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徒然 あさやんの史記と四季
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中国ドラマ 康熙王朝(こうきおうちょう)

 
1話
 
内容・ストーリー
時は康煕(コウキ)帝の父、順治帝が清を治めていた時代。ある日、玄ヨウの父である順治帝は皇子たちを集め、誰がもっとも優れた皇子であるかを決める試験を行うと告げた。その試験を受ける皇子たちのなかには、後の康煕帝であり、幼いころから抜きん出た勉学の才をもつ玄ヨウもいた。試験のさなか、かつて清が滅ぼした漢人たちに学べという父の言葉に対し、玄ヨウは疑問を投げかける……。
■キャスト・スタッフ
陳道明、斯琴高娃、安亜平、劉釣、高蘭村、他
監督:陳家林、劉大印
 
2話
内容・ストーリー
のちの康煕帝、玄ヨウは突然、天然痘にかかってしまった。同じ病を患っていた鄂妃(ガクキヒ)に疑いの目が向けられるが、彼女を愛する順治帝は皇太后の侍女、スマラグが天然痘を持ち込んだとして処刑を命じてしまう。その後も順治帝は鄂妃のことしか考えられず、執政すらも放棄。天然痘が悪化した鄂妃を治療するため、僧侶たちを集めて祈祷を始めるが……。
 
3話
内容・ストーリー
スマラグの薬草で玄ヨウは回復したものの、順治帝は薬草の真偽を疑い、鄂妃は命を落としてしまう。失意に暮れる順治帝は、僧侶・行森の言葉に踊らされ、出家することを真剣に考え始める。一方、執政が滞り続けることに危機を感じた元帥・索尼(ソニ)は、誰にも会わないという帝の命にそむき、命を賭けて順治帝に謁見しようとする
 
 
4話
 
内容・ストーリー
僧侶・行森に踊らされ、出家することを決意した順治帝。皇太后は行森の師匠にあたる大僧正・玉林秀を呼び、行森の考えを改めさせ、順治帝を引きとめようとしていた。玉林秀と行森の問答が続くなか、順治帝は行森の到着を待たず、剃髪を始めようとする。その様子を物陰でうかがっていた玄ヨウは……。
 
5話
 
内容・ストーリー
順治帝の出家により、幼き玄ヨウの即位が決定した。宮中では式典の準備が進められていたが、家臣・班布爾善(バンブーシャ)は太皇太后に式典進行係の変更を願い出る。進行係は玄ヨウの教師・魏承謨(ギショウバク)だったが、彼が漢民族であることが問題視されたのだった。帝の力が薄れた今、一部の家臣たちの増長は高まっていく……。
 
6話
 
内容・ストーリー
玄ヨウの康煕皇帝即位から時は流れ、帝はたくましい青年へと成長。だが皇帝自ら政治を行う親政は始まっておらず、水面下では家臣たちの権力闘争が始まっていた。なかでも政局を握る4大臣のひとり鰲拜(アオバイ)は、親政が始まる前に権力を得ようと画策。帝の師・魏承謨が鰲拜の土地横領を糾弾したことで、不穏な空気は激しさを増していく……
アオバイの手先の呉良輔が皇帝の壺など 高価な品物を盗み
アオバイの誕生日贈ろうと思っていたのが発覚し 皇帝は鞭打ちの刑を命じ殺してしまった。アオバイは私が厳しく罰しますというのを先に殺したのだ。棒打ちは30回で死に至らしめるものである。
そこに済世という 学者が  アオバイにつれられて 皇帝の師父となるべくやってきた、皇帝の母 大皇后は済世が先帝順治帝の師でありカク貴妃と仲が悪く 故郷にかえっていたことを知っていた、
奸臣アオバイの手先かも知れないと思っていたが、済世 の皇帝に対する教育は厳しく 皇帝にへつらうことなく 何の恩賞も求めていないことを知って
本物の学者であると知った。皇帝は済世の教育 厳しさに閉口して大皇后に告げ゛口 したのだが 逆に 皇帝を叱責したのである。
皇帝の師父てあることを 学者は望まない、それほど難しく 命さえ失うこともあるのが 皇帝の師父だった。
康熙帝の親政まで道は遠かった。
 
