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ホームに行くと相談員が出て来た。
「あのう」
語尾を上げてためらった口調で話しかけてくる。
又、何かしでかしたかしらと胸は早鐘を打つ。
「お母さんが水を飲まないんです」
「かなり、危険なレベルぐらい飲まないんです」
このホームも節電のため冷房はほとんど入っていない。
これで水を飲まなければ熱中症になるだろう。
「母は水を飲むとご飯が食べられないと言うんですよ」
私は答えた。
「そうなんですよ」
「そう言ってお茶も飲まないんです」
母がお茶も飲まない理由は別にある。
それは水分で満腹にさせてご飯の量を少なくさせる魂胆だと思っている。
「母によく言っておきます」
私は当てにならない約束をした。
「お母さん、お茶を飲まないといけないよ」
無駄とは思いながら言う。
「誰がそんな事を言った!」
思った通り母は声を荒げた。
「誰って、お医者さんだよ」
「暑いときは水分を取らないと具合が悪くなるよ」
私は母が職員に八つ当たりをするのを防ぐためにそう答えた。
「ふん、ぼんくらのカスが」
母は顔を歪めた。
言っても無駄だ。
「昨日、百合おばさんから電話が有ったよ」
母の顔を見ないで話を変えた。
本当は従姉からの電話だが。
「百合叔母さんは覚えている?」
百合叔母は母の末の妹。
90歳になった。
「百合、百合」
母は何度かつぶやいた。
そしてにっこり笑った。
「百合だね」
「叔母さんと言うから分からないんだよ」
母の中では90歳の叔母は可愛い妹なのだろう。
「叔母さんが会いに来たいそうだよ」
「もう、二人になったからお母さんと会いたいって」
叔母は今は要支援。
動ける内に母に会いたいという。
「何を言うの!」
「久子も元気だよ!」
久子は母のすぐ下の妹。
「久子叔母さんは3年前に亡くなったよ」
「お香典を送ったでしょう」
母は馬鹿にした笑いを口元に浮かべた。
「釣り、釣り」
母は右の人差し指を前に出して上下させた。
「そんな風にあんたが言うから信じていたら久子は生きていた」
「いや、一度は死んだらしいけど生返った」
「この前米を持って会いに来たもの」
私は聞いた。
「その米は何処にあるの?」
母はちょっと戸惑ったがすぐ答えた。
「あの子貧乏だから持って帰らせたよ」
父、長兄、叔母。
母は3人が生きていると信じている。
母はいつも父や長兄がああ言った、こう言ったと話す。
ふと私は思い出した。
久子叔母もこうだったと。
いつも先に死んだ叔父に女がいると嫉妬していた。
家に居ないのは女の家にいるからだと思っていた。
姉妹だからやはり症状は同じなのだろうか?
私もこんな風になるのだろうか?
友達にこの話をしたらこう答えた。
「それはお母さんがこの世とあの世との中間に居るからだよ」と。
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母との日々
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母が色々言うのが嫌だから。
「わあ、きれいになったね」
「あんな顔でどうなるのかと思ったよ」
母は言った。
そして続けた。
「どうなるかと思うぐらいに顔が腫れていたのに」
「顔はかさぶただらけ、吹き出物だらけ。膿も持っている」
「顔はすいかみたいに大きかったからね」
「腫れて目が無くてどこに有るか分からなかったよ」
私は母が誰の話をしているのかと思った。
「誰が?」
聞くと母は大きな声で答えた。
「あんた!」
母は私をそんなに醜いと思っているのか?
私は別に顔は腫れてはいない。
若い頃に比べると肉が垂れた分だけ顔が大きくなったかも知れない。
「暑いから帽子を脱いだら?」
母は何度も言ったが帽子は取らなかった。
帽子に押しつぶされている髪の毛を見ると又何を言われるか分からないから。
母はもうすぐ97歳。
それでも自分の美貌に自信が有る。
母は姉をブスだといつも馬鹿にしていた。
あの頃の姉の悲しさが少し分かる気がする。
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この頃、母の所には週に2回ほど行っている。
「えらく変わったね」
娘は笑う。
この頃は母と会うのが辛い。
いつも次兄の話ばかり。
母にとって私は何なのだろう。
母はいつも私の服装をチェックする。
普段着で行くと「お金が無いの?」と聞かれる。
いい服を着て行くと触って生地を確かめる。
そんな時は母は羨ましそうな顔をしている。
私の腕を触る。
「意外に柔らかいね」
豚の肉でも触ったように感想を述べる。
私の動作を見て言う。
「首に皺が有るよ」
「腹に肉が有るね」
「私の腹はこんなにすっきり」
今日はズボンをめくって足を見せた。
「私の足はこんなに細いよ」
足には青い血管が浮き出ている。
母は私より足が細いのが自慢。
高校の頃ふくらはぎを測った。
私のふくらはぎは母より1センチ太かった。
母は親戚中に電話した。
「明子は私より足が太いんだよ」と。
わざわざ親戚に知らせる事じゃないと母に抗議した。
「子が親を超えたら嬉しいから電話したんだよ」
母は悪びれなかった。
あれはやっぱり私に勝ったと母が思って電話したんだと確信した。
母は自分は美しい。
スタイルがいいと今も思っている。
昔より身長が10センチも少なくなったのに。
母はいつも私を値踏みするような目で見る。
今日は何を言われるのだろう。
そう思いながら車を走らせる。
私が娘だと忘れた母には私はライバルなのだろうか?
