100歳の母

母は元気に100歳になりました。

母との日々

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痛む肘と心

母は相変わらず知らない人の話をする。
 
今日も何とかばあさんの話をする。
出てくる人すべてが知らない人。
 
「知ってるだろうが」
母はそう言いながら一方的に話す。
 
私はふと聞いてみる。
 
「私が分かる?」
 
母は困った顔をした。
 
「あんたねー」
ちょっと考えてから答えた。
 
「妹って言わなきゃいけないかね」
「私の心の中では母親だけど」
 
母の中では私は妹か母親。
 
介護の職員とは思っていないのが救いだ。
 
母は話を続ける。
「マー坊がね」
 
次兄の話をしない日はない。
 
「マー坊好きね」
皮肉が口を突く。
 
母は感じない。
「子供が4人居るのよ」
話を続ける。
 
次兄は母の中では息子なのだろうか?
弟なのだろうか?
 
 
母はこの頃性格が穏やかになった。
怒鳴る事も無くなった。
 
不注意で肘を骨折。
入院した半月あまりの日々。
 
その間に母は私をすっかり忘れてしまった。
 
肘は今も少しは痛むが、心はもっと痛い。
 

母と子と

「あんた、子供いるの?」
母は聞く。
 
「いるよ。二人」
私は答える。
 
「一緒に住んでいるの?」
母は又聞く。
 
「東京で暮らしているよ」
私は淡々と答える。
 
「それが、よかね」
「子供はやぐらしか」
 
やぐらしいとはうるさいと言う意味。
母にとって私はうるさかったんだ。
 
「でも子供はいいよ」
「話し相手になってくれる」
私は寂しくなってちょっと抵抗した。
 
 

母の心に生きるもの

母を散歩に連れて行った。
キャッチボールをしている男の子がいた。
 
「マー坊だ」
母は大声を上げた。
 
そして言った。
 
「マーボは顔は見せないけど毎日会いに来るんだよ」
「私が心配なんだ」
 
私は答えなかった。
 
父が死んで6年。
次兄は母に何をしただろう。
 
私は無駄に6年を過ごしたのではないだろうか?
もっと自分の今の家族と向き合うべきだったのではないかと思う。
 
 
母が島で過ごした1年間、毎日電話をした。
 
「お母さんはあなたの電話をうるさいと言っているよ」
近所の人が帰島の際に教えてくれた。
 
母はうるさいと近所に聞こえるくらいの大声で電話を取るのだ。
それは教えられなくても知っていた。
 
「ああ、うるさいね」
電話にでるなり、そう言って電話をすぐ切る事も有ったから。
 
 
「マー坊かい?」
電話をすればよくそう聞かれた。
 
「何だ、お前か」
言われた事も有った。
 
 
次兄の気持ちは分からない。
あれだけ母を非難していて母に会いに来る。
 
母が元気か。
どうしているのか私に聞く事もない。
 
それなのに母の居る病院やホームを探し出す。
 
先日母方の従姉から電話が有った。
次兄に電話して母の居場所を聞いたと言う。
「雅兄さんさんすごく怒ったのよ。怒鳴られたのよ」
『お袋が生きているか死んでいるかいっさい知らないね』
『俺には関係ないよ』って言ったよ」
 
従姉は父の葬儀の際に交わした電話番号を頼りに電話してきた。
 
 
次兄は母に会いに行ったばかりなのに生死すら知らないと言う。
怒鳴ったのは従姉が自分より年下だからだろう。
 
 
母もお墓も次兄は断った。
それでも私は手を引いた方が良かったのかも知れない。
 
そうすれば母の幸せは手に入ったかも知れない。
 
母の幸せは母しか分からない。
 
次兄の近くで暮らすことが母の幸せだったのかも知れない。
 
 
母は生きている人の話は次兄しかしない。
 
後はみんな死んだ人の話。
 
隣に住んでいた何とかばあさんとか。
同級生の春吉さんとか。
 
母の心に生きるのはいつも次兄。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

母に忘れられて

「私の末の子は誰だろう?」
「久美だったかね?」
母は聞く。
 
「久美はお母さんの妹だよ」
母が何を聞きたのだろう。
 
「私の子供の末っ子だよ」
母は遠慮がちに聞く。
覚えていないのが、ちょっと引け目らしい。
 
「私が末っ子だよ」
答えると母は私の顔をまじまじと見た。
 
「あんたが私の子?」
納得がいかないと言う顔をした。
 
「マー坊がね」
すぐに次兄の話に移った。
 
「気象庁に勤めたんだよ」
「これで安心だ」
 
「あの子はきれいな顔をしているね」
「元の顔は汚いけど」
 
誰がどう見ても長兄の方がハンサムなのに。
 
どうして私は忘れられたのだろう。
嫌いな子は忘れるのか?
 
