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総社市から岡山市に渡る吉備路を廻っているとあちらこちらに古墳を見かける。 中には国内トップ・テンに入るような巨大な前方後円墳が存在し、陵墓指定を受けていないため近づくこ とが出来るし、登ることも出来る。 5,6世紀にはこれだけの物を作れる人員を動員でき、組織的に動かせる巨大な権力が存在していたこと を物語っている。 5世紀頃築かれた方墳。名前の由来について、氏神御崎神社の秋祭りに古墳の西側で奉納相撲が行われたからとか、相撲の土俵を思わせる台地であることから等の説がある。 相撲山古墳近くにある天井の無い石室。6世紀中の円墳で、別の所にあったが、県道工事に伴い、ここに移して復元したもの。 5世紀中頃築かれたと考えられる全長286m、高さ24mの前方後円墳。前国で9位(岡山県下で2位) 古墳の麓の周囲には石仏が点々と存在し、○○巡りといった巡拝場所になっている様だ。 6世紀後半築かれたと考えられる全長約100mの前方後円墳。 こうもり塚古墳の石室内部と石棺 内部の石室は巨石を用いた横穴式で、長い羨道と玄室からなっている。玄室への立ち入りは許されないが、覗くと家型の大きな石をくりぬいた石棺が中央にあった。
造山古墳
5世紀前半に築かれたと考えられる前方後円墳。全長約350m、高さ約31mで全国4位(岡山県下では1位)。古墳の西側には陪墳と考えられる木神山古墳、千足古墳など6基の中小古墳がある。 |
山陽紀行
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JR総社駅から15分、稲の刈り取りも終わった長閑な田園風景の先の丘陵に五重塔と堂宇が見えた。 この風景は、特に5月頃の蓮華が満開の頃の風景は、良くポスターでも紹介されている馴染みのものだ。 国分寺全景 備中国分寺は天平13年(741)聖武天皇の勅願により全国に建てられた官寺の一つだ。備中国分寺は南北朝 時代焼失し、中世には一時廃寺となった。 現在の国分寺は、日照山国分寺と言い、江戸時代中期に備中国分寺跡に再建されたものだ。 それゆえ、現在の伽藍はすべて再興後建てられたものだ。 五重塔と鐘楼 五重塔は弘化元年(1844)完成、高さ約34mあり、県下唯一の五重塔である。(国 重文) 本堂と大師堂 境内に入ると本堂と大師堂があり、参拝客がお参りしていた。 現国分寺の南側に、南大門跡、中門跡、建物跡や築地土塀など備中国分寺跡が確認されている。 金堂跡や講堂跡は現国分寺の境内地にあり、位置規模は明らかでない、とのことだ。 近くには同時期に建てられた備中国分尼寺跡があったが、赤松林の中に丸い礎石や所々に築地土塀の跡が 残るだけだった。
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古代律令制度の時代、当時は祭政一致の色濃いので、朝廷の命で任国に派遣された国司は国中の神社を巡 拝する習わしだった。 しかし、その煩わしさを解消するため、平安末期には国府の近くに国中の社を合祀した社、「総社」が造 総社市の備中国総社・総社宮はその一つで、主神は大名持命(大国主命)と須世理媛命だが、備中国324 社の社を合祀する神社である。 現在の総社市の街はこの備中国総社・総社宮の門前町として発展した。また、市名の由来ともなった。 総社宮はJR吉備線 東総社駅の前にある。 社殿は長い回廊で結ばれ、拝殿には多くの絵馬が奉納され、中には円山応挙や大原呑舟の絵馬があるそうだ。 総社宮の近くにあったレトロナ洋風建築。明治43年(1910)に建てられた旧総社警察署で、現存市内唯一の明治洋風建築とのこと。 多角形の楼閣風の入口が明治の雰囲気を漂わせている。 現在は一階は歴史コーナーと物産展示を、二階は売薬、鋳物、イ草など伝統産業の資料を展示している。 まちかど郷土館辺りから、JR総社駅に通じる道は古い街道だったのだろうか、このような古い趣のある民家が点在していた。 |
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井山宝福寺はJR総社駅から車で5分ほどの所にあった。 井山宝福寺は、後に水墨画の大家となった雪舟が幼い頃修行し、涙でネズミの絵を描いた伝説でも知られ ているが、紅葉が美しいことでも知られている。 行った時は紅葉が最も美しい時期とあって、訪れる人で賑わっていた。 山門前 創建年代は不明だが、当初は天台宗の僧日輪によって開かれた。鎌倉時代に禅寺になったと言われている。現在 臨済宗東福寺派の寺 仏殿(法堂) 本尊は虚空蔵菩薩。天井に「水呑みの龍」が描かれた居いる。 三重塔(重要文化財指定) 凡そ600年前の建造。室町中期の特色を有する代表的建造物、県下で2番目に古い 方丈と庫裡 雪舟が柱に縛られネズミの絵を描いたという伝説はこの堂内でのこと。 しかし、当時の建物は天正3年(1575)兵乱で焼失し、雪舟が縛られた柱は現存しない。 その後、二度にわたって復興したのが現在の方丈 鐘楼 梵鐘は応仁2年(1468)雲仙寺に寄進されたものであることが銘から分るが、宝福寺に伝わった経緯は不明 水呑みの龍 仏殿の天井には号山和尚の龍の絵が描かれている。当初、夜な夜な出て白蓮池の水を呑み、里人がこれを 恐れたので龍の目に釘を打ち封じたと伝えらる 雪舟像 雪舟が柱に縛られて涙でネズミの絵を描いた像が見られた。一つは寺に入る入口近くに(左)、もう一つは境内に(右)にあった。 |
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備中松山城は高梁市市街地の北端にある臥牛山の一つ小松山(標高約430m)を中心に築かれた城である。 天守が現存する山城としては随一の高さを誇る。 訪れた時は観光シーズンとあって、車は麓近くの駐車場で止められ、ここから中腹までシャトルバスを利 用し、後は二本の足で登る。 この城の歴史は古く鎌倉時代、延応2年(1240)有漢郷の地頭に任ぜられた秋葉三郎重信により臥牛山の大 松山に砦を築いたことに始まる。 その後小松山に移り、城の縄張りは時代とともに変化したが現存する天守などは天和3年(1683)水谷勝宗 により修築されたものと伝えられる。 その水谷家も嗣子が無く元禄6年(1693)断絶。この時忠臣蔵で有名な浅野長矩の家老大石良雄が受け取り その後の処理をしている。 明治になり放置されていた時期があったが、今は重要文化財に指定されている。 本丸 土塀、南御門、五の平櫓(以上 復元)、天守(右端奥) 天守 木造本瓦葺き二層二階の建物である。 高梁市市街地 二ノ丸辺りからの眺望。未だ霧が残っていた。 なお、江戸時代以前の天守が現存する城は次の12城だ。 |



