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山陽新幹線福山駅のプラットフォームに立つと北側は福山城が目の前にある。 そそり立つ石垣、その上を白壁の塀が囲み、複数の櫓と天守閣が嫌がおうにも目に入る。 伏見櫓と筋鉄御門 京都伏見城から移築したもので重要文化財 左下斜めの架線は在来線のもの 月見櫓 伏見城から移築し、本丸の東南隅に位置し望楼の役目を成していた。 明治の初めの頃取り壊されたが、昭和41年(1966)外観復元されたもの。 左側 手前は湯殿裏一部、奥は天守閣 前回福山城を訪れたのは平成17年(2005)11月17日だから、今回はちょうど2年振りだ。 変わりが無い様だ。 福山城石垣下の登城口近くに立つ説明板には次のように記してあった。 福山城は元和5年(1619)福島正則の改易により備後10万石の領主として入封した水野勝成が3年の歳月を費やし構築した近世の城郭である。 低い丘陵を利用した平山城で、東南西に二重の堀を巡らし、北には吉浅川を通し、小丸山・天神山を天然の防塁とした。 現在内外の堀は埋められ三の丸と共に市街化しているが、二ノ丸、本丸は築城当時の姿をよく伝えている。 城地にはそそりたつ石垣をはじめ、重要文化財の伏見櫓、筋鉄御門、市重要文化財の鐘櫓などがあり、昔日の姿をとどめている。 なお、天守閣、月見櫓、湯殿は昭和41年(1966)に、鐘櫓は昭和49年(1974)に外観復元したものである。 筋鉄御門(すじかねごもん) 前述の通り、伏見城から移築したもの。下層の各柱には寝巻金具をつけ、四隅の筋金具を打ち、扉にも12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど、堅固な造りとなっている。 天守閣 福山城は水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代と歴代譜代が継ぎ、明治を迎えた。天守閣は昭和20年(1945)8月空襲で焼失し、昭和41年(1966)に再建された。 鉄筋コンクリート造りで、福山城歴史博物館となっており、11月25日までの予定で特別展「阿部正弘と誠之館」を催していた。 城の近くのホテルに投宿するので、夜再び訪れ、ライトアップされた姿を見た。 昼間と全く違う感じであった。 鐘櫓 築城当時より城下近隣諸村に「時の鐘」を告げた遺構で、江戸期には鐘と共に緊急時武士を招集する太鼓をそなえていた。当初は杮葺きか桧葺きであったが、明治以降荒廃が激しくたびたびの補修のためを原型 留めないじょうきょうであった。昭和54年(1979)銅板葺きとし、旧規に復した。 城地内に鐘櫓が所在するのは例がない。 湯殿 これも、伏見城内にあった御殿と共に移築したものだったが、昭和20年(1946)戦災により焼失。 昭和41年(1966)に復原。 右 奥は筋鉄御門 月見櫓と鏡櫓 福山駅前のロータリーから撮る。 右:鏡櫓は本丸東側に位置し、明治6(1873)年廃城の際取り壊されたが、昭和49年(1974)外観復原され、文書館として活用されている。 左:月見櫓
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山陽紀行
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台風も去り、雲の切れ目から日が射すようになった15時半ごろ岡山に来た。 少し時間があったので、1年ぶりに岡山城へ行ってみた。 JR岡山駅から海側へ歩いて15分ぐらい,旭川沿いにある。 旭川の対岸はかの有名な名庭・後楽園だ。 城域に散歩する人を見かけるものの人影は少ない。台風で多少樹木が傷んでいるが思ったほどでない。 廊下門から表書院跡を通り、不明門をくぐり天守閣前にきた。 台風後のためか、それとも時間が遅かった所為か天守閣の入り口はしまっていた。 岡山の礎を築いたのは宇喜田直家だが、現在の岡山城を完成させたのは、その子八郎秀家である。 彼は秀吉の意見に従い、岡山の石山から現在地に移し、城郭の拡張整備を行った。 慶長2年(1597)天守閣を落成させている。 外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城」の別名がある。 この天守閣は昭和20年(1945)空襲により焼失した。 現在の天守閣は昭和41年(1966)鉄筋コンクリート造りで再建されたもので、 外観は旧来通り復元されている。 |


