されたのが始まりとも言われている。 33という数字は観音菩薩が33の身に変化して、いっさいの衆生を救済するといわれていることからきている。
ただ、この33という数字は、日本の八百万の神と同じように、「数多くの」「たくさんの」という意味をあらわしている。 |
近畿紀聞
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滝は、音無の滝。布留の滝は、法皇御覧じにおはしましけむこそ めでたけれ。 那智の滝は、熊野にあるが あはれなるなり。轟の滝。 (清少納言「枕草子」64段) 数ヶ月前、Tさんがこんなのがあるといって持ってきたのが、西国三十三箇所巡りのバスツアーの第1番 札所(青岸渡寺)参拝案内パンフレットだった。早速申し込んだ。 しかし、紀伊半島が9月3日襲来した台風12号の水害に遭い、ツアーは中止になってしまった。 その後、道路も何とか復旧し再開し、再募集の知らせが届いたので再度申し込んだ。 しかし、阪和自動車道を出た後、一般道を相当迂回したらしく、着いたのは14時頃であった。 しかも、天気が急変し、薄暗くなっていた。 那智の大滝近くの駐車場から、先達に案内されてまず大滝を見に行く(後述するように御神体である から、「拝観する」、或いは「拝する」といわねばならぬかも知れない。) 那智の大滝を拝するのに飛瀧(ヒロウ)神社境内に入り、拝所辺りにいく。 那智の大滝は、熊野那智大社の別宮飛瀧(ヒロウ)神社の御神体で、崇めて御瀧とよぶ。 その昔、神武天皇が那智山中で光輝く御瀧を見つけ、大己貴命(オオナムチノミコト)として祀った。 後に、飛瀧権現社と称し、今日では飛瀧(ヒロウ)神社となっている。 御滝は那智山中の48瀧の「一の滝」で那智原生林から流れ出ている大川の流が、この断崖に落下し て日本一の名瀑となっている。 1100年余前宇多上皇をはじめ、百十余度の御幸があり、花山法皇の千日籠り、役行者の滝行以来修験道の 道場ともなった。
西行も熊野詣でをし、その際の歌十首ばかりが伝わっているがその一首である。 霊験あらたかなる熊野に詣でて、ご利益を那智の御滝の冷水を浴びて心身を清めたら授かることが出来る だろう、の意であろうか。 御滝の拝していると、轟音と水しぶきの中にそれと同じような姿で、水垢離(ミズゴリ)する行者の姿を 彷彿させた。 だが、目を周囲に移すと、台風12号のなまなましい傷痕に気付かされた。 那智の大滝(御瀧) 直下高さ133m、銚子口の幅13m 写真でははっきりしないが、銚子口に張り渡された大注連縄は長さ約26m重さ4kgあるとの事。 9月3日の台風12号で、大注連縄は引き裂かれたが、10月19日新たに張り渡された。 しかし、滝下は流木や倒れた木が、なお散乱し、瓦礫や土砂が河原を埋め、被害から大きさを物語っていた。
那智御滝の遥拝所。 御瀧の対面の山肌にある鎌倉積みの石段を上っていくと、木々に覆われた山腹にあった。 毎年7月14日の熊野那智大社の例大祭(扇祭、那智の火祭)の神事を行う聖地。 礎石は往古の建物の跡。 |
