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「如来は法を以って為し 比丘は慧を以って命と為す 法慧いやしくも伝はらば 何ぞ死有らむや」 (「智証大師御遺誡」) (仏様は宇宙の真理を以って不滅の命として下さる。仏道に修行する者は仏教の教え真理の智慧を以って使命とすべきである。この様に真理とそれを実践教導する道が両輪の如く、活かされ伝えるならば、この身は滅ぶとも法慧は亡びず、永遠に続くであろう。) 金堂の正面から南に向かって歩いていくと、左手に森厳な気が満ちる一画があった。唐院である。 唐院は智証大師円珍が、唐から請来した経巻、法具類、を貞観10年(868)に納め伝法灌頂の道場としたこ とによる。 また、三井寺の開祖・智証大師円珍の廟所として最も神聖な場所である。 表門より境内に入る。中は白い砂利が一面に敷き詰められている。 正面に灌頂堂が建ち、左手に長日護摩堂、右手に三重塔が並ぶ。 立ち入り出来なかったが、灌頂堂の奥には唐門(重文)、大師堂(重文)、御廟があるという。 寛永元年(1624)建立 切妻造桧皮葺 重文 表門、灌頂堂、唐門、大師堂と一直線に並ぶ最前列の位置に当る。
潅頂堂
寺流の密教を伝承する道場。重文奥に唐門(重文)、大師堂(慶長3年再建 重文)が建つ。 因みに、大師堂に安置する智証大師坐像は命日の10月29日のみ開扉される。 智証大師円珍は弘仁5年(814)讃岐国生まれる、父は和気宅成、母は佐伯氏の娘で弘法大師の姪にあたる。 承和5年(838)25歳の時、山中で修行中黄不動尊を感得。 仁寿3年(853)入唐 6年後帰朝 貞観元年(859)園城寺(三井寺)初代長吏となる。 貞観10年(868)第5代天台座主となり23年間務める。 寛平3年(891)10月29日79歳を以って入寂。 延長5年(927)醍醐天皇より「智証」の大師号を賜る。 灌頂堂に向かって左隣に建つ 灌頂堂とは渡り廊下で繋がる。 寺伝によると、後水尾天皇の祈願により建てられたものと言われている。 灌頂堂に向かって右隣に建つ。 重文 慶長6年(1601)大和国比曾寺(現・世尊寺)の東塔を移したもの。 南北朝時代の建物といわれている。 |
近畿紀聞
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仁王門から緩やかな坂道を登って来たら、やがて金堂の前に来た。 金堂は南向き建っており、その前は広い広場になっていて、東端には三井の晩鐘として知られる鐘楼、左 端には弁慶鐘を安置する霊鐘堂が建っていた。 三井寺(正式には園城寺)は、朱鳥元年(686)大友村主与多王(オオトモノスグリヨタオウ、天智天皇の孫、大友皇子の 子)が氏寺として創建し、全ての「荘園城邑」を寄進した。 このことから天武天皇より、「園城(オンジョウ)」の勅額を賜り、「長等山(ナガラサン)園城寺」と称したのに始 まる。 この地に、天智・天武・持統天皇が産湯に用いたといわれる清らかな泉が湧き出ることによって、古くから 「三井(ミイ 御井)の寺」とも呼ばれた。 貞観10年(868)智証大師円珍は第5世天台座主となり、三井寺を賜って密教実修の道場とした。 智証大師円珍没後、比叡山の座主職を巡っての派閥抗争などにより、延暦寺(山門)と三井寺(寺門)の対立 は激化し、三井寺は度々焼き討ちされた。 また、平安末、平家討伐の兵を挙げた源頼政が三井寺に拠った為、金堂以外の全堂塔を平家に焼き払われ たが、平家滅亡後源氏の篤い外護を受けた。 しかし、文禄4年(1595)豊臣秀吉により闕所(ケッショ)を命じられ一山の主要な建物や諸仏は廃却や移転させ られ、所領は没収された。(理由は不明、後に撤回された) この様に三井寺は幾度となく破壊を受けてきた。 現在の寺容は慶長年間(1596〜1615)から元禄年間(1688〜1707)に堂宇の再建が行われたもので、明治維新 後も35万坪の広大な寺域を保っている。 金 堂 三井寺の総本堂、慶長4年(1599)豊臣秀吉の北政所により再建 国宝 本尊は天智天皇が信仰した弥勒菩薩像(秘仏)。 内・外陣を格子戸で仕切り、外陣、脇陣、後陣を板敷き(床張り)にし、内陣を土間にするなど、天台密教寺院における仏堂の特色よくあらわしている。 脇陣、後陣にも多数の仏像(平安から江戸時代作)が安置してあった。 金堂の向かって左側にある閼伽井の覆屋 慶長5年(1600)再建 重文 天智・天武・持統天皇産湯(三井寺の名の由来の元)に用いたという泉が湧く。 