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母を見ていると自分はどんな風にボケるのだろうと思う。
「ねえ、あんた誰だったけ?」
今日も聞く。
そう言いながら私に聞く。
「家は買ったの?」
「家?誰の家?」
私は戸惑う。
「私と婿さんの家」
「買うって言ったじゃない」
母はまた結婚を言い出した。
「こんな風に肩がいかってる」
母は両肩をオドリーの春日みたいに広げた。
「あんな男は嫌い」
母は涙を落とした。
「さっき三重がね。男に連れて行かれたの」
母は自分の死んだ姉の話をした。
「もう間に合わないよね」
「捜して来てよ」
母は自分の姉の名を覚えている。
そして名前を忘れた娘に頼みごとをする。
母は次兄の名も覚えている。
「将広」と書いて有る洗面器を見て言った。
「マー坊が持って来たんだ」
次兄は「雅広」字が違う。
それでもよくあの字が読めたなあと感心した。
ボケるのと漢字が読めるのは別の脳なのだろうか?
名前を忘れられた娘は母を冷静に見られるようになった。
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母との日々
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母は相変わらずだ。
この頃は部屋に閉じこもっている。
「ここの職員はね」
顔を見ると文句を言う。
「私が便所掃除をしていると汚い声で怒鳴ったんだよ」
『便所掃除をして何が悪い!』
「私は怒鳴り返したよ」
「すると私の声に驚いてみんな飛んで来たよ」
「みんな真っ青。ああ気持ち良かった」
母は満足気だ。
この施設ではトイレは各部屋に付いている。
トイレでの転倒が危惧される。
その為にトイレの取っ手には鈴が付いている。
鈴が鳴れば職員が飛んで来る。
多分母はそこで職員の言葉を聞き違いをしたのだろうか。
「もうここの仕事は辞めたいよ」
母はここで働いていると思っている。
「どこに行っても同じだよ」
6年も同じ愚痴を聞かされている私は答える。
「あんな小娘に馬鹿にされてお前は我慢しろと言うのか!」
母は狂った様に叫ぶ。
どこに行っても母は満足しない。
ここの施設以上の施設が有るとは思えない。
「そこにも便所がある」
母はトイレとは反対の方を指差した。
「便所はこっちだよ」
私は驚いてトイレを指差した。
「そこにも有るけど、こっちにもある」
「さっきおばあさんが座って見てた」
母は言い張る。
私は母の車椅子を押して壁の前に立った。
「ほらトイレは無いでしょう?」
私が言っても母は納得しない。
「ここを切れば中に便所は有るよ」
面倒くさくなって私は言った。
「そうだね」
その言葉を聞くと母は笑顔になった。
「私は勝った。お前の負けだ」
母の言葉に愕然とした。
「それでもこっちのトイレを使うのよ」
私は本来のトイレを指差した。
もしかしたらトイレを間違えたのかと思ったから。
「帰れ!」
そう言って窓の外を見ていた。
「じゃ帰るね」
言ったが母は答えなかった。
窓の外には雪が舞っていた。
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母は相変わらずだ。
私を見ると「さあ行こうよ」と言う。
「これは捨てるよ」
「壊れた。もう、ねじが巻けない」
手には目覚まし時計がある。
「要らないの?」
聞くと答える。
「もう動かないもの」
時計の針は正確に動いている。
「時計は電池で動いているんだよ」
「巻かなくても大丈夫。まだ電池は有るよ」
母は時計はねじで巻くものだと今までも思って来たのだろうか?