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三井寺は、中院から南院を巡拝し、南端にある惣門に向かう。 惣門の手前に、三井寺五別所の一つで、本堂が最も古いとされる「水観寺」が建っていた。 別所とは、平安時代以降、広く衆生を救済するため本寺(本境内)の周辺に設けられた三井寺の別院で、 水観寺のほかに、微妙寺、近松寺、尾蔵寺、常在寺がある。 水観寺は、もともと大門(仁王門)下、現在の大門通りの北側の寺域にあったものを、昭和63年(1988)移転 したものだ。 水観寺は長久元年(1028)三井寺長吏明尊大僧正が開創したもので、当初は十一面観音を本尊としていた が、江戸時代以降は薬師如来を本尊とし、現在に至っている。 薬師如来は一切衆生を病苦、災難から救済する仏として、今も近隣の人々の尊崇を集めている。 水観寺を参拝した後、惣門から出、再び琵琶湖疏水に沿って帰った。 気持ちとしては近くの北院にも足をのばしたかったが、時間と天気が許さなかった。 水観寺本堂 明暦元年(1655)再建 昭和63年(1988)現在地に移設 本尊:薬師如来、脇侍:日光菩薩、月光菩薩、薬師三尊像を12神将が守る 西国薬師霊場第48番札所 |
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観音堂の前は広い広場となっており、現世利益を求める参拝者で賑わっていた。 広場の周囲に絵馬堂、百体堂、鐘楼、観月舞台などの建物が並んでいた。 いずれも江戸時代建立の建物だ。 この様に、三井寺南院は観音堂を中心に諸堂が並び札所伽藍を構成し、ここだけで独立した寺院の雰囲気 を持っていた。 その中で、琵琶湖が一望に出来る観月台を見ていると謡曲「三井寺」を連想させた。 世阿弥と伝えられる作者は,この場所ではなく、現在の金堂辺りを想定していると、思われるにも係わら ずだ。 観音の加護による仏法の尊さを、湖水を渡る鐘の音と月を配して創られた詩情豊な作品として名高い謡曲 「三井寺」の舞台は、満月の夜、琵琶湖が一望に眺められることが必須の要件だと思う故からだ。 観音堂 元禄2年(1689)再建 重文 正殿と礼堂の造り合で繋ぐ複合建築。 本尊は如意輪観音(平安時代、秘仏 重文) 智証大師円珍が香木に彫刻して安置したのが始まり。 後年、延久4年(1072)山上の寺に移祀されたところ、ある夜、寺中の僧達が揃って、本尊が「山を下り、人々の参詣しやすい地移って衆生を救いたい」と告げる夢を見た。 そこで、文明13年(1481)観音堂は現在地に移ったとされる。 西国三十三所観音霊場第14番札所
本尊は秘仏故、礼堂正面には掛け仏が懸けられそれを拝する。 享和2年(1802)建立 宝暦3年(1753)建立 文化11年(1814)建立 三間四方 袴腰付き桧皮葺 総欅造 嘉永3年(1849)建立 月見の絶好の場所で謡曲「三井寺」を連想させる。 ただ、謡曲「三井寺」の作者は物語の舞台を金堂前を想定しているにも係わらず、今はこの場所の方が物語の舞台として相応しい気がする。 謡曲「三井寺」は、次の様なあらすじだ。 駿河国清見が関の女が 京の清水寺に参籠し、行方知らずになった我が子・干満丸との再会祈るうちに清 水の観音の霊夢を得て近江の三井寺にきた。 あら うれしと 御合わせ候ものかな 告に任せて 三井寺とやらんへ 参り候べし 折りしも仲秋の名月の夜、鐘の音にひかれて夢中で鐘楼に登り、鐘を撞きながら鐘の謡う。 初夜の鐘を撞く時は 諸行無常と響くなり 後夜の鐘を撞く時は 是生滅法と響くなり 晨朝の響きに消滅滅己 入相は寂滅為楽と響き 月にうかれてたわむれつつ、子を求めて心乱れる母親を、はからずも寺僧に伴われて月見に来ていた我が 子に見出される。 日こそ多きに今宵しも、この三井寺に巡り来て、親子に逢ふはなにゆゑぞ。 この鐘の音たてて物狂ひのあるぞとて、お咎めありしゆゑなれば、常の契りには別れの鐘と 思ひしに、親子のための契りには 鐘ゆゑに逢ふ夜なり、嬉しき鐘の音かな こうして母子共に郷里に帰ってゆく。 かくて伴ひ立ち帰り 親子の契り尽きせずも 富貴の家となりにけり げにありがたき孝行の威徳ぞめでたかりける 威徳ぞめでたかりける
