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紅葉狩りを兼ねての日吉大社参拝の後、坂本ケーブルを使って比叡山延暦寺東塔に行ってみることにし た。 その前に、ケ-ブル坂本駅近くにある慈眼堂に寄った。そこに安置されている十三石仏を拝観する為だ。 そこを訪れてみて、慈眼堂が比叡山復興に多大な功績のあった天海大僧正の廟所であり、 境内には、歴代天台座主の墓に混じって、桓武天皇、後水尾天皇、後陽成天皇、慈眼大師天海大僧正、清 少納言、和泉式部、紫式部の供養塔が建っていることを初めて知った。 十三石仏は、それらの供養塔を見守るように、境内に横一列に並んで黙って坐し、長い歳月、風雨にさら されながら、慈悲の姿をとどめていた。 慈眼大師天海大僧正の廟 寛永20年(1643)徳川家光の命により建立された。 天海は徳川家康、秀忠、家光の三代の将軍に幕府のブレーンとして遇され、元亀2年(1571)織田信長の焼き討ちにより全山焼土化した比叡山の復興に尽力した。 慶安元年(1648)大師号宣下を受ける。 柵が設けられて近づくことは出来なかったが、周辺の紅葉と良く調和がとれていた。 後水尾天皇(写真の左の多重塔)、桓武天皇(写真右から二つ目)、後陽成天皇(写真右端の多重塔) 桓武天皇の塔、と後陽成天皇の塔の間に建っていた。 慈眼堂は天海の廟、即ちそこにも墓がある筈だが・・。 歴代天台座主の墓の一つの後に、向って左から、清少納言、和泉式部、紫式部の塔があった。 彼女たちの塔の前で、百人一首に採用されている和歌を詠じた。
十三石仏(部分) 一段高い段の上に一列に並べられていた。 室町時代、近江国観音寺城主六角義賢が母の菩提を弔うために、母の郷里・近江鵜川の地(滋賀県高島町)に弥陀の本願に基づき弥陀の石仏48体を奉安した。 その内の13体を江戸時代初期に天海が当地に移したもの。 |
近畿紀聞
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日吉大社の歴史は古く、遠く神代まで遡るともいわれている。 八王子山(牛尾山 381m)の山頂近くには日吉信仰の源流である大磐坐「金大巌(コガネノオオイワ)」が鎮座し、 その両側に、大山咋神(オオヤマクイノカミ)の荒魂を祀る「牛尾宮」と鴨玉依姫神(カモタマヨリヒメノカミ)の荒魂を祀る「三 宮宮」がある。 東本宮へ向う途中その遥拝所が建っていた。大磐坐あたりまではここから片道30分ほどの上り道らしい が、連れ合いの体力と気力を考えて行くのを止め、ここより参拝した。 三宮宮遥拝所、牛尾宮遥拝所を過ぎて程なく東本宮に着いた。 東本宮楼門をくぐると、比叡山の地主神・大山咋神を祀る「東本宮」とその妻・鴨玉依姫神(カモタマヨリヒメノカミ) を祀る摂社樹下宮(ジュゲグウ)が鎮座し、夫々の拝殿ー本殿をむすぶ線が直角に交叉するように建ってい た。 西本宮楼門と同じく三間一戸、入母屋造 桧皮葺 重文 楼門をくぐると正面に建つ。 文禄5年(1596)頃造営 重文 方3間 一重、入母屋造、桧皮葺 妻入り 柱間は四方吹放し 天井は小組格天井 拝殿奥に独立して建つ。 祭神:大山咋神(オオヤマクイノカミ) 比叡山の地主神、五穀豊穣の守護神 小比叡(オビエ)神とも呼ばれる。 文禄4年(1595)造営 国宝 桁行5間 梁間3間 日吉造 桧皮葺 樹下神社拝殿と神輿 楼門をくぐり、向って左手に樹下宮本殿、右手に拝殿が建っていた。 文禄5年(1596)造営 重文 拝殿は方三間、一重 入母屋造 桧皮葺 妻入り 柱間は四方とも格子、あるいは格子戸となっており 天井は小組格天井であった。 拝殿中央に、何故か神輿が安置してあった。 文禄4年(1595)造営 重文 祭神:鴨玉依姫神(カモタマヨリヒメノカミ 大山咋神の妻) 三間社流造 桧皮葺 東本宮参道を帰る途中にあった大石。 注連縄がむすんであった。 猿は日吉大社のお使いで神猿(マサル)と呼ばれる。 それとどういう関係があるのか良く分らなかった。 しゃがみこんでいる猿みたいだといわれているらしいが・・。 |
