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東大門から西に伸びる参道を歩いていると右手に大黒天を祀る堂があった。 入ってみる。お堂は鎌倉様式の750年前再建されたものという。 本尊は弘法大師作で 福招出世の拳印(右手親指を内にして握る)大黒天だ。 万寿元年(1024)に石山寺の3人の僧が同じ夢のお告げに依りて湖水に出現、と堂の前に手書きの文字で説 明してあった。 堂内を覗くと、本尊は秘仏ゆえ厨子に入っており、拝することが出来なかった。 その代わりに 普通厨子の前にお前立ちの仏様が置かれているのだが、ずーと手前に大黒天像が置かれて いた。この像も、右手は(向って左手)は小槌ではなく拳印を結んでいた。 |
近畿紀聞
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石山寺の東大門(仁王門とも呼ばれる)をくぐると奥に参道が一本続く。 両側の桜並木は、その季節になれば素晴らしいと思われるが、勿論現在は味も素っ気もない裸だ。 自然に左右に並ぶ子院や休憩所などが並ぶのに気づいたが、残念ながら子院は公開しておらず門からただ 様子を覗うだけだった。 石山寺は山号を石光山といい、真言宗東寺派の寺院である。 創建は聖武天皇の勅願により、天平19年(747)良弁僧正が開いたと伝えられる。 当初は東大寺に属していたが、平安時代になると真言密教の道場へと変貌した。 観音信仰が盛んになると、石山寺は京に近く、琵琶湖を控えた風光明媚な地であることから、宮廷の女性 たちを信仰と遊覧を兼ねた石山詣に誘った。それが女流文学作品にも取り上げられようになった。 例えば、清少納言は「寺は壺坂 笠置 法輪 霊山は釈迦仏の御すみかなるが あはれなるなり 石山 粉河 志賀(「枕草子」第194段)」と記し、 和泉式部は「つれづれも、なぐさめむとて 石山にもうでて 七日ばかりもあらむとて、詣でぬ。」 と「和泉式部日記」に記している。 るのを思い浮かぶ。 また、紫式部はここで源氏物語の着想を得たといわれている。 東大門(仁王門) 建久元年(1190)の建立 慶長年間(1596〜1615)かなり大規模な修理改造が行われている。
仁王像
門の両側に護る仁王(金剛力士)像は鎌倉の名仏師・運慶、湛慶の作と伝えられている法輪院
捨翠園
無料休憩所 秋には庭園の楓が真っ赤に染まるという
公風園
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仁王門の北側に道路に面して、ちょとした庭園があった。郎澄大徳ゆかりの庭園で、庭の中心に郎長律師 鬼姿示現碑を置かれている。 郎澄律師(1131〜1209)は中興の祖といわれる石山寺屈指の名僧で、没後石山寺経蔵の一切経並びに聖教(シ ョウキョウ)を守護し、万民の降魔招福のため鬼の姿になることを誓い、承元3年(1209)5月14日入寂したと言わ れている。 現在郎澄律師の遺徳を偲び、5月第3日曜日に青鬼祭りが行われている。 石山寺縁起絵巻(重文)第6巻第2段詞書には次のような説話が書かれている。 石山流の師、文泉坊郎澄は死後には鬼の姿となり、多くの畜生類を連れて、この聖教を護り、法に従わな い人を改めさせると言っていた。 郎澄の死後、その生前に秘法を伝授された弟子の行宴は、師の居られる所はどこかと熱心に祈っていた ら、ある時夢に彼の山の峯の松の梢にその姿が現れた。 夢が覚めて急ぎその場所に行くと虚空に声がして、定印を結んで両眼に当てて見よという。 その通りすると、金色の鬼が四方を見渡し、厳しい表情であった。 画面は山谷が連なり、松梢の上に生前に語られた通り鬼のような姿で師の郎澄が示現したのである。 郎澄大徳ゆかりの庭 |
