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長命寺参拝を終えて808段の石段を下り始めた。 100段ぐらい下りたところで、右に折れて自動車道を下ることにした。 林間の九十九折の道を下って行くと、途中左手に不動明王像が立っており、真静院参道の入り口になって いた。 真静院は長命寺の塔頭の一つで、大永年間(1521〜28)長命寺の真静坊證尊が創建し、嘉永年間(1848〜54) に春柳、智賢により再建されたという。 不動明王を祀っているので参拝に寄った。 境内の不動明王堂の扉は閉じ、小窓から内部を覗いても暗くて仏様の姿は良く分からなかった。 お堂の外から合掌するのみであった。 |
近畿紀聞
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鐘楼、如法行堂の高台から更に境内西に進むと、荼枳尼天尊堂(稲荷大明神)、太郎坊権現社があった。 荼枳尼天尊堂(稲荷大明神)は、小さな檜皮葺の社であるが、屋根に一円玉がぎっしりと差し込まれてい た。 何か謂れがあるならいざ知らず、奉納のつもりであれば罰当たりなことをするものだと思わずにはいられ なかった。 太郎坊権現社は天文年中(1532〜1555)当山の普門坊が京都の愛宕山から勧請したと言われる。 拝殿から本殿に向かう急峻な石段の左右に「飛来石」と言われる大石が今にも拝殿に転がり落ちそうで あった。 しかし、拝殿前から眺めは近江平野が一望できる絶景であった。 ところで長命寺は、景行天皇の御代に武内宿禰(タケノウチノスクネ)がこの山を拓き、柳の巨木に「寿命長遠諸願 成就」と刻み、長寿を祈願したのがはじまりと伝える。 本堂の東縁先には武内宿禰大臣の足跡と言われるものがあり、その北の斜面に長寿武内宿禰大臣が長寿を 祈願したと言われる六処権現影向石、鐘楼の北側上方斜面に長寿大臣武内宿禰大将軍の御神体修多羅(スタ ラ)石があり、開闢(カイビャク)長寿武内宿禰大臣は、案内リーフレットやパンフレットに単に記しているだけ でなく、ここではもっと強く信仰されていることが分かった。 商売繁盛の仏神 覆堂の中に小さな社があった。 屋根に一円玉がぎっしりと差し込まれていた。 奉納のつもりであろうか? 大天狗の太郎坊を祀り「魔除けの天狗さん」と親しまれている。 修業を極め霊力を得た太郎坊が京都の愛宕山から飛ばしたという「飛来石」が拝殿から本殿に向かう石段左右にある。 天文年中(1532〜1555)当山の普門坊が京都の愛宕山から勧請 拝殿前からの眺望 眼下の琵琶湖、近江平野の眺めは絶景であった。 本堂東側縁先にあった。 本堂東北山斜面にあり、天地四方を照らす霊石 当山開闢(カイビャク)長寿武内宿禰大臣この聖地にて祈願し300年以上の長寿を全うした、と伝えられる。 鐘楼の北側上方斜面にある霊石 修多羅(スタラ)とは仏教用語で天地開闢、天下泰平、子孫繁栄をいい、 封じて当山開闢長寿大臣武内宿禰大将軍の御神体である。 因みに、武内宿禰(「古事記」では建内宿禰)は大和朝廷初期に活躍して伝説上の人物。 「記紀」によれば、第8代孝元天皇の孫あるいは曾孫で、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五代の天皇に 二百数十年間仕え、神功皇后の新羅征伐に従事した。 葛城(カツラギ)、巨勢(コセ)、平群(ヘグリ)、蘇我(ソガ)、紀氏など28氏の祖とされる。