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金堂や唐院などの堂宇が並ぶ中院といわれる地区から、観音堂を中心とする南院に足をのばす。 境内の木々の葉は落葉し、あるいは色づき晩秋の色濃い。 途中には開祖智証大師円珍と所縁の石橋・村雨橋が架けられ、道の脇には重文の毘沙門堂、比叡山延暦寺 (山門)と争い怨念を残して死んだ頼豪の霊を鎮める十八明神社、比較的新しい造りの宝生観音菩薩石造な どがあった。 やがて南院に着いた。 観音堂前は東側が開け広場になっており、その先は展望台となっていて、そこに立つと大津市街や琵琶湖 が一望できた。 下を見ると目の下に世継地蔵堂が建っていた。 開祖・智証大師円珍がこの橋を渡っている時、中国の青龍寺が焼けていることを聞いた。 閼伽井の水をまくと橋の下から村雨が湧き起こり中国の方に飛び去った。 翌年青龍寺がら鎮火のお礼の使者が来たという。 元和2年(1616)建立 重文 正面一間、側面二間、一重宝形造 桧皮葺の小建物で極彩色を施した唐様式の建物。 元は五別所の一つ尾蔵寺南勝坊にあったが、明治42年(1909)山内に移され、昭和31年(1956)現在地に移された。 天保7年(1836)再建 当山内の土地伽藍を守護する神々を祀る。 別名「ねずみの宮」という。 怨念のあまり鼠になって復讐したと言う三井寺の修験僧・頼豪の霊を弔う社と言う。 経緯については、 「平家物語」巻第二 頼豪、 「太平記」巻十五 園城寺戒壇の事 等に記されている。 南院観音堂に向かう参道の脇に安置されている石像 衆宝観音は33観音の一つ。 衆宝とは衆生が求めてやまない財宝のこと。 右手を岩に置き、左手を立て膝の上に置く、非常にリラックスした姿勢。 この観音様を信仰すれば、財宝が貯まり福徳を授けられ出世が叶うと言われる。 展望台からの琵琶湖 大津市の市街と琵琶湖を一望でき、素晴らしい大パノラマが楽しめた。 文政2年(1802)建立 展望台の下に建っている。 頼豪の怨念がねずみと化した話は「平家物語」延慶本、長門本、等にも見られるが、「太平記」から紹介 する。 白河天皇の時、修験に優れた三井寺の阿闍梨頼豪は、かねてからの悲願の戒壇設立の約束と引き換えに、 中宮賢子に皇子が生れるよう、1護摩を焚いて壮絶な加持祈祷を行った所、見事皇子が誕生した。 しかし、天皇は山門派に押し切られて約束を反故にした。 頼豪是を忿って 我願はくば即身にて大魔縁と成って 玉体を悩まし奉り、山門の仏法を滅ぼさん という悪念を発して遂に三七日が中に壇上にして死にけり。 その怨霊果たして邪毒を成しければ、頼豪が祈出し奉りし皇子、未だ母后の恩膝の上を離れさせ 給はで、忽ちに御隠れ有りけり。 これに驚いた天皇は、今度は比叡山延暦寺座主・良信大僧正に祈願させたところ、無事皇子が生れた。 しかも、山門の護持祈祷されていたため、頼豪の怨霊も近づけず、無事に成長され天皇になられた。 それが堀河天皇である。 その為、頼豪が亡霊忽ちに鉄の牙、石の身なる八万四千の鼠となって 比叡山に登り 仏像経巻を 噛破りける間 是を防ぐに術なくして 頼豪を一社の神に崇めてその怨念を鎮む。
(「太平記」巻第十五 園城寺戒壇の事)
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