ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

近畿紀聞

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緑樹影沈んでは、魚木に上る気色あり

月海上に浮かんでは、兎も波を走るか、 面白の浦の気色や    (謡曲「竹生島」)


「琵琶湖に美しい島影を見せて浮かび、伝説と歴史に彩られた島」というキャッチコピーに誘われて竹生

島に行こうと思った。

豊公園の南、長浜港(JR長浜駅から徒歩10分)から、竹生島への船に乗った。

長浜港を出た船は沖で右(北)に方向を変え、琵琶湖畔を沿うように北上した。

したがって、右手に長浜城など長浜の湖畔風景をなぞり、前方にひょうたん型の竹生島、さらに奥の賤ヶ

岳がよく眺められた。

船には夏休みということであろうか、乗客は多く、8割程度の乗船率だ。

冷房が効く船室では竹生島や湖北の観光案内をしていたが、:)は室外に出て景色を堪能した。

約30分で竹生島に着いた。

竹生島は、古より神の住む島、弁天降臨の霊場として信仰の対象とされ、神仏一体として発展してきた。

「神が斎(イツ)く島」について、謡曲「竹生島」にも、月明かりの下、湖魚が木に上り、月から飛び出た兎

が波頭を疾るというような幻想的な光景があますところなく謳いあげられている。

明治に入り、神仏分離令により、弁才天を本尊とする宝厳寺(ホウゴンジ)と浅井姫命を祀る都久夫須麻神社

(ツクブスマジンジャ 竹生島神社)に分かれたが、神と仏の祈りの島であることには、今も変わりがない。



イメージ 1

     長浜方向
ほぼ中央に長浜城が見え、やや左手に頂上が雲がかかっている伊吹山(1377)が望める



イメージ 2

     竹生島方向
やや左手のひょうたん型の島が竹生島、右手奥の山々は賤ヶ岳



イメージ 3竹生島全景
湖岸から約6km、周囲約2km、全山花崗岩の樹木に覆われた島である。
島の南側斜面に都久夫須麻神社、宝厳寺があり、その前に竹生島港が造られている。



イメージ 4竹生島接近
都久夫須麻神社の龍神拝所が修理工事のため大きな素屋根で覆われている。
都久夫須麻神社本殿(国宝)は素屋根で隠れている。
ほぼ中央の桧皮葺の建物は宝厳寺観音堂
上部にある建物は宝厳寺宝物殿




イメージ 5竹生島に上陸
船は、島からの客を乗船させるとすぐに長浜に向って出航していった。
長浜以外に、今津、彦根などの便があるようだ。




イメージ 8「琵琶湖周航の歌」歌碑
「琵琶湖周航の歌」は旧制三高の愛唱歌
瑠璃の花園 珊瑚の宮
古い傳への竹生島
佛の御手にいだかれて
眠れ乙女子やすらけく



イメージ 6常夜灯と琵琶湖八景の碑
琵琶湖八景「深緑竹生島の沈影」の碑の隣の常夜灯は寛延元年(1748)のもの
近くに「銃器によるカワウ捕獲実施中」の看板
近年カワウの糞害で木々が枯死し、謡曲で謡われた在りし日の風景を見ることが出来ないという。



イメージ 7売店と史蹟碑
史蹟碑「名勝及び史蹟 竹生島」の前には売店が並ぶ。
この先で入島料を支払う。
因みに、竹生島には人は住んでいない、即ち無人島だ。
寺社関係者、店舗従業員は島外から通っているそうだ。

