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秋芳洞の本洞が終わり、更に黒谷支洞に入る手前にエレベーターがあった。 そこからは、約80m上の地上に出入りするためのものだ。 それを使って地上に出、更に数分歩くと、秋吉台全体が眺められる展望台に着いた。 この広がるカルスト地形の草原は、4,502haが国定公園、1,384haga特別天然記念物に指定されている。 展望台からは、草原の中に白い石灰岩が露出した無数に露出した雄大な景観が一望できた。 ただ、天気は曇天だったので、風景の色彩が単調であった。 説明板によれば、この日本最大級のカルスト台地の石灰岩は、約3億5千万年前に南方の海でサンゴ礁とし て誕生したものと言う。 暫く秋吉台を眺めた後、再びエレベーターで秋芳洞に入り、黒谷支洞を行った。 黒谷支洞は本洞に比べると、洞窟の規模はぐっと小さくなったが、黄金柱、岩窟王、五月雨御殿、くらげ の滝のぼり、マリア観音など名付けられた岩があった。 黒谷支洞入口にあり目を見張った。 秋芳洞第一の美観と言われる。 高さ15m、幅4mの巨大な石灰華柱 磐天井から流れ出た地下水が岩壁を伝い、その部分に石灰分が付着し、何万年もの長い年月かけて巨大な柱を築き上げたもの。 |
山陽紀行
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山口市内の湯田温泉からバスで40分ほどで秋吉台・秋芳洞に着いた。 観光案内所で巡り方を尋ねたら、今の季節であれば、先ず秋芳洞に入り、本洞を見物しながら抜け、 洞内からエレベーテーで地上に出ると秋吉台を見渡せる展望台に出るのでそこから秋吉台全景を眺め、 その後再びエレベーテーで洞内に戻り、黒谷支洞を見物するコースを勧めてくれた。 秋芳洞は、日本最大級のカルスト台地「秋吉台」の下にできた日本屈指の大鍾乳洞である。 大正15年(1926)昭和天皇が皇太子の時、本洞を探勝され「秋芳洞」の名を賜ったという。 総延長8.9kmで観光コースはその内の約1kmに過ぎない。 本洞に入ると、青天井、長淵、百枚皿、広庭(洞内富士)、千町田、傘ずくし、大黒柱、千畳敷などと名が 付けられた大きな空間、や石灰岩が一旦解けて再び固まって造った奇岩があった。 しかし、手持ちのコンパクトカメラで撮ったものの、当然のことながら洞窟の暗さと、巨大さで、うまく 取れなかった。 かろうじて撮れたもののみ提示する。 秋芳洞行く途中の売店で売っていた草の葉で作った虫 500円/匹 国の特別天然記念物 洞内最大の石筍 天井から滴下する水が作り上げた鍾乳石 群をなし昔の傘屋の天井を思わせる。 |
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この藩が山口に固執したのは、この町が領内の交通上の要衝にあたるため幕末風雲期における情報入手 や命令伝達につごうがよかったからである。 長州藩が天下に野望をもつとき、萩を不自由とし、山口を固執したといいうことは、これを逆に みれば、徳川初期、毛利氏を萩に閉じ込めようとした当時の幕府の地政感覚がきわめて的確であった ことを証拠だてることにもなる。 (司馬遼太郎「街道をゆく 1」) 洞春寺から南に下って行くと国道9号にぶつかり、西に行くと直ぐに県庁前に来た。 県庁前には、周囲のコンクリート造りの建物の前に、豪壮なな門が建っていた。 近づいてみるとそれは旧山口藩庁門であった。 じっくり見ておきたかったが、湯田温泉行のバスが来たらしく、同行のHが急がせるのでさっと見るだけ だった。 今夜は山口市内の湯田温泉に泊まり、明日天気が悪くなければ、秋吉台に向かう予定だ。
旧山口藩庁門 元治元年(1864)長州13代藩主毛利敬親(タカチカ)は藩政の本拠地を萩から山口に移すため山口政事堂を建設した。 この門は、その政事堂の表門である。 切妻造、本瓦葺の藥医門、主材は欅と松で、木割は豪快でいかにも城門らしい風格を残している。 明治4年(1871)の廃藩置県までは藩庁門として使用され、その後は山口県庁正門として使用された。 新県庁舎(現県政資料館、重文)が完成した大正5年(1916)からは西口の門として利用され現在に至っている。 |
