100歳の母

母は元気に100歳になりました。

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穏やかな笑顔

私が東京に2日行ったので母に面会に行けなかった。
 
母はまた手に負えないのだろうか。
私は不安な気持ちでホームに向かった。
 
母はみんなと食堂にいた。
 
明るい顔をしていた。
 
「来てくれたの?」
優しい笑顔を見せた。
 
この何年かで見た初めての笑顔。
 
いや、昔からこんな笑顔は見た事が無かった。
 
肌がつやつやとしている。
とても96歳に見えない。
 
本当に母はきれいだと初めて思った。
 
「この頃ご飯がおいしくてね」
母は嬉しそうに報告した。
 
東京に行く前は違った。
ご飯を食べなかった。
 
「もう、死ぬんだよ」
何度も言っていた。
目が空ろだった。
 
そうかもしれないと私自身も思っていた。
 
それは杞憂に終わった。
 
母は本来の食欲を取り返した。
 
こんな状態が続いてくれればいいが。
晴れたり曇ったり、台風が来たりするんだろうな。
 
穏やかな母は好きだ。
 
ただ次兄の名前だけを覚えているのは悔しいが。
 
 
暑い夏が終わろうとしている。
 
私の受験も終わった。
 
ある国家資格の試験を受けた。
必死で勉強した。
何かから逃げたかった。
 
6月からは平均7時間勉強した。
勉強していると何も考えないで済んだ。
 
 
「それで受からなきゃよっぽど馬鹿」
夫に言われた。
 
試験はこんな田舎の県では行われない。
東京まで行くしかない。
 
前日にホテルにチェクイン。
各受験団体の試験問題を必死で解いた。
 
大学受験の時もこんなには頑張らなかった。
 
老いた頭脳。
それでも時間だけはある。
 
人の何倍か頑張ればこの難関資格に合格できるだろうか。
 
胃が痛むほどのストレスだった。
 
試験は2部構成。
午前の部は試験時間が3時間半。
350問の問題を解く。
勉強の成果があってかなり易しかった。
合格を確信した。
 
午後からは違う形式の試験となる。
一科目5問の選択式。
それで3問以上正解でないと以上でないと合格できない。
科目数は8科目。
 
最初は割りと解けた。
それでも賃金の歴史のようなものは勘で解くしかなかった。
 
見直しをして答を書き直した箇所がいくつか有った。
 
試験が終わって答えあわせをすると書き直す前がすべて正解だった。
 
書き直しのせいで1科目が2問正解となり不合格だ。
書き直さなければ良かったと力が抜けた。
 
夫に「本当に馬鹿だ」と言われるだろうな。
 
こうして私の夏は終わる。
 
 
 
 
 
