ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

山陽紀行

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いわゆる世羅高原で、西にある「花夢の里」でシバサクラを見物した後、東にある「世羅甲山ふれあいの里」に移動した。
 
途中昼食時間を含めて、1時間30分ほどかかり、着いたのは14時半頃だった。
 
ここでは、山間の一本道約600mほどの間に枝垂れ桜、ソメイヨシノが植えられており、丁度真っ盛りから散りかけと云う状態だった。
 
太い幹の木はなかったが、道の両側から覆いかぶさるような桜の花の並木道は、遠くから来た甲斐があったと思わせるものがあった。
 
並木道を一通り見物した後、途中にあるセンターハウスの二階の喫茶店のテラスからさくらを眺めながら、コヒーと桜餅のセット(\400)でお茶しながらのんびりとした一時を過ごした。
 
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枝垂れ桜の並木
 
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枝垂れ桜の並木
 
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センターハウスからの眺め
 
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センターハウスのテラスからの眺め
 
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センターハウスの裏手
ヒュウガミズキ(黄)、ユキヤナギ(右端、白)なども満開だった。
 
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桜の種類不明
 
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ソメイヨシノの並木道
我家のご近所では、桜は花がすっかり散ってしまったが、シバサクラ(別名モスフロックス、ハナツメクサ)が満開である。
 
数日前 Bさん達の誘いを受け、広島県世羅までシバサクラを見に行って来た。
 
山陽自動車道を西に走り、尾道JCTで尾道自動車道に入った。
 
その後、世羅ICで一般道に出て、25分ほど走った所が、目指す「花夢の里(カムノサト)」だった。
 
そこは、標高480m、緩やかな起伏を持った約5万㎡の敷地に、色とりどりのシバサクラが植えられていた。
 
シバサクラの開花は遅れていた。
 
場所によって花咲き具合が違っているが、大雑把に見て5分咲きぐらいだろうか。
 
とにかく、わざわざ遠くから見に来た身にはやや期待外れだった。
 
園内の一郭には、菜の花、桃、レンギョウ、山躑躅、などが植えられていた。
 
それらが満開で、そちらに歓声を挙げてしまった。
 
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シバサクラと菜の花
 
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シバサクラ
 
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シバサクラ
 
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桃の花
 
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山躑躅の花
 
追記(2012・5・5)
朝日新聞(5月5日の朝刊)では世羅高原のシバサクラが満開であることをカラー写真入りで一面に報じていた。
満開になる時期が、例年に比べ10日ほど遅かったようだ。

東郷さんの家、呉市

所用があって呉にきた。朝ホテルから抜け出し、市内をぶらつく。

呉駅周辺は随分様変わりしていた。

そんなことを感じながら歩いていたら、いつの間にか入船山まで来ていた。

ここには鎮守府長官官舎があるが、今は開いていない筈だ。そんなことを思いながら歩いていると、

平屋建ての家屋が目に入った。

「東郷邸{明治23年(1890)〜明治24年(1891)海軍大佐}の居宅の離れ座敷を移築したもの、登録有形文化

財」と説明してあった。

東郷平八郎が呉鎮守府参謀長として赴任していた頃だ。

更に、海岸沿いを歩き呉港を眺めると、自衛艦が数隻停泊していた。

東郷の時代からは、末裔たちへの期待と重みは変わったが、国土を護る役目は変わっていない。

イメージ 1 東郷邸(離れ座敷)


イメージ 2 呉港風景
JR岡山駅から駅前の通りを25分ほど歩くと三名園の一つ、後楽園があった。
旭川岸に岡山城があり、その対岸の中洲に後楽園が設けられていた。
後楽園は岡山第2代藩主池田綱政が家臣の津田永忠に命じ作庭させたもので、元禄13年(1700)に一応完成した大名庭園である。
明治17年(1884)岡山県に譲渡され一般公開されるようになった。
昭和9年(1934)の水害、昭和20年(1945)の戦災では大きな被害を被ったが、江戸時代の絵図を基に復旧が行われ、昭和27年(1952)には特別名勝に指定されている。
名称は、岡山城の後に造られた園という意味で「後園」と呼ばれたが、明治4年(1871)「先憂後楽」から「後楽園」と改められた。
園内は広い芝地と築山、茶室が水路で結ばれ、歩きながら移り変わる景色を眺める「回遊式庭園」だった。
 
