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慈攝大師二十五霊場第一番
更にその左前は、高台にある宗祖真盛上人の御廟に通じる急峻な石段となっていた。 その石段の前には、真盛上人の六字名号が彫り込まれた「名号石」と放生池に架かる石橋があった。 石段を登った先には真盛上人の御廟があった。 和様に唐様を混ぜた折衷様の宝形造りのお堂の中に、真盛上人のお墓である五輪塔が安置されていた。 御廟は境内の高台にあるため、そこからは境内越しに明媚な琵琶湖の風景を一望することができた。 宗祖真盛上人の六字名号 御廟は急峻な石段を登った高台にある。 天保13年(1843)建立 桁行・梁間2間の宝形造1間の向拝付 正面中央には細かい格子に花弁状の花狭間桟唐戸 両脇に花頭窓を配している。 御廟の正面にはの大師号の額 その横に御詠歌が掲げてあった 様式は和様に唐様を混ぜた折衷様 堂内に真盛上人のお墓である五輪塔が安置されている。 天台真盛宗宗祖圓戒国師慈攝(ジショウ)大師真盛上人は明応4年(1495)伊賀国西蓮寺で病に倒れ、53歳で入滅した。 後土御門天皇から上人、後柏原天皇から国師、明治天皇から大師 の号を下賜された。 向拝の左右の端に護猿が置かれている。 御廟前からの眺望 御廟前からは西教寺の境内越しに琵琶湖の風景が広がり、近江富士(三上山)が望まれた。 |
近畿紀聞
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大本坊を出た脇に、「兼法勝西教寺」の寺標が建っていた。 西教寺は、正しくは「天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺」といい、伝奏18年(1590)白河天皇が創建し 、その後衰退していた法勝寺の法灯を継いだことによる。 寺標はそれを示しているのであろう。 大本坊はを出て、本堂の東側に向かうと袴腰付の重量感のある鐘楼が建っていた。 中の梵鐘は、明智光秀が寄進した坂本城の城鐘で重文で、昭和62年(1987)まで衝かれていたと言うこと だった。 平成元年(1989)作庭 江戸時代作庭 三尊石組の枯山水の石庭 昭和33年(1958)改築 法勝寺は承暦元年(1077)創建された白河天皇の勅願寺で七堂伽藍完備した名刹であった。 その後、度々災禍や兵火に遭い、天正18年(1590)後陽成天皇は、西教寺9世真智上人に西教寺が法勝寺を 兼併せよとの綸旨を下賜され、薬師如来像(重文 客殿に安置)などをした。 それ故、西教寺は正しくは「天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺」という。 本堂の東側に棟を南北に向けて建つ。 天保2年(1831)築 桁行3間、梁間2軒 袴腰月入母屋造本瓦葺 梵鐘(平安時代 重文)は光秀寄進で、坂本城の城鐘と言われている。 |
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謂れは分からないが面白いので写真を撮った。 本堂は江戸時代再建の総欅入母屋造りの豪壮な建物であった。 内陣須弥壇には本尊の阿弥陀如来坐像(平安時代作、重文)が安置されていた。 元亀の兵火の後、浄福寺から移されてと言われる丈六の阿弥陀如来坐像で、定朝様式の静かな落ち着きの ある仏様であった。 この後、客殿と庭を拝観した。 客殿は伏見城の旧殿を移したもので、桃山様式を伝える建物である。 多くの部屋があり、内部を拝観することができる、しかし、内部では撮影禁止であり、外部遠くから撮れ たものだけを掲載する。 西側には小堀遠州作庭と伝わる客殿庭園があった。 裏山の急傾の山畔部を巧みに利用した池泉観賞式の庭園であった。 納骨堂とその近くにある石造の龍 元文4年(1739)再建 重文 昭和61年(1986)屋根修理 桁行7間、梁間8間、正面に3間の向拝を有する。 総欅 入母屋造り 本尊:丈六の阿弥陀如来坐像 びわ湖百八霊場 湖西11番
客 殿(本堂縁より) 桁行12間、梁間8間 一重 重文 屋根は南面入母屋造、北面切妻造 杮葺き 伏見城の旧殿を大谷刑部少輔吉隆の母と山中山城守長俊の内室が檀越となり移したものと言われる。 南北に長く、南に唐門が建つ。東面と南面には広縁および落縁がある。 東西2列に部屋は配置されており、東面は狩野派によって描かれた襖絵の絵柄によって、北から「控えの間」、「鶴の間」、「猿猴の間」、「賢人の間」及び「花鳥の間」に分かれている。 西面は、最も南に最上の部屋「帝鑑の間(上座の間)」があって、北へ「内仏」、「書庫」、「茶室」、「八畳の間」など多くの部屋がある。 内仏には法勝寺伝来の薬師如来(重文 非公開)が安置されている。 江戸時代初期作庭 伝小堀遠州作庭 |