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(吉原の旅人宿で)長い旅の話がはじまった。3人の友達は熱心に岸本(作者藤村の作中の仮名)の顔 を熟視った。 家を出、職業を捨て、友達と離れて、半歳の余も諸国を流浪してきたということは、岸本が精神の 内部をよく説き明かしていた。 それほど彼は動揺していた。 −−略ーー 琵琶湖に近い茶丈の歳且つはまだ岸本の眼にあった。 彼が西京から湖水の畔に引返して、それからこの吉原へやって来るまで、2月半ばかりの間は茶丈を 一間借りていた。 その頃は自炊で、しまいには小炉を煽ぐのも面倒臭くなって三度三度豆で飯を食ったこともあった。 そのうちに、蛙が鳴きだす、蛍が飛んでくる。蚊に責められるが辛いから彼は自分で紙帳を張って、 裾へは古銭を飯粒ではりつけて、渋団扇でバタバタ風を入れては、その中に入って寝た。 ( 島崎藤村 「春」 ) 門前ちかくに破れたる茶丈の風雨のもれたるをつくろひ ほこりたたき塵を落として 湖上に 面したる一室をしきり ここにしばらく藤の花のこほれたるを愛す。 ( 島崎藤村「茶丈記」) 建部大社の参拝を終え、再び瀬田の唐橋まで戻り、瀬田川に沿って国道422号を南にくだった。 約1km歩くと右手に目指す石山寺があった。 石山寺の仁王門前に小公園があり、その中に島崎藤村詩碑が建っていた。昭和47年(1972)建立されたもの で、「石山寺にハムレットを納むるの辞」からの詩が刻まれていた。 元々は密蔵院(現在仁王門先境内)の旧地で、明治26年(1893)教え子との愛の苦悩から、教員の職を辞し 関西漂白の藤村(22歳)が2ヶ月ほどここの茶丈で下宿生活をした。 その時石山寺に参詣し、ハムレット一冊を献じた。 石山寺での生活は、冒頭の「春」や「茶丈記」などに著された。 いずれにせよ、石山寺を囲む詩情溢れる世界が傷心の藤村の心を和ませたようだった。 島崎藤村詩碑 石山寺にハムレットを納むる辞より 湖にうかぶ詩神よ 心あらは 落ちゆく鐘のこなたにも 聴けや 千年の冬の夜ごとに 石山の 寺よりひびく読経のこえ 残念ながら内部は非公開だった。 「ことしほととぎす鳴く卯月の末つかたより 旅のこころやすめんと しばらく石山寺の茶丈を借りて 日頃このめる所を擬す」 ( 島崎藤村「茶丈記」 ) |
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主祭神の日本武尊は景行天皇の皇子で16歳で熊襲を討ち、更に東夷を平定した英雄で、32歳で伊勢の 能褒野にて没した。 その日本武尊を祀る建部大社は、同じ武神・八幡神(応神天皇)を祀る神社ともみなされていたらしく、 池禅尼の助命嘆願により命が救われ、伊豆配流となった源頼朝は永歴元年(1160)配流の途上、建部大社 の近くを通った際、家人に[建部の宮といい八幡神を祀る社]といわれて参拝した。 その時の有様を 「南無八幡大菩薩、今一度頼朝を都へ帰し入れさせ給へ と祈り給ふぞ おそろしき」 と平治物語は語っている。 20年後平家打倒の兵を挙げた頼朝は、宿願なって建久元年(1190)上洛した。そして建部大社に参拝して 武運を感謝し、神領を寄進したとされる。 それ故、建部大社は出世開運、除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬されていると いう。 本殿権殿ともに桧皮葺一間社流造 本殿には主祭神の日本武尊、相殿に天照皇大神を祀り 権殿には大己貴命(オオナムチノミコト 大国主神)を祀る 瑞垣前の大燈籠は「文永7年(1270)庚午五月七日造立之」の銘があり、重文。 祝詞舎は本殿権殿の前に建っている。 向って奥左に本殿、奥右に権殿が建つ。 本殿に祀る日本武尊に祈願すれば、厄除開運、授福出世、火難除御利益あり 権殿に祀る大己貴命に祈願すれば、商売繁昌、縁結び、病気平癒、醸造の御利益ある。 摂社・末社 拝殿の左右に摂社末社が並んでいた。 左側から蔵人頭社、行事神社、大政所社(景行天皇の妃)、聖宮社(祭神:景行天皇) 右側から箭取社、弓取社、若宮社(日本武尊の子・建部稲依別命)、藤宮社(日本武尊の妃・布多遅比売命) 祭神:草野姫命(地主神) 縁結びの御利益で知られる |