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香山(コウザン)公園の西端に洞春寺(トウシュンジ)が建っていた。 洞春寺は山号を正宗山と号する臨済宗建仁寺派の寺院で毛利元就の菩提寺である。 因みに、洞春は元就の法名である。 毛利元就は元亀2年(1571)安芸郡山城にて75歳で没した。 墓は郡山にあり、菩提寺は元亀3年(1572)安芸吉田城内に建立された。 しかし、毛利氏の防長移封により慶長11年(1606)萩城内に、更に明治2年(1869)山口に移された。 入口の山門、および 境内西奥の観音堂は重文指定受けていると言うので立ち寄ってみた。 境内には、人っ気が全くなかった。 切妻造 檜皮葺 四脚門 重文 元々この地には応永11年(1404)大内盛見(モリハル)が建立した国清寺があった。 この山門は国清寺の創建当時のものと言われている。 本堂前に建つ。 桁行・梁間3間、一重裳階付 入母屋造 重文 杮葺だったが昭和25年の解体修理の際、銅板葺に変更された。 正面に唐戸、左右に花頭窓がある 内部は唐様四半敷瓦 本尊聖観音菩薩像を納めた岩屋造厨子が安置されていた。 永享2年(1430)大内持盛を開基とする滝の観音寺の仏殿として創建された。 大正4年(1915)洞春寺境内の現在地に移されたもの。 観音堂中央に安置され、本尊聖観音菩薩像を納めている。 この岩屋造厨子は創建当時のものと言われている。
中門の東(向かって右手)側に建っていた。 右手奥の白壁の建物はのむら美術館。 |
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瑠璃光寺の西側は緑豊かな香山公園である。 香山公園には、幕末の活動の場を伝える建物が移築保存されていたり、維新の中心的役割を果たした毛利 家の墓所があった。 時期的な所為かもしれないが、人影は少なく静寂であった。 なお、香山公園は、その西隣の洞春寺や東側の瑠璃光寺の間を指していると思ったが、案内図などを見る と、両寺を含めた全体を香山公園と言うのかもしれない。 元々は山口の旧家阿部家の離れで、道場門前の一の坂川の河畔にあったので「枕流亭(チンリュウテイ)と呼ばれた。 慶応3年(1867)9月薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、小松帯刀、大山格之助らが山口に訪れた。これに対し長州藩は木戸準一郎(小五郎、孝允)、広沢真臣、伊藤俊輔(博文)品川弥二郎らが迎え、ここ枕流亭にて薩長連合の密議を重ね、連合討幕軍結成した。 枕流亭はその後数度移転し、昭和35年(1960)現在地に移された。 文久3年(1863)13代長州藩主毛利敬親(タカチカ)は藩庁を萩から山口に移し、政事堂を建てた。 その時、政事堂近くの一露山の麓に茶室を設け、「露山堂」と名付けた。 刑親は茶事にことよせて、身分に関係なく、この一室に集めて討幕王政復興の大業について密議を凝らしたという。 廃藩後、他に移築されて持ち主も数人変わり腐朽が甚だしかった。 これを知った敬親の側近を長く勤めた品川弥二郎が有志を募り、建物を買収し、明治24年(1891)現在地に移したものである。 昭和38年(1963)と昭和48年(1973)に増築が行われ、現在も茶室として使用されている。 露山堂が、明治24年(1891)現在地に移された時作庭された。 参道の石畳を強く足踏みするとか、手を叩くと音がよく反響する。 それ故、鴬張りの石畳と言われている。 しかし、偶然そうなっただけで人為的に作られたものではないらしい。 13代長州藩主毛利敬親が文久年間に居城を萩から山口に移して以降墓地として使用する為造成された。 墓所には7基の墓がある。 中央に敬親夫妻の墓である。 高さ約1.8m、径約5.8mの円墳で、前面に墓石がり、「贈従一位大江朝臣敬親卿墓」と刻んである。 敬親夫妻の墓の(向かって)左に14代元徳夫妻の墓、右に15代元昭夫妻の墓、その右に毛利本家歴代諸霊之墓が山林を背に整然と並んでいた。 尚、毛利本家墓所としては、萩に、旧天授院、大照院、東光寺毛利家墓所の3か所ある。 明治4年(1871)3月28日山口で没した毛利敬親の偉業を伝える為、明治29年(1896)明治天皇が碑の建立を命じた。 篆額は彰仁親王の書、文は川口剛が撰し、それを山口市大内出身の書家野村素介が書いた。 文字(楷書)の美しさは申し分なく、日本に数基ある勅撰銅碑の内最も美しいものとして有名。 案内図 |