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光秀は、ここにくる度にそう思う。この寺は、千年近くも前に、聖徳太子によって開かれたが、 後に真盛上人が日課六万遍の称名念仏をひろめて、西教寺を復興した。 以来90年、この念仏を称えつつ打つ鉦の音は、毎日毎時たえたことがないという。 (三浦綾子「細川ガラシャ夫人」鉦の音) 隅には、真盛上人誓願の不断念仏一万日記念供養塔や宝篋印塔などの石碑が立ちならんでいた。 また一方の隅には明智光秀の墓や供養碑などが並んでいた。 元亀二年(171)9月織田信長は坂本、比叡山を中心に近江の国の寺院を焼き討ちした。 西教寺も全山類焼の厄に遭った。 その後、坂本城主となった明智光秀は西教寺再興に尽力した。 三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」ではその頃の西教寺の様子を鮮やかに描いている。 真盛上人が西教寺に入寺し、不断念仏の道場として、弥勒菩薩が慈尊仏として世に出られる50億年の来るまでも不断に念仏を相続しようと大誓願を立てた。在世中は度々48日夜の別時念仏会を修行し、上人の滅後一万日(27年4か月)になると万人日法念を修行している。 その記念として供養塔を建立して相続している。 本能寺の変、山崎の合戦、坂本城攻防など続く戦乱の中で、妻木城で代城主・妻木藤右衛門廣忠の兄弟3人は討死した。 また、一族郎党も多数討死したと言われる。 廣忠は、天正10年(1582)6月14日坂本城落城後、明智一族に殉死した人々を西教寺に埋葬供養した後、18日熙子(廣忠の娘、光秀の室、細川ガラシャの母)の墓前せ自刃したと言われる。 芭蕉没後300年記念句碑 月さひよ 明智が妻の 吐せむ 芭蕉 「奥の細道」の旅の途中、越前丸岡に足を止めた折、光秀と妻熙子のエピソードを耳にしたことを、後に、伊勢の門弟山田又玄(ユウゲン)の妻に贈ったもの。 明智一族墓 天正10年(1582)本能寺の変の後、山崎の合戦に敗れて非業な最後を遂げた明智光秀は一族と共に西教寺に葬られたと言われている。 順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元 (大意:修行の道には順縁と逆縁の二つがある。 しかし、これは二つに非ず実は一つの門である。 即ち順境も逆境も実は一つで窮極のところ人間の心の源に達する大道である。 而してわが五十五年の人生も醒めてみれば全て一元に帰するものだ。) 元禄6年(1693)に書かれた「明智軍記」に因るもので、山崎の合戦で敗れた光秀がこの偈を従士の溝尾庄兵衛に託して自刃したと伝えられる。 明智一族の墓の隣に建てられていた。 天正12年(1584)造立された像の破損が著しいため、平成16年(2004)復元された。 阿弥陀如来が、25菩薩を従えて、はるか浄土の世界から音楽を奏でながら来迎し、念仏者を極楽浄土に導くという浄土思想によって造立された。 義貞の墓所がある寺・称名寺、坂井市 :月さひて・・・芭蕉句碑
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紅葉が美しい参道を登ってい行き、寺標の建つ勅使門前で左(南)に折れると石造多重塔が紅葉の中に佇ん でおりその先に宗祖大師堂があった。 大師堂は南に面する正門の唐門と石像多重塔近くに通じる北門を持つ築地塀に囲まれている。 少し南に廻って唐門から入る。 唐門から振り返ると琵琶湖が一望できたが少し霞んでいた。 西教寺は、聖徳太子が仏法の師である高句麗僧・慧慈と慧聡のため開創した。 推古天皇26年(618)大窪山の号を賜り、天智天皇8年(669)に西教寺の号を賜ったと伝える。 その後、天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念仏道場とした。 文明18年(1486)比叡山で修業した慈攝(ジショウ)大師真盛上人が、荒廃した西教寺に入寺し、不断念仏の根 本道場として再興した。 江戸時代には、東叡山輪王寺の末寺に置かれていた。 明治維新後「山門別院となり、 明治11年(1878)明治政府により別派独立が公許され、「天台宗真盛派」の本山となった。 その後、一時天台3派合同したが、戦後、昭和21年(1946)「天台真盛宗」と公称・独立し今日に至ってい る。 宗祖大師殿は、明治11年別派独立が公許されたのを記念して、宗祖真盛上人像を安置するため建立された ものである。 唐門から入った境内には、正面には大師堂が建ち、左手に真盛上人御詠歌碑と御遠忌塔んどが、右手には 真盛上人の幼形像・宝珠丸像立ち、その先に杮葺の北門となっていた。 左(南)手に宗祖大師殿が建つ。 琵琶湖に面している。 白木で素朴な中にも豪華な彫刻が施されていた。 真盛上人を奉安する黒塗りの厨子が安置されていた。 扉は閉じられていたので像を拝見できなかった。 真盛上人は、紀貫之の末裔で幼名は宝珠丸。 母が地蔵菩薩から宝珠を授かった夢みて上人を身籠ったのでこう名付けたと言われる。 外がに石造多重塔が建つ。 左(西)に折れて、奥に進むと本堂前に至る。
天台真盛宗宗祖圓戒国師慈攝(ジショウ)大師真盛上人(1443〜1495)は、伊勢国一志郡小倭大仰(オヤマトオオノキ)の 郷(現在三重県一志郡一志町大字大仰)で生まれた。 紀貫之の末裔で幼名は宝珠丸。母が地蔵菩薩から宝珠を授かった夢みて上人を身籠ったのでこう名付けた と言われる。 7歳の時、伊勢国川口郷の光明寺の盛源律師の弟子となってその寺に移る。 14歳の時、剃髪出家して名を真盛に改めた。 19歳の時、伊勢大神の夢のお告げを受け、比叡山に登り、20年間修業を重ねた。 35歳で権大僧都にまで出世した。 40歳の時、病母を看取る為郷里に戻るが、文明15年(1483)比叡山黒谷の青龍寺に籠った。 文明18年(1486)44歳の時、荒廃した西教寺に入り、堂宇と教法を再興した。 また、日課六万辺称名念仏を修め、朝廷、公家、武士、庶民戒と念仏の布教を行い、戒称不断念仏の根本 道場とした。 明応4年(1495)伊賀西蓮寺で病に倒れ、53歳で入寂した。 後土御門天皇から上人、後柏原天皇から国師、明治天皇から大師 の号を下賜された。
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