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ホームに行くと母は入浴中だった。
私は母の乱雑に脱ぎ散らかされた服を片付けた。
母の誕生日に贈ったフリーザフラワーはゴミ箱に捨ててある。
替わりに次兄が持って来たベゴニアがテーブルの上に飾ってある。
手術の前の日に母に会いに行った。
夫に運転してもらい痛み止めを注射して出かけた。
「骨折したからしばらく行けないよ」
母に伝えるためにだ。
「見せて!」
骨折したと伝えると母はねだった。
袖をまくって紫色に腫れた腕を見せた。
「たいした事無いね」
母はつまらなさそうに言った。
「昨日、お坊ちゃまが来てね。お母様にと花を呉れたの」
その方が大事と言わんばかりの笑顔で話した。
母にとって私の傷の心配よりもよりも次兄の来訪がウェートが有る。
馬鹿な自分に腹が立った。
そんな事を思い出していると母が部屋に戻って来た。
私は持って来たみかんを母に渡した。
母は食べながら言った。
「ねえ、知ってる?明子は死んだんだよ」
何を言うのだろうと私は笑いながら答える。
「明子は死んでいないよ」
「ここにいる」
私は自分を指差した。
「でも、死んでいると聞いたもの」
母は言い張る。
「じゃ私は誰?」
聞くと母は自信無い顔で答える。
「えーと、明子だったかね」
「死んだって聞いたけど」
「葬式で骨が風呂敷きに包んであったけどね」
母は納得しない顔で答える。
もう母は自分の子供も分からないのだろうか。
認知症だから仕方が無い事だ。
そう思った。
おやつの時間を潮に帰ろうとした。
「じゃ、また来るね」
私は母をおやつの場所であるホールに連れて行った。
車椅子のブレーキをかけた。
「マー坊の所に行こうよ」
母は車椅子で追いかけて来た。
笑顔だった。
次兄の事は忘れていない。
「行かないよ。忙しいから」
私は愛想無しに答えた。
そんなマー坊がいいならマー坊の所へ行け!と心の中で叫んだ。
母を人殺しと言いふらした次兄。
「俺はお袋が嫌いだからね」
言い放った次兄。
それでも母は次兄がいとおしい。
母の記憶は取捨選択している。
次兄の記憶は母に決して忘れられない。
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母との日々
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「お墓は空だよ」
「お父さんは男部屋に居るから」
母はまたそんな事を言う。
「この下の階に居るんだ」
「でも何故か私を避けているんだよ」
「お墓はそれだから、要らないよ」
「お前連れてっておくれ」
「帽子をかぶって顔を分からなくしてさ」
母は持って行った柿も食べずにしゃべり続ける。
「どこに行くの?」
聞くと答える。
「この戸を開けるとさ」
母は説明を始める。
「右に行くと2つに分かれる道が有ってさ」
「そこを右側の石沿いに歩いて階段が有るから階段を登る」
「すると家が有るから、裏口の道を探すの」
「そしたらこうなった道が有るの」
母は指を交差させる。
「そこを行くと家があるから」
「そこの地下にお父さんは居るよ」
今さっき、自分の部屋の下にいると言ったのを母は忘れている。
机の上が散らばっている。
黒い紙くずが沢山ある。
何だろう。
私は紙くずを持ち上げた。
それは古い写真。
「もう要らんから捨てて!」
母は事も無げに言う。
この写真の貼って有ったアルバムは母が破いた。
その時にほとんどの写真も母は小さく切って捨てた。
残っていた写真は祖父母や父の若い頃の写真。
そして家族6人の集合写真だけ。
どんな思いで母は写真を破いたのだろう。
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母は食堂にいた。
何故かテーブルが斜めになっていた。
母は斜めのテーブルで震えていた。
「どうしたの?」
母の普通では無い様子に胸騒ぎがする。
「どうも、こうも。みんなで」
興奮のあまり何を言っているのか聞き取れない。
「ネズミとりがおったんだよ」
「いくら、言ってもみんな知らん振りだ」
ネズミとりって何だろう?