 
 
 

康熙帝 清 4代皇帝

在位期間
1661年2月5日 - 1722年12月20日
 
生年 没年 父 母
順治11年3月18日
1654年5月4日
 
 
順治帝
孝康章皇后
 
 
康熙帝(こうきてい)は、の第4代皇帝
 
太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。その事実は歴代皇帝の中で「聖」の文字を含む廟号がこの康熙帝と、澶淵の盟を締結させた最盛期の皇帝の僅か二人にしか与えられていないことからも窺える
 

即位

順治帝の第3子として生まれ、8歳で即位する。
順治帝の遺命により、スクサハ(蘇克薩哈)、ソニン(索尼)、エビルンオボイ(鰲拜)の重臣4人による合議制だったが、ソニンの死後、オボイが反対派を粛清して専横を振るうようになった。康熙帝は15歳の時に相撲にかこつけてオボイを捕らえて排除、親政を始めた。

三藩の乱

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6f/Young_Kangxi.jpg/180px-Young_Kangxi.jpg
康熙12年(1673年)、三藩の乱が起こった。
の臣であった呉三桂は順治帝に山海関を明け渡して投降し、その後南に逃れた南明永暦帝を殺したことで清から功績大と認められ、皇族でないにも拘らず親王に立てられていた。
この呉三桂を筆頭とした尚可喜耿精忠の三人の藩王はそれぞれ雲南広東福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体を為していた。
 
康熙帝はこの三藩を廃止することを決めた
。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3名だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。
 
予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した
三藩軍は清の軍隊を各地で破り、鄭氏台湾鄭経も呼応し、一時期は長江以南を全て奪われるなど清朝崩壊の危機を迎えた。
群臣は康熙帝に故地満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。呉三桂たちは「満州族を追い出して漢族の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたが、そもそも漢族の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であったので民衆は三藩を支持しなかった。
 
康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで清軍は徐々に優勢になっていき、康熙20年(1681年)に三藩の乱を鎮圧した。その2年後には李光地の意見を採用し、鄭氏政権からの降将施琅を登用して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした

外征

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台湾を収併した年、ピョートル1世率いるロシア帝国が満州族の故地である黒竜江付近に南下してきたのでこの地域の軍事力を強化し、康熙28年(1689年)にネルチンスク条約を結んだ。
 
19世紀になり受け入れさせられた一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものである。
 
中華思想によれば中国は唯一の国家であり、対等な国家の存在を認めず、国境など存在しないという建前だったが、この原則を揺るがす内容であった。
 
これには側近のイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)の助言があったと言われ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けた。
 
ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていた。そのためこの条約をもって、清朝が主権国家体制の枠組みに包含されたとまでは言えない。
 
1670年代ジュンガル部ガルダン・ハーン(噶爾丹)がオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。
 
康熙32年(1693年)、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決、みずから軍勢を率いての戦いを経て康熙35年(1696年)、ガルダンに致命的打撃を与えることに成功、ガルダンは敗走中に死去した(ジョーン・モドの戦い)。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様、内政自主権を行使していたが、これ以後、清の盟旗制に組み込まれることとなる。
 
18世紀には、ダライ・ラマ6世を巡って生じたチベットの内紛で、青海グシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラプタンが同盟を組み、康熙56年(1717年)、ジュンガル軍がチベットに侵攻し、ラサを制圧、チベット=ハンのラサンを殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じて康熙57年(1718年)、チベットに出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた(サルウィン川の戦い)。
 
 
これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主立った者たちを、当初ジュンガルと同盟した者達を含めて北京に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功、康熙59年(1720年)の第二次派遣軍は、「グシ・ハンの打ち立てた法の道」を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍、カンチェンネー父子らゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て戦わずして中央チベットから撤退していった。
 
康熙帝は「グシハンの立てた法の道(ダライラマを擁するチベットのハン)」をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。康熙60年(1721年)には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封せぬまま没し、チベットの戦後統治処理は次代雍正帝の手に委ねられることになる。
 

転載元転載元: 徒然 あさやんの史記と四季

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