私が若い頃両親にペアウオッチをあげた。
数万した。
何年もしない内に時計はびわの木にぶら下がっていた。
からす避けのためだ。
「だって、動かなくなったもの」
母は平然と言った。
「電池を換えれば何年でも使えたのに」
私は未練がましく言った。
「そんな事知らないもの」
母は微塵も悪びれなかった。
「今日はどこに泊まろうか?」
母は又聞く。
職員が介護認定の件で話が有ると部屋に入って来た。
私は外でしばらく話して部屋に戻った
母は洋服ダンスから服の入った袋をすべて出していた。
「さあ、行こう」
「これは後で送って貰おう」
「とりあえずこれ。お前はあっちを持ちなさい」
母はベッドを指差した。
「腕が痛いからベッドは持てないよ」
答えると母は落胆したようだった。
それでもいちごを渡すと笑顔になった。
5粒ほど残した。
「マー坊に取っておくのよ」
母はマー坊の事しか考えない。
「寂しか、寂しか」
顔を見れば母は言う。
私も寂しい。
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右腕の動きがまだ十分ではない。
片手で車椅子を押す。
「動かないの?」
母は聞く。
うなづくと母は言う。
「マー坊に揉んでもらうといいよ」
「マー坊は偉いね。マッサージの試験に受かったんだって」
母は次兄が来てからはいつも同じ事を言う。
本当なのかどうかは分からない。
次兄は努力という言葉が一番似合わない男だ。
運転免許すら持っていない。
「お兄さんはお母さんを揉んでくれたの?」
母は首を振った。
「あれは金にならないことはしないよ」
母は冷静に次兄を見ているのだと感心した。
「あれは気象予報士だったけど気が利かないから首になったよ」
母の妄想は始まる。
「茶碗を洗ったりしなきゃいけないのにしないから」
「仕方ないよ」
母は大きな声ではっきりと言った。
「私はマー坊の上役にはっきり言ったね」
『私は息子に洗い物をするようには育てていません』って」
もちろん、妄想だが怒りが噴火していた。
母は父が洗い物をしないと嘆いたことなど忘れている。
「歌子は世界で一番幸せ者」
「マー坊みたいないい男と結婚して」
「あんないい男はいないよ」
母の口癖だった。
そうかも知れない。
次兄は嫁の言いなりだ。
嫁は幸せだろう。
嫁の母親を福岡から引き取って暮らしていたと言う。
今は認知症が進んで近くの施設にいるらしいが。
もっとも次兄は裁判で述べた。
「今の自分があるのは妻の両親のお陰です」
「自分の親の世話にはなっていません」
次兄は母を本当はどう思っているのだろう?
私はもう次兄に張り合う気はない。
寂しいけれどさっぱりした気分だ。
母にかかわって6年以上。
今までの時間は苦しかった。
これからは笑顔を多くしていきたい。
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「マー坊は結婚しているの?」
母は聞く。
「してるよ」
私の返事を聞いて母は大きなため息をつく。
そして言う。
「やっぱりね。そうだったんだね」
この前次兄夫婦が来たのに嫁の事は忘れている。
「がっかりしたの?よっぽどマー坊が好きなのね」
私は皮肉を言う。
「末っ子だもの。可愛いよ!」
母は次兄を好きでたまらないらしい。
「私が末っ子よ」
忘れられた私は言わないではいられない。
母は怪訝そうな顔をして私の顔を覗き込んだ。
「あんなひどい目に遭わされても兄さんが好きなのね」
私は呆れてしまった。
「もう、マー坊がした事は忘れた」
「あの子が可愛いもの」
母はすらすらと口にした。
「ばあさんを頼む」
「お墓を建ててくれ」
父は死ぬ間際に次兄に頼んだ。
次兄は返事しなかった。
布団をかぶって泣いていた父の姿を今も思い出す。
次兄が母を引き取り、墓を建てれば何事もうまく運んだ。
結局私は次兄にはかなわない。
自分が母を何故見てきたか。
それは私が母に愛されたかったから。
でもそれは無駄な努力だった。
結婚してからも母は次兄への配慮が足りないといつも怒っていた。
それは次兄が嘘の報告をするからだけど。
今はもういいやと言う気持ち。
母が次兄を思って幸せならそれでいい。
「マー坊と暮らしたいの?」
聞くと母は大きくうなずいた。
「それが、よかよか」
笑顔だった。
母名義のお金もかなり有る。
次兄と暮らすのが母には幸せだろう。
私は母への愛が醒めてしまった。
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