 
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延養亭
藩主に居間で園内で最も重要な建物だったが、戦災で焼失。
昭和35年(1960)築庭当時の間取りに復元
園内外の景勝が一望できるように作られている。
歴代藩主もここから眺めた。
 
 
 
 
 
 
イメージ 1芝原越しに廉池軒、岡山城を望む

 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2廉池軒
廉池軒は戦災を免れた数少ない建物の一つで、池に架かる石橋や対岸の小島なども往時の姿を今に伝えているという。
 
 
 
 
 
 
 
 
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沢の池と唯心山(築山)
沢の池は園内で一番大きな庭、左手に築山の唯心山があり庭園を立体的な景観にしている。
唯心山は池田綱政の子・継政の時、築かれた。
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4唯心山から
園内で一番大きな池「沢の池」、中央に中の島があり、
島に橋が架けられ、島には「茶屋」が建っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5茂松庵
林の中に建てられている茶室
歴代藩主はここで茶の湯を楽しんだという。
戦災で焼失後園内で最初に復元された。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 7慈眼堂
池田綱政が元禄10年(1697)に池田家と領民の繁栄を祈願して建立。当時は観音像を祀っていたが現在は空堂である。
 
 
 

関門トンネル(人道)を歩き門司側から下関側にでた。人道の出入り口前は国道9号でひっきりなしに車

が行き交っていた。

国道に沿って下関市街方向に約10分歩くと赤間神宮が右手にあった。

左手の海は霧に包まれていたが、赤間神宮周辺は晴れていた。ここへ来るのも二十数年ぶりだ。

国道に面して建っている鳥居側から見ると、境内の太鼓楼、水天門の朱色が鮮やかだ。


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                                赤間神宮


赤間神宮は数え8歳で入水した安徳天皇を祀る神社だ。神門は竜宮城を模した門で、安徳天皇が水天宮の

祭神とされることから水天門と呼ばれる。

イメージ 2

                            水天門(左手一部は太鼓楼)
水天門は昭和32年(1957)築であるが、向って左手の太鼓楼は平成2年(1990)築とのこと。だから、前回訪れた時は無かったはずだ。


水天門を通ると正面に拝殿が建っていた。今では神社として祀られているが江戸時代までは阿弥陀寺御影

堂として祀られていた。

イメージ 3

                                拝 殿

寿永4年(1185)壇ノ浦の戦で入水した安徳天皇の遺体は御裳川(ミモスソカワ)で引き上げられ、赤間関紅石山麓

の阿弥陀時境内に埋葬された。

建久2年(1191)勅命により御陵に御影堂が建てられ、江戸時代までは寺に祀られた。

明治の神仏分離により阿弥陀寺が廃され神社となったのだ。

一時、天皇社と称したがすぐに赤間宮という名称になり、昭和15年(1940)より赤間神宮と称するように

なった。

因みに、神社の初代宮司は、幕末長州の志士の活動資金をほとんど出した下関の豪商白石正一郎だった。

イメージ 4
安徳天皇陵

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平家一門之墓

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芳一堂
耳なし芳一を祀り、琵琶弾く芳一像が安置してある。
耳なし芳一の話はラフカディオ・ハーンに紹介されて有名な話ですね。

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宝物殿内部
安徳天皇神像や源平合戦図を展示してあった。


山鳩色の御衣に びんづら結はせ給ひて 御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ

まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、 其の後 西にむかはせ給ひて

御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪の下にも、都のさぶらふぞ」となぐさめ奉ッて

ちいろの底へぞ入り給ふ。               「平家物語」巻第11 "先帝身投"より

(幼帝安徳天皇は)山鳩色の御衣にみずらをお結いになって、涙を激しく流されながら、小さいかわいらしい御手を合わされ、まず東に伏し拝み、伊勢大神宮にお暇を申された。次いで、西に向かわれ御念仏を唱えられたので、二位殿はすぐさまお抱え申し上げ、「波の下にも都がございますよ」とお慰め申し上げて千尋もある深い海の底へお入りになった

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