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西本宮から東本宮に向った。途中神輿収蔵館があるが、その前に境内の中の一本の大木の根元に祀られて いる「忍耐地蔵」を参拝。少しでも忍耐力を頂こうと手を合わせた。 神輿収蔵館には重文の7基の神輿が展示してあった。 日吉大社の神輿は「日吉山王神輿」とも呼ばれ、全国神輿のルーツだそうだ。 延暦10年(791)桓武天皇が西本宮と東本宮の神輿を寄進したことが始まりで、以後順次他宮の神輿も作ら れ永久3年(1115)7基揃ったという。 院政時代の頃から、延暦寺の荒ぶる衆徒が、事あるごとに神輿を担いで都に乱入し、朝廷や権門相手に強 訴を及び、朝廷が手を焼いたことは有名だ。 かの白河法皇も「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」(「平家物語」)と言わ しめたほどで、平安から室町にわたっての370余年の間に40数回の上洛強訴が行われた。 その平安時代の神輿は、元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちで焼失し、現在のものは桃山時代 の作で重要文化財である。日吉大社には14基の神輿が現存するとのこと。 多分石造地蔵尊と思われる石が木の幹に包み込まれていた。 忍耐地蔵と呼ぶ理由が分った。 普通ならば神社の境内に地蔵様が祀られているのは不思議な気がする筈だが、ここでは極自然に思われた。
山王神輿
西本宮神輿(左)と東本宮神輿(右) 他の5基を含め全7基は夫々形、姿を異にするが、いずれもで、桃山・江戸初期の最高の金工技術による金銅装が施され、古色を帯びているが華麗だ。 |
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日吉神社西本宮の祭神は大己貴神で、東本宮の大山咋神の小比叡(オビエ)神と言われるのに対し、大比叡 (オオビエ)神と呼ばれる。 大津京遷都の翌年の668年天智天皇は、新たに国家鎮護の神として、大和国三輪山の大神神社から神宿る 霊山比叡山に勧請された。 また、西本宮の近くには、九州、北陸地方で神威が敬われる古くからの著名神の宇佐宮、白山宮が摂社 として祀られていた。 日吉大社の建物は元亀2年(1571)織田信長の叡山焼き討ちにより焼失したため、現在の建物はその後に 再建されたものである。 天正14年(1586)再建と推定 三間一戸、入母屋造り桧皮葺 四隅には猿の彫刻、前後には極彩色の蟇股がある。 本殿の前に独立した拝殿がある。 拝殿は方3間 一重 入母屋造、妻入り 桧皮葺 重文 四方の柱間は吹放し だが、参拝者のためにビニールシートが張られていた。 祭神:大己貴神 天正14年(1586)再建 国宝 桁行5間、梁間3間 桧皮葺 三面に庇を付け、日吉(ヒエ)造りとも聖帝(ショウタイ)造りともいう特異な形 正面で神主が祝詞を詠んでいた。 慶長3年(1598)本殿と共に建てられた 重文 方3間、一重、入母屋造、妻入り 桧皮葺 祭神:田心姫神(タゴリヒメノカミ) 慶長3年(1598)再建 重文 桁行5間、梁間3間 桧皮葺 西本宮よりやや小ぶりの日吉(ヒエ)造りとも聖帝(ショウタイ)造りともいう特異な形 明治以前は聖真子宮と呼ばれていた。 慶長3年(1598)本殿と共に建てられた 重文 方3間、一重、入母屋造、妻入り 桧皮葺 祭神:菊理姫神(ククリヒメノカミ) 慶長3年(1598)建てられた 重文 3間社流造 桧皮葺 |
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赤い鳥居をくぐり、紅葉鮮やかな西本宮への参道を歩く。 比叡山の東麓に鎮座する日吉大社は凡そ2100年前、崇神天皇7年に創祀され、全国3800余の分霊社(日吉、 日枝、山王神社)の総本宮である。 祭神は比叡山の地主神である大山咋神(オオヤマクイノカミ)と三輪山より勧請した大己貴神(オオナムチノカミ)である。 平安京遷都の際、この地が都の北東に位置し、表鬼門に当ることから、都の魔除・災難除を祈る社 として、また、伝教大師が比叡山に延暦寺を開いてからは、天台宗の護法神として崇敬を受け今日に至っ ている。 境内には約3千本のもみじがあり、関西屈指の紅葉の名所である。 参道にはこの紅葉の見物と参拝を兼ねた多くの人々で賑わっていた。
大宮橋
大宮川に架かる石造反橋 木造橋の形式をそのまま用いている。天正年間(1573〜1592)豊臣秀吉が寄進したと伝えられるが、木造が現在の石橋に架け替えられたのは寛文9年(1669) 直ぐ下流の「走井橋」、下流で東本宮参道に架かる「二宮橋」と共に日吉三橋といわれ、いずれも重文。 大宮橋の直ぐ下流に架かる。 三橋の中で最も簡素な構造の石橋。 橋の傍らに走井(ハシリイ)という清めの泉があることに由来する。 更に下流に架かる石造反橋、東本宮参道を渡す。 山王鳥居 西本宮への参道途中中央に建つ、日吉大社独特の鳥居。 東に向って、伊勢神宮を始め東日本の神々を、西に向っては西日本の神々を拝することが出来る。 神仏習合の信仰を表す独特の形、「合掌鳥居」とも言われる。 古来の神域だった比叡山中に堂宇が建立された時、日吉大神はその護法神となった。 中国の天台山国清寺の山王祠にならって、日吉の神々を「山王」と称し、以来日吉山王は日吉大社の別称となった。 |