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本堂東から西に眼を転じる。 本堂西側の広場北側に、即ち山側に、三仏堂(重文) 渡廊下に続いて護法権現社拝殿がならび、少し離れ た広場の西の高台に鐘楼(重文)が建っていた。 永正13年(1516)の兵火で焼失後、三仏堂、護法権現社拝殿は永禄年間(1558〜70)に、鐘楼は慶長13年(160 8)に再建されたものである。 何れも入母屋造、檜皮葺 丹塗りで、周囲の緑に映えて美しい。 本堂西南端先からの境内の風景 本堂から渡り廊下で結ばれて三仏堂ー渡り廊下ー護法権現社拝殿と建物が連なる。 少し西の高台に鐘楼(重文)が建ち、その北(写真では三仏堂屋根の西)に修多羅岩(セウタライワ)が覗いている。 三仏堂は元暦元年(1184)佐々木義秀の菩提を弔うため、その子定綱が造立したと伝え、永正13年(1516)の兵火で焼失した後、永禄年間(1558〜70)に再建されたものと考えられている。入母屋造、檜皮葺 重文 護法権現社拝殿は永禄8年(1565)の墨書銘があったと言われており、形式技法から見てもその頃の建立と考えられる。 入母屋造、檜皮葺。北側高台に(写真では隠れている)本殿がある。 渡り廊下も拝殿と同じ頃の建築と見られている。 三仏堂三尊 三仏堂の祭壇に安置されている三仏像、左から釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来 三仏堂から渡廊下に行く途中にある小さな祠 護法権現社拝殿から三仏堂へ続く渡り廊下は桁行・梁間一間、檜皮葺の小規模な建築物であるが、三仏堂側に唐破風を付けている。 聖徳太子が当寺草創の時、 武内宿禰(タケノウチノスクネ)の霊を勧請し、 長命寺の御法神として祀った。 建物は江戸時代後期の再建と見られる。 向って右隣に天神社の祠が建つ。 入母屋造 檜皮葺 重文 慶長13年(1608)再建の上棟用の木槌に墨書されている。 昭和49年(1974)部分修理が行われた。 他の諸堂と共に重要な伽藍の一つで、寺観を整えている。 一重二重ともに三手先組物を備える本格的建築。 概ね和様を基調としているが、妻飾や懸魚の形は禅宗様を取り入れている。 吊り下げられている梵鐘は、鎌倉時代のもの。 琵琶湖の竜神が長命寺の観音に捧げたという伝説があるそうな。 撞いてみたところ、長生きできるような気にさせる良い響きがした。 鐘楼の西隣、同じ高台に建つ。 勝運将軍地蔵尊、智恵文殊菩薩、福徳庚申尊を祀る。 |
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ここから眺めます塔が一番宜しいようでございます。 本堂の屋根の反りが、塔の左側に置かれまして、 なかなか結構でございます。 (井上靖「星と祭」桃と李) 井上靖が「星と祭」の登場人物大三浦(オオミウラ)の口を通して薦める場所から、三重塔を眺める。 三重塔は、本堂の東、やや高いところに建っている。 和様と呼ばれる純日本的な様式の搭で、丹塗りの外壁が周囲の木々の緑に映えて美しい。 手前の低いところ、向って右側に納札所、左側に閼伽井堂、護摩堂が建っていた。 この内、三重塔と護摩堂は、重文である。 この後鐘楼堂辺りから境内を見渡した時、幾重にも重なる檜皮葺の堂宇が眺められたが、三重塔は本堂と 共に存在感のある堂宇であった。 三重塔 天正17年(1589)〜慶長2年(1597)約8年かけて再建されたことが、昭和39年(1964)の解体修理により、墨書、棟札などから判明している。 重文 高さ24.35m、桁行梁間共3間、杮葺きで、各層とも高欄付の縁を設け、外部を朱塗りとしている。 組物は各層とも三手先としている。 各層とも、中央に板扉を設け、両脇は板壁(初層)又は連子窓(2,3層)としている。 内部に本尊・胎蔵界大日如来と四天王像を安置されているそうだが、非公開のため確認できなかった。 中に「閼伽井」があり、水をたたえていた。 天智天皇が行幸の際、楊柳の感応を得られた旧蹟という。 一心に唱名念仏すると水泡が浮き出るので、俗に「念仏井堂」ともいう。 閼伽井堂の屋根棟中央に設けられていた。 棟瓦は波の浮き出し模様となっていることから、両端の鴟尾と同じく火難除けの為であろうか? 慶長11年(1607)三重塔に続いて再建されたことが屋根の頂上にある露盤上の伏鉢の銘で判明している。 桁行梁間共3間の宝形造、檜皮葺 重文 正面は、中央に桟唐戸、両脇に連子窓を設けている。 本尊:不動明王 本堂東縁から撮影 護摩堂の側面脇に連子窓を設けそれ以外は板壁としている。 三重塔、閼伽井堂、納札堂も移っている。 鐘楼付近から眺めた境内 中央本堂の奥に建つのが三重塔,手前は三仏堂、護法権現社拝殿、左端木に少し隠れた建物は護法権現社本殿 本堂左奥の(小さく見える)大石は六処権現影向石 |