閼伽井屋正面上部の彫刻で左甚五郎作と言われている。 昔、この龍がよなよな琵琶湖に出て暴れた為に、困った甚五郎が自ら龍の目玉に五寸釘を打ち込み鎮めたと伝えられる。 閼伽井屋の中は三井寺の名の由来となった泉が、今でもゴボゴボと音をたてていた。 「弁慶の引き摺り鐘」と「弁慶の汁鍋」を安置している。 奈良時代の作とされ梵鐘。 昔、俵籐太秀郷が三上山の百足退治のお礼に琵琶湖畔の龍宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝える。 その後、延暦寺(山門)との争いで弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げて撞いてみると、「帰りたい」と響いた。 弁慶は、「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底になげ捨ててしまった。 その時のものと思われる傷痕や破目などが残っている。 中世の山門と寺門の争いの激しさを象徴する伝説である。 鉄鍋には何故だか貨幣が放り込まれていた。 慶長7年(1602)再建 梵鐘は弁慶の引き摺り鐘の跡継ぎとして鋳造されたもので、近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる。 鐘楼、梵鐘共に重文 1回100円で撞くことが出来る。 三井寺炎上 「南都、三井寺、或いは宮(高倉宮以仁王)うけとり奉り、或いは宮の迎へに参る。是もって朝敵なり。 されば三井寺をも南都をもせめられるべしとて、同五月廿七日大将軍には入道の四男頭中将重衡、副将軍には薩摩守忠度、都合其の勢一万余騎で、園城寺へ発向す。寺にも濠ほりかいだれかき、逆茂木ひて待ちかけたり。 卯の剋に矢合わせして、一日たたかひくらす。ふせぐところ大衆以下の法師原三百余人までうたれにけり。 夜いくさになって くらさはくらし、官軍寺にせめ入って火をはなつ。 焼くるところ、本覚院、成喜院、真如院、花園院、普賢堂、大宝院、清滝院、教待和尚本坊、ならびに本尊等、八間四面の大講堂、鐘楼、経蔵、灌頂堂、護法善神の社檀、新熊野の御宝殿、惣じて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、智証のわたし給へる一切経七千余巻、仏像二千余体、忽ちに煙となるこそかなしけれ。 諸天五妙のたのしみも此時ながく尽き、龍神三熱のくるしみもいよいよさかんなるらんとぞみえし」 (「平家物語」巻第四 三井寺炎上 |
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三界の衆生を離れずして 如来蔵仏性の体あり 毘盧舎那一切処に 遍くその住止する処 常寂光と名付く 本来即ち是れ毘盧舎那なり 人虚妄もって 之れを見て以って苦境と為す也 誰か此界を離れて 更に仏土を求めんや (智証大師 「聖訓阿字秘釈」) (我々は本来は仏と同じ仏性が備わっている。大宇宙に連なる仏と等しい清浄な身を以って、この世に暮らしている。この真実を知らないから、この世を汚れ、迷い、罪の世と思い込んでいる。 我々がこの身の真性が仏であることを知り、心の内に仏性がありと知るならば、我が身やこの世を離れて、他に仏世界を求める事があるだろうか) 三井寺(園城寺)仁王門前に来た。これより境内に入る。 三井寺は、山号は長等山(ナガラサン)で、天台寺門宗総本山の寺院である。正式な寺号は「園城寺」である。 しかし、通称の「三井寺」の方がよく知られているかも知れない。 三井寺と呼ばれるのは、次稿でも記すが天智・天武・持統天皇の産湯があり、後に智証大師円珍が当山の 厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来する。 仁王門より西に向かってやや坂道にの参道をのぼる。 途中、弁財天社、釈迦堂(食堂)、教待堂、熊野権現社を拝見して行くと、当山の本堂である金堂に着い た。 仁王門 慶長6年(1601)徳川家康のより甲賀石部(現・湖南市)の常楽寺より移築で15世紀半ばの造営と見られる。 重文 天和3年(1683)建立 本尊は八臂の弁財天像 能弁、学問技芸、福智 延命 財宝を得る神として古くから崇拝されている。
釈迦堂(食堂)