「美代子は知っている?」
私は姉の名を言った。
 
「あああれ」
母は不快な顔をした。
明らかに姉を覚えている。
姉のした事を忘れてはいない。
 
母は姉は覚えていても私を子供だと忘れてしまった。
好き嫌いで忘れる訳でもないようだ。
 
母は今まで私を「お前」と呼んでいたのに今は「あんた」と呼ぶ。
 
「お金を下ろして来て」
母は突然言う。
 
「何に使うの?」
私は戸惑う。
 
「マー坊に背広を買うよ」
 
また次兄だ。
いつも次兄の事を思っているから忘れないのだろう。
 
母には私がどんな関係に思えているのだろう?
時々は自分の妹だと思ったりするようだが。
それでも子供だと思うことは無い。
 
「お袋は俺の事を兄さんって呼ぶんだ」
勤めていた頃、そんな風に母親を怒っていた同僚がいた。
 
だからそれは普通だと思いたい。
でも忘れるなら兄姉も忘れると良いのにと思う。
 
自分だけが忘れられてしまった。
 

心の氷河は溶けるか?

「元が来たよ」
母は笑顔で言う。
 
「お兄さんは10年前に死んだよ」
「まー兄さんじゃないの?」
私は長兄の死に顔を思い出す。
 
「元は死んでいなかったんだよ」
母は続ける。
 
「あの子は死んだフリをしていただけなんだって」
「ずるい子だったからね」
「大きな目を私を見たよ」
 
ずるいなんて、長兄が可哀相になった。
 
そして大きな目の長兄を思い出した。
 
長兄は癌で死んだ。
享年63歳だった。
 
長兄は離婚をしたいと父に許しを貰いに来た。
父は許さなかった。
老後を見てもらう条件で長兄に家を買う資金を渡していた。
それを兄嫁に渡すと長兄が言ったためだろう。
 
あの時に父が離婚を認めれば今の不幸は無かった。
長兄は父には逆らえなかった。
 
酒に走った。
長兄の妻は子供が家を出ると食事も作らなかった。
酒とタバコが兄の寿命を縮めた。
食道がんだった。
 
私が大学に行けたのも長兄のお陰だ。
長兄は自分の家から大学に行けばいいと言った。
学費も半分は出すと言って両親を説得した。
私が頼んだ訳では無かったが。
 
長兄は広い公務員住宅に住んでいた。
それならと両親は大学に行くのを許してくれた。
 
でも長兄は私と一緒には住まなかった。
学費も1円も出さなかった。
兄嫁が許さなかったからだろう。
 
こんな風だからずるいと言われる。
 
長兄は死ぬ何日か前には聞いたと言う。
 
「明子は何処に行った?今声がしたけど」と。
 
思い返せば優しい兄だった。
 
「明子ちゃんは私の宝」
姉は私が幼い頃よく言っていた。
 
幼い私がブランコを漕ぐ私を見る姉の優しいまなざしの写真。
 
この頃は昔の姉しか思い出さない。
 
 
母の言葉は私に忘れていた昔の兄姉の記憶を思い出させてくれた。
 
暖かい太陽が氷河を溶かす日が来るかも知れない。
 
それでも次兄には何のいい思い出もない。
子供の頃、小指をバットで叩いて骨折させられた。
大人になって新宿の雑踏で殴った。
顔は紫色に腫れた。
 
「あいつはもうすぐ死ぬよ」
次兄は今親戚中にいいふらしている。
 
私は体型や顔が長兄に似ている。
癌体質だと思われている。
だからもう死ぬと次兄に期待されている。
 
次兄は自分が年上と言うだけで威張っている。
偉いと思っている。
 
「お袋はお前が好きだからお前が見ろよ」
そんな風に命令もした。
 
 
次兄との壁は死んでも埋まらない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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