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回廊に上がり、本堂の外陣に入った。 弁慶障子によって内陣と分けられてある。 さらに内陣に進むと正面に礼壇が置かれ、その向こうに胸ぐらいの高さの須弥壇が設けられてある。 そしてその前に金色に輝いた小さい十一面千手観音が置かれてあった。 (井上靖「星と祭」桃と李) 境内中央に建つ本堂に向かった。 本堂は桁行7間、梁間6間(正面20.41m、側面20.50m)一重入母屋造、檜皮葺の堂々たる大建築だった。 長命寺は「千手十一面聖観音菩薩」を本尊とし、西国33所霊場第31番札所である。 また、パンフレットには、開闢(カイビャク):長寿大臣武内宿禰、開基:聖徳太子とある。 寺伝によれば、長命寺は、景行天皇の御代に武内宿禰(タケノウチノスクネ)がこの山を拓き、柳の巨木に「寿命長 遠諸願成就」と刻み、長寿を祈願したのがはじまりである。 推古天皇27年(619)聖徳太子が諸国巡遊中にこの山を訪れ、光明を発する巨木に観音菩薩を感得し、 さらに宿禰の文字を見出した。 その時白髪の老翁が現れ、その霊木に観音菩薩像を彫り、祀ることをすすめた。 そこで太子は「千手・十一面・聖観音」の三尊一体の尊像を刻み、寺を建立して祀った。 武内宿禰の「寿命長遠」の霊験に因んで長命寺と名付けられた。 その後、中大兄皇子が行啓した時、瑞祥を現したので、祈願所に定められ伽藍が整えられた。 しかし、その後長く衰微していたが、承和3年(836)法橋頼智(ホウキョウライチ)が明神の夢告を受けて中興した。 その後、近江の佐々木氏の庇護のもとに発展し、西国31番札所として栄えた。 しかし、永正13年(1516)佐々木(六角)高頼とその家臣伊庭氏との間に争いが生じ、その兵火で堂宇悉く焼 失した。 大永4年(1524)本堂再建後、次第に復興が進み慶長13年(1608)鐘楼が完成してほぼ現在の寺観を整った。 無駄な装飾を用いない拡張高いたてもので、中世和様仏堂の好典型である。、 本堂へは西面から入り南正面に向かう。 自然石の碑は御詠歌碑 やちとせや やなぎにながき いのちでら はこぶあゆみの かざしなるらん 本堂南面 大永2年(1522)〜4年(1524)にかけて再建されたもので、寺内で最古の建物とのことだ。重文 昭和5年(1930)〜昭和7年(1932)にかけて解体修理が行われている。 桁行7間、梁間6間(正面20.41m、側面20.50m)一重入母屋造、檜皮葺 手前の小さな瓦葺の建物は閼伽井堂 本堂の檜皮葺の屋根の曲線が美しい。 左手前は護摩堂の屋根 中央本堂の奥(西)に三仏堂そして遠く鐘楼が望める。 回廊西端に安置されていた。 内陣とは黒格子で仕切られていた。 西国33所霊場第31番札所
黒格子の左右には小ぶりな仁王像が護っていた。 写真は内陣に向かって右のもの 東壁側に安置されていた。 子授け、安産、授乳の仏様とされており、女性の参拝者が多いとか。 蓮華座の元には乳房のぬいぐるみが多数奉納されていた。 金色の御前立の十一面千手面観音像が安置されていた。 本尊「千手十一面聖観音菩薩」は33年に一度開扉される秘仏で、今は厨子に納められていた。 井上靖の「星と祭」の主人公・架山は,御前立につづいて、三尊一体と言われる秘仏本尊の「千手十一面聖 観音菩薩」を拝した。 中央の千手観音については「顔も黒いし、体も黒い」と、その右手の十一面観音は「金箔が僅かに残 り、顔は瞑想的である。」と記している。
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