今日はホームの様子が違う。
この斜めのテーブル。
廊下を歩く黒い服の家族らしき人。
それに職員も見慣れない顔。
母の方を見ようともしない。
「ベッドの下からこんな風に鎌首を持ち上げて見てたんだよ」
「どんなに怖かったが分かる?」
母は手の平を水平にした。
「蛇の事?」
「そうネズミ捕りたい」
母は憮然と答える。
「これを食べようよ」
私は持って行ったバームクーヘンを皿に入れた。
「食べん」
母は攻撃的な目を向けた。
私は他の入所者に渡してくれるように職員に頼んだ。
いつもは10人居る入所者が3人しかいない。
「今日は皆さんお出かけですか?」
職員に聞いてもあいまいな笑いを浮かべるだけ。
それでも母はあっと言う間に食べ終わった。
「おいしいですね。いつもありがとうございます」
「甘すぎないでおいしいわ」
お礼を言たのは96歳のおばあさん。
家族は全く来ないが頭ははっきりしている。
冬の寝巻きを買ったので母に見せるために部屋に行った。
「布団をめくってよ」
「ネズミ捕りを捜さんば」
母は寝巻きも見ないで言う。
「もう蛇は居ないよ。寒いから」
私は小さな子供をあやすように言う。
「おらんと言うのか!」
「私が嘘を言ってるっていうのか!」
母は激昂した。
「私はネズミ捕りと目が合ったんだ」
「どんな怖いかお前に分かるか!」
この元気があるから母は健康で居られるのだろう。
「おやつの時間に職員が捕まえて山に捨てに言ったって」
どうすればいいか分からないので適当な返事をする。
「そがんとは嘘!」
母の声は上ずり、涙がこぼれている。
どうすればいいのだろう。
思案に暮れた。
母の補聴器を見た。
目盛りが1だった。
母は4でないと聞こえない。
何だかいつもの雰囲気と違うホーム。
聞こえなくて不安だっただろう。
「名前を書くね」
私は3組の寝巻きを母に見せた。
「みんないいね」
母はやっと落ち着いた顔をした。
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父の7回忌を終えた。
やっとここまで来た。
父の亡くなったのは平成17年。
お墓を建てたのは平成20年。
3年もの間姉は父の骨を母に渡さなかった。
父の骨はその間、お寺に預けられていた。
牛の糞尿の匂いにまみれたお寺だった。
父の骨が返って来てから私がお墓を建てた。
納骨の時に埋葬許可証が入っていなかった。
姉か兄かが最後の嫌がらせをした。
7回忌には母は出席しなかった。
現実と空想の世界に生きる母。
法要で又混乱を招くといけない。
明日で母は96歳。
そして日曜日は父の命日。
6年前の長い一日と同じ曜日だ。
辛かった過去は忘れようと思う。
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この所母は穏やかだった。
私はこの平安が長く続くのだろうと思っていた。
「着物を着るんだって」
母は私を見るとすぐ口を開いた。
又、結婚式の話だ。
「どうして?」
それでもとぼけて聞く。
「祝言を挙げるんだって」
「着物じゃないと駄目だって」
私はうんざりする。
「誰と結婚するの?」
聞くと母は答える。
「私が結婚するの」
母は何度聞いても同じ答だ。
「本当は結婚したくないの」
母は涙ぐむ。
「それでも、都会では一人では生きてはいけない」
「私はこれ以上の生活がしたい」
これ以上って母は何を求めるのだろう?
「お母さんが結婚したいならすればいいよ」
私はイライラを隠して答える。
「でも、結婚すればお父さんの年金は打ち切りだよ」
母はそんな話を聞いても平気だ。
「私は天然ガスを見つけたのよ」
「それが1億円の権利なの」
この前は父に貰った1億円だったけど。
「どこで見つけたの?」
母は私の質問に説明を始める。
「島の馬込の豆腐屋の上の坂道に松の木が有っただろう」
「あそこから、天然ガスが噴出していたんだよ」
「松の葉1本入らないきれいな石油だと豆腐屋さんが言ってたよ」
まるで本当のように話す。
「あの1億円が有れば相手も私を大事にするよ」
「お前、あのお金を持って来てよ」
母は1億円を私に預けていると言う。
「郵便局の通帳も判子もお前に預けているよ」
母にほとほとうんざりする。
「郵便局は1千万しか預からないよ」
「通帳も判子も預かっていない」
私は無駄な反論をする。
「じゃ、お金はどうしたの?」
母の追及は続く。
「今度お前の家に行くよ」
母は家捜しをするらしい。
「お前はお父さんと言うと怒るけど」
母は突然言い始める。
「私はお父さんを忘れられないよ」
私は聞く。
「じゃ、お父さんと結婚するの?」
「違う、お父さんの金(きん)を守っている人」
「私が結婚しないとお父さんの金が取られるから」
私はもう帰りたくなった。
「お客さんが来るから帰るわ」
ハンドバッグを持って立った。
「帰らないで!」
母は涙ぐんだ。
「何故、そんなに結婚に反対なの」
どう答えれば母は満足なのか。
「お母さんが結婚したいならそうすればいいよ」
マスコミが騒ぐと小さな声で毒づいた。
「そんな、お父さんと言うとお前は怒るけど」
母は又言った。
何故そんな風に言うのか分からない。
父は死んだと言うから愛が無い子だと思うのだろうか。
「おやつですよ」
職員が入って来た。
それを潮に私は部屋を出た。
母は又私を鬼だと言っているだろう。
明日は父の7回忌。
これまでは私にも苦難の日々だった。
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