神戸から長浜まで、新快速で乗り換えなしの2時間少々で来られた。

長浜駅のほぼ西側、琵琶湖東畔に、緑豊で蝉の鳴き声が賑やかな豊公園が広がっていた。

長浜は、天正元年(1573)羽柴(豊臣)秀吉が織田信長より浅井氏の旧領の大部分江北3郡12万石が与えら

れ、初めて城持ち 大名に出世した地である。

秀吉は今浜に城を築き長浜と改めると共に、現在の長浜の礎を築いた。

秀吉の長浜の在城は7年と長くはない、また秀吉の築いた長浜城は元和元年(1615)廃城になった。

しかし、秀吉は長浜の人々に強く印象付け、愛され続けられてきた。

豊公園は明治43年(1910)琵琶湖畔に長浜城天守閣跡を中心に整備され緑豊な公園である。

ただ、炎天が続く日の午前ということであろうか、人影はまばらであった。


イメージ 1長浜城歴史博物館
昭和58年開館。
鉄筋コンクリート造 城郭様式の博物館




イメージ 2旧長浜領境界碑
長浜城歴史博物館敷地内に建てられていた。
長浜は秀吉によって特別に町屋敷の年貢米300石を免ぜられていた。
この特権は徳川幕府にも認められ、他地域と区切る為の石碑が江戸時代初め長浜町の周りに30数本建てられたといわれている。
この境界碑は「是より東長浜領」、「是より南長浜領」と刻まれており、もとは長浜町の西北隅に建っていたと思われる。




イメージ 4天守閣跡碑
長浜城は天正2年(1573)から翌年にかけて秀吉が築いた城である。
その後、山内一豊など4人の城主が入ったが元和元年(1615)廃城になった。
このように長浜城の歴史は約40年にすぎない。
天守閣跡碑の近くに豊臣秀吉の像が建っていた。



イメージ 3本丸跡
慶長11年(1606)内藤信成が大規模修築している。
又、秀吉時代の絵図古文書の類がほとんどない。
このことから、秀吉時代の城は良く分っていない。
二重の堀に囲まれた水城だったと考えられているそうだ。



イメージ 5太閤井
琵琶湖水際にあった。



イメージ 6

                            大正御大典記念燈籠
先に「太閤井」があるが、松で隠れている。




イメージ 7四阿
宝形造 鉄板葺
大正7年(1918)現長浜幼稚園あたりに開設された運動公園「長陽園」にあったが、昭和初期移設された。

粉河寺本堂左側奥に粉河産土神社が鎮座していた。

粉河産土神社は旧粉川村の総鎮守であると共に粉河寺内の鎮守である。

参道を登ると、朱色の拝殿があり、その右隣りには境内社の天福神社が目に入った。

いずれも社殿は江戸時代に建てられたものらしいとのことであった。

境内社は、天福神社の他、右奥に、護国神社、五社神社(北野神社、日吉神社、多賀神社、一言主神社、

楠神社)などが。鎮座していた。


イメージ 1 粉河産土神社社頭



イメージ 2 拝 殿
祭神は丹生都姫命(ニュツヒメノミコト)
    天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)


イメージ 3 本 殿
拝殿から奥を覗き込むと、
一間社隅木入の春日造りの本殿二棟が、
   同寸法、同形式で並列に建つ。
その様式から江戸時代中期に建てられたと思われる。