室町時代初期の建物、 元御所の清涼殿だったとの伝承ある。重文 本尊は清涼寺式釈迦如来像(室町時代作) 慶長4年(1599)建立 教待和尚の像を安置する。 寺門伝記によると、教待和尚は智証大師が当山に入る以前、この地をを護持していた不思議な老僧で貞観元年」(859)大師の入山を迎えると共に、この草庵に入り姿が見えなくなったという。 天保8年(1837)再建 智証大師が入唐・求法し、法華密教の奥義を究め、大峯、熊野三山に入峯錬行した事績により平治元年 (1159)当山に熊野権現を勧請し、三井修験道の鎮社とした。 |
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13時半頃、京都駅で知人を見送った。折角ここまで出てきたからと思って三井寺(園城寺)に行ってみた。 京阪「三井寺」で下車し、琵琶湖疏水沿いに歩き、惣門前で北方向に折れ、仁王門を目指して歩く。 途中左手に、石橋、桧皮葺の唐門を備えた護法社があったので、覗いてみる。 石橋を渡り、唐門をくぐると、その先に、子供の守り神・鬼子母神(訶梨帝母)を祀る護法善神堂があり、 その北隣に本地堂、財林坊庫裡が並び、財林坊表門より外に出た。 丁度コの字の様に巡った訳だ。 多くの建物は江戸時代初期から中期建てられたもので、神仏混淆の名残りが強く残っている。 参拝人の姿はちらほら見かける程度であったが、護法社境内には独特の雰囲気を醸し出していた。 享保10年(1725)建造 寛政11年(1797)建立 間口一間 向唐破風門、桧皮葺 享保12年(1727)再建 鬼子母神(訶梨帝母)を祀る 毎年5月の祭礼「千団子さん」は子供の成長、安産を祈る人々で賑わう。 慶安4年(1651)建立 三間社流造 一間向背付き 神社本殿建築と類似し神仏混淆の名残りが見られる。 財林坊表門
享保12年(1727)建立 門番所が付きまるで武家屋敷の門のようだ。 |
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二年ばかりありて、また石山にこもりたれば、よもすがら雨ぞいみじくふる。 旅居は雨いとむつかしきもの、ときゝて、蔀をおしあげて見れば、ありあけの月の、谷の底さへ くもりなくすみわたり、雨ときこえつるは、木の根より水のながるゝをと也。 谷川の 流れは雨と きこゆれど ほかよりけなる 在明の月 ( 菅原孝標女「更級日記」) 菅原孝標女(スガワラノタカスエノムスメ)は42歳のころ再び石山寺に参籠した。参籠していたある日、一晩中雨が降っ ていた。旅先での雨はうっとうしいものだと思いながら蔀戸(シトミド)を開けてみると明け方の月が、谷底 まで照らすほど空が澄み切っている。雨だと思っていたのは水の流れの音だった、谷川の音が雨音のよう にきこえるけれども、今見ている有明の月は他のどこよりも美しい、と云うのが冒頭の文意である。 さて、冬の石山寺を巡ってきたが、今までの稿で漏れた石造物、社などを紹介しておく。 経蔵の東側(紫式部供養塔の西側)にあった。 昔からこの岩に座ると安産すると言い伝えられている。 多宝塔の西に置かれている二基の宝篋印塔。 一基は南北朝時代のものと推定されおり重文と云うことだが、どちらか良く分らなかった。 宝篋印塔は中国の呉越王銭弘叔が955年金剛製の塔を作り、内部に宝篋印陀羅尼を納めて諸国に配ったのが始まりで後に日本に入ってきた。上から相輪、笠、塔身、基礎からなる。 石山寺内に、幾つか宝篋印塔が置かれていた。 本堂の北の石段を上り、多宝塔に向う途中にあった。 平安時代の作 目隠ししてこの石を完全に抱けば諸願成就と云う。 大きすぎて無理だった。 鬱蒼とした杉林の中に、龍穴の池の中央の島に八大龍王を祀る社があった。 約千年前、名僧歴海和尚がこの石に座り、八大龍王等を供養したところ、諸龍王が喜び終生和尚を敬い守護したという。 龍穴の池の西に菖蒲池と甘露の瀧を中心とする庭園「無憂園」が作られていた。 今は人気のない、物寂しいだけの場所だった。 東大門の外、南側の茶屋の前に立っている。 弘法大師が弘仁2年(811)42歳の厄年、3ヶ月間石山寺に修行した。大師ゆかりの松なので三鈷の松と伝承された。と説明があった。 しかし、大師といかなる所縁があったのか?、この松は何代目なのか? 全く分らず。 石山寺前、南駐車場前の植え込みの中に建っていた。 石山の 石にたばしる 霰かな と彫られている。 この句は元禄3年(1690)の冬の日に作られた。 石山寺の名の由来でもある幾重にもなった巨大な硅灰石の上を白く固いアラレが激しく降り注いでたちまちあたりに飛び散る様を詠んでいる。 石山寺前、南駐車場前の植え込みの中に建っていた。 昭和15年(1940)発見された縄文時代早期の貝塚 |