この所、夕食の頃にホームに行く。
薬を飲ませるためだ。
 
いつも重い気持ちで母の居るユニットに向かう。
食事のために食堂に居るだろう。
 
 
ユニットのドアを開けるなり母の大声が聞こえて来た。
母は食事を前にして怒鳴っていた。
 
「おっかぶせて、わったちゃおっかぶせて」
 
目が普通ではなかった。
狂人の目をしていた。
 
母の大声に入所者は怯えた顔をしていた。
職員は知らん顔をしていた。
 
私は申し訳なくて済みませんと言った。
 
「お母さん、それじゃみんながご飯を食べられないよ」
「大声を出したら迷惑だよ」
 
母は私を怒鳴る。
「お前は私が悪いと言ってぺこぺこして!」
 
何を言っても無駄だった。
それでも何とかご飯だけは食べた。
 
怒鳴り続ける母の車椅子を押して部屋に入った。
 
「アイスが有るよ」
私はコンビニで買ったアイスを出した。
 
「いらん」
母はすぐ拒否した。
 
私はテレビをつけた。
この地デジテレビを買うのに私がどんなに奮闘したか母は知らない。
引越しの時はテレビが売っていない状況だったのだ。
 
 
母は脈絡無く話し始める。
目は母に、耳はテレビに向ける。
その内、機嫌が直ったようだ。
 
「アイスは?」
聞くと今度は食べると言う。
 
母にアイスを渡して薬を貰いに行く。
精神安定剤。
 
これを飲んでも安定はしないが。
 
職員には近所の人が居る。
とてもよく話しかけてくれる。
 
詰め所に座っていたので声を掛ける。
 
「母が迷惑をかけますね」
職員にいつもの笑顔は無かった。
 
「お母さんが私がお父さんと寝たって言うんです」
「早く、子供をおろせって見るたびに言われるんですよ」
『太っているからね」
「お母さんは私を嫌いみたい」
 
母は確かに彼女が嫌いだ。
彼女を見ると顔をしかめる。
 
それでもあんまりじゃないか。
まだ未婚なのに。
 
母に薬を飲ませると言った。
 
「お父さんが職員と寝ているなんて言わないでよ」
「お父さんの名誉にかかわるでしょ!」
 
母はまた血相を変えた。
 
「そぎゃん、職員の味方をするなら帰れ!」
大きな声だった。
 
 
認知症なら言う事をはいはいと聞けと言うが。
そうやってどう解決出来るのだろうか。
 
「ここは女郎部屋だ!」
「私の部屋でお父さんと寝てるんだ」
母は狂った目で睨んだ。
 
 
これが自分の母親かと情けない。
 
無教養、わがまま、これが母。
それを知っていて受け入れていても今の状況は辛い。
 
もう、明日はホームへ行くまいと思う。
それでも行ってしまう。
 
「お父さんの名前は何だった?」
ふと母に訊ねた。
 
「耕作だよ」
祖父の名前を口にした。
 
「それはおじいちゃんの名前だよ」
「お父さんの名前は?」
 
母は父の名を思い出せなかった。
 
「子供は何人?」
 
母は私の質問に指を折り始めた。
 
「えーと、次郎に文子に鈴、三重、雪江に」
みんな叔父叔母の名前だった。
 
「それだけ?」
 
母はにっこり笑った。
「正文がいるよ」
 
次兄を忘れないのはさすがだ。
 
「それだけ?」
 
母はうなずいた。
 
私の名を忘れていた。
 
父の名を忘れているのに嫉妬に燃える母は理解できない。
 
 
 
 
 
 
 

嫉妬は醜い

母は暗い部屋にいた。
窓の外を見ていた。
 
嫌な予感がした。
 
「どうしたの?」
声を掛けると振り向いた。
 
「どうも、こうも」
母は泣いていた。
 
「ここの女達がお父さんと寝たんだ」
何を言うかと思うとそんな妄想。
 
「私怒鳴ったんだ」
「そんな事をしたらあそこを切っちゃうぞって」
「そしたら慌てて出て行ったよ」
 
母は何て品が無いのだろう。
父の実家に馬鹿にされても仕方ないのかもしれない。
 
姉や兄が母を嫌ったのもそれが原因の一つでもあった。
 
「お父さんは102歳だよ」
「若い時も真面目なのに今更女遊びなんて」
私は情けない気持ちを押し殺して答えた。
 
「だって、布団のしわを伸ばしてお父さんと寝る準備をしていたんだよ」
 
ベッドメイキングを前のホームではしてくれなかった。
だから母はそんな風に思ったのだろうか。
 
「お父さんに貰ったって物を見せたもの!」
母はあくまでも父が職員と寝たと言い張る。
 
お父さんを思い続けて素敵ね。
そう言う人がいる。
 
そうであっても嫉妬に燃える母は醜い。
思い違いで暴言を吐かれる職員にも申し訳ない。
それも汚い言葉で。
 
 
夕食の時間に母を食堂に連れて行った。
 
「女に毒を盛られる」
母は嫌がったが。
 
10人の入所者はみんな大人しい。
 
けどみんな良い顔をしている。
 
どうしたの?と言う顔で私達を見る。
 
どうして母はこんな風に穏やかな気持ちになれないのだろう?
 
いつも不平不満ばかり。
そして他人への攻撃。
 
「死にたいけど死ぬのはまだ早い」と泣いている。
 
死にたいのはこっちだと言いたくなった。
 
 
 
 
 

夫婦の絆って

母は毎日父と会っていると言う。
だから精神的に落ち着いている。
 
「ここに居るのよ」
いつも天井を母は指差す。
 
夫婦は2世と言う。
母は生まれ変わったらまた父と結婚するのだろうか?
 
 
夫婦で入所している人もいる。
 
二人は夫婦である事を忘れている。
 
お互い話もしない。
無関心に食事をしていた。
 
子供は辛いだろうなと思う。
 
 
死んだ人を生き返ったと思う母の方まだ幸せだ。
 
 
 

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