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前に同じ母と同じホームにいた人の娘からメールが有った。
今までショートステイを繰り返してきたが、特養への入所が決まったという。
実際はショートステイ同じ施設。
部屋が変わっただけだが、もう介護認定を気にしなくていい。
良かったね。
職員は今度はまし?
メールをした。
同じだよ。
諦めている。
そう、返事が来た。
思い出してもひどい施設だった。
何より職員の質が悪い。
入所者に罵声を浴びせる。
「あんたの言うことばっかり聞いていらっると思うの!」
怒鳴り声は玄関まで聞こえた。
呆れた私はその職員の顔をまじまじと見た。
すると怒鳴るのを止めた。
メールを呉れた人の母親は足にいつも青いあざが有った。
「叩くらしいのよ」
彼女はそう言っていた。
それでもその施設を移らなかった。
私のように施設を変わった方が良かったのかは分からない。
母の認知は今の施設に移ったから起きたとも思える。
今の施設は職員がいい。
理事長はいつも職員に目を配っている。
母はここでは職員とはトラブルを起こしていないようだ。
起こしていたとしても職員はいちいち私に文句は言わない。
前の施設に母が居た頃の頃だ。
「沢山バッグを持っているんですね」
ある職員に声を掛けられた。
「使わないバッグが有るからもし使うなら上げるよ」
彼女はバッグを見つめていた。
欲しいのだ。
「わー楽しみ」
彼女はやはり即座に回答した。
次の日に行くと母は聞いた。
「バッグ持って来た?」
「あの人が何度も見に来たんだよ」
そんなあからさまに欲しがっていいのだろうかと思った。
その日は持って行かなかった。
次の日にサボイとキタムラのバッグを持って行った。
彼女はすぐ部屋に来て喜んで持って帰った。
それからしばらくした頃彼女はまたおねだりをした。
「友達の結婚式が有るの」
「娘さんの服を貸してもらえないかしら」
30過ぎらしい職員は結婚式に着る服も無いらしい。
「娘は7号だから、私の発表会の服を探してみるね」
何と図々しいと思いながら返事した。
着ないドレスが何着か有ったのでそれを渡した。
「派手だから、上げるわ」
そう言うと喜んでいた。
彼女を図々しいと思いながらバッグや服を上げるのは母のためだった。
それでも母とこの職員は段々と仲が悪くなった。
あまりに一時期母と仲が良く母は色々不満を言ったのが気に障ったらしい。
「こんなばあさん見たこと無い」
「どうしようもないから睡眠薬を飲ませますよ」
「そうでなければ精神病院に連れて行って下さい」
彼女は憎々しげに母を罵った。
姉と同じだった。
母は今が認知症でも今の方が心安らかだと思う。
母の部屋に行くたびに思う。
8畳にトイレ付き。
姉の所に居た時の2倍の広さ。
誰も馬鹿にはしない。
「私は神だ」
「スオウ神だ」
昨日は母は自分の事をそう言っていた。
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「あんたは私の子供なんだってね。職員が言っていたよ」
母はさらりと言う。
「そうだよ」
私は平静に答える。
「姉さんだと思っていたよ」
「あんたは職員と話をしないって言っていたよ」
本当の話かどうかは分からない。
それでもそうなのと答える。
「私は身分が高いんだよ」
「とても、巳代治は私と結婚出来るような身分じゃなかった」
母はこの頃はこの話だ。
母の結婚へのコンプレックスは父との身分の違いだった。
それが今実際は自分が由緒正しい家の出だという妄想を生んでいる。
父方はかなり裕福な家だった。
いつも母を見下げていた。
「あんたは身分が低いから何も似合わない」
母にそう言った叔母の言葉をはっきり私は覚えている。
「私の親は大久保彦左衛門だよ」
母は平気な顔で言う。
大久保彦左衛門は何百年も前に生きた人なのに。
あんなに好きだった祖父を忘れている。
私は幼子のように確認する。
「マー坊って知っている」
母は笑顔になる。
「マー坊、会いたいね」
この部分だけは母の記憶がはっきりしている。
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