イメージ 4 天福神社
大正8年(1919)境内社になった。


イメージ 5 天福神社本殿
天降大明神(テンブリダイミョウジン)を祀る
擬宝珠銘に享保12年(1727)とあり、様式から見てもこの頃建てられたと思われる。

粉河寺薬師堂の左手を進むと、十禅律院の参道に来た。

十禅律院は天台宗安楽律院派の寺院で、紀州8代藩主徳川重倫(シゲノリ)、十代藩主徳川治宝(ハルトミ)父子所縁

の寺である。

参道は緩やかな坂道になっており、その先に龍宮つくりの塗上門が建ち、門をくぐると、正面に本堂、左

手に護摩堂、右手に庫裡があった。

建物は、内外傷みが目立ち寂れた感じがした。

ここは庫裡と本堂に囲まれたところに作庭された枯山水庭園「洗心庭」が知られている。

庭には石組みの間に皐が多く植えられた。

和泉山脈の高峰成高山を遠望する今の庭も佳いが、皐が咲く頃はもっと素晴らしいだろうと思った。


イメージ 1 参 道
緩やかな上り坂の参道の先に龍宮造の塗上門が建っている




イメージ 2 塗上門
中央に掲げる扁額の「宝鐸墜」は紀州十代藩主徳川治宝(ハルトミ)の直筆
左背後のイブキが風格を与えている。



イメージ 3 禁碑石
塗上門の向かって左前に建ち、
「禁葷酒」と刻まれている




イメージ 4 本 堂
塗上門の正面に建つ。
五間四面 総欅造り
阿弥陀三尊像が三組安置されている。



イメージ 5 扁 額
本堂正面に掲げる扁額「薦福殿」は紀州十代藩主徳川治宝(ハルトミ)の直筆




イメージ 6 壁・扉
本堂は総欅造で、彫刻が随所にしてある。



イメージ 7 護摩堂
本堂の向かって左に建つ。
宝形造で、宝珠は粉川鋳物師蜂屋正勝の作
不動明王、子安観音、千手観音を安置する。



イメージ 8 庫 裡
本堂に向かって右手に建つ。
御成り玄関、藩主着座の間を持つ武家屋敷風の建物。
三つ葉葵入りの調度品などが展示してあった。



イメージ 9

                               洗心庭
紀州十代藩主徳川治宝(ハルトミ)が築庭させたものと伝わる。
和泉山脈の高峰成高山を借景とした枯山水式の庭園、各所に巧に立石、横石を配し、渓流としてその中央に石橋を架け、回遊路として枯滝口を作っている。
皐の咲く頃が最も見ごろだろう。

本堂に向かって左手(西側)には千手堂(重文)、右手(東側)には丈六堂、六角堂、鐘楼、薬師堂などが

あった。

それらを一通り拝観した後、本堂の背後に位置する十禅律院、粉河産土神社に足を運んだ。




イメージ 1 千手堂
宝暦10年(1760)建立 重文
宝形造、正面に一間の向拝を持つ
正面に千手観世御菩薩(秘仏)を納めた厨子
両側の祭壇には紀州藩歴代藩主及びその所縁のある人々の位牌を安置している。


イメージ 8 イメージ 9
                                丈六堂
文化3年(1806)再建 昭和57年(1972)解体修理  丈六の阿弥陀如来を安置
本堂前広場内(本堂に向かって)右手に建つ。



イメージ 2 六角堂
享保5年(1720)建立、平成7年7年(1995)解体修理
西国三十三箇所霊場の本尊を安置
向かって左手前に「湯浅桜」が植えれれていた。
紀州湯浅の住人藤原宗永が当山本尊千手千眼観世音菩薩のお告げによって本堂の巽(タツミ 東南)の方に飢えたもの。




イメージ 3 鐘 楼



イメージ 4 踞木地碑と樟
寺伝によれば、「宝亀元年(770)頃大伴孔子古(オオトモノクジコ)はこの木に踞して下を通る鹿など・・・」と記されており、この樟はその踞木地とされる。




イメージ 5 薬師堂
薬師如来を安置する。
薬師如来は眼病を始め諸病平癒祈願の仏様である



イメージ 6 法華塔
薬師堂左手前に3塔並んでいる。
右より紀州8代藩主徳川重倫(シゲノリ)側室於八百(オヤホ)
    水戸少将徳川治紀(ハルトシ)正室方姫(ミチヒメ)
    紀州8代藩主徳川重倫(シゲノリ)付老女初島



イメージ 7 石造地蔵菩薩像
法華塔近くに建つ。
高さ210cm、銘 永禄7年(1564)
錫杖を右手に垂直に立て、右の耳のぴったりとつけて90度に立てているのは作者の独創的発想と思われる。
地蔵菩薩は閻魔大王の本地佛、常に六道を巡って衆生を救い、極楽に行ける様に援助して下さると信じられ、広く信仰された。
今も「忌明け地蔵」として信仰されている。

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