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母は毎日父と会っていると言う。
だから精神的に落ち着いている。
「ここに居るのよ」
いつも天井を母は指差す。
夫婦は2世と言う。
母は生まれ変わったらまた父と結婚するのだろうか?
夫婦で入所している人もいる。
二人は夫婦である事を忘れている。
お互い話もしない。
無関心に食事をしていた。
子供は辛いだろうなと思う。
死んだ人を生き返ったと思う母の方まだ幸せだ。
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母との日々
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「男の人がね私の顔を見て美人だなと言うのよ」
「わざわざ振り返ってみたのよ」
母の妄想がまた始まる。
母はいつも自分が美人だと言う。
それが私はたまらなく嫌だ。
大きな目。
白系ロシアの白い肌。
それでも飛びぬけて美人だとは思えない。
子供の頃映画のポスターを見て私は言った。
里見八犬伝のポスターだった気がする。
「何てきれいな人なんだろう」
私は息をのんだ
それは多分、若尾文子だった。
「私は化粧をすればあれぐらいには綺麗だ」
母は私の言葉に怒った。
4年生の頃、母の絵を描いた。
額にしわを描いた。
母は怒って破いた。
「私にこんなしわはない!」
それは金賞を貰った絵だったが。
父は母を「鼻ぺちゃ」といつもからかっていた。
誰も母を美人と言わないのに母は何故自分を美人と思うのか不思議だ。
姉は母によく似ている。
白い肌。
大きな目。
そして低い鼻。
姉に似ていると言われると母は露骨に嫌な顔をした。
あれが姉の性格に影を落としたのだろうと思う。
姉は母にいつもブスだと言われていたから。
「私と結婚したい男が沢山いるのよ」
母は嬉しそうに話す。
ろくにお尻もふけないのに何を考えているんだろう。
自分の姿を鏡で見ないのかと私は思った。
そんな私に母は言う。
「お前背中が丸くなっているよ」
長兄が母の背中が丸いと言ったら怒り狂ったのに。
私には平気で言う。
この頃、顔が母に似てきた。
父に似ていると思っていたのにちょっと気が重い。
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昨日、施設を移った。
8畳、個室 洗面所 トイレ付き。
最初案内された2階では無く、1階だ。
窓ではなく、引き戸の吐き出し口がある。
前に比べると格段に明るい。
「お父さんはどこに寝るの!」
母は部屋に入るとすぐ怒鳴った。
「お前は家を買うと言ったのに何でここに連れて来たの!」
「青い家はどこに有るの!」
母はさらに声を大きくした。
「そのうちお父さんは来るでしょ」
私は仕方なく答えた。
「お前がお父さんにぷんぷんするからお父さんは来ないんだ」
「もっと優しく出来ないのかね」
母は攻撃を止めない。
今日の母はもっとすさまじかった。
ホールで大声で天井に向かって話しかけていた。
「あんた、早く来なさいよ!」
父に話しているらしかった。
わめいている母を部屋に連れ帰ると男性の職員が来た。
母は笑顔になる。
「この人マー坊の友達なの」
次兄の友達だと言う。
次兄の子よりも明らかに若い職員なのに。
職員は逆らわずに笑っていた。
母は昨夜は騒ぎもしないで静かに過ごしたらしい。
「マー坊はね、あの人と同じ所に住んでいるんだよ」
母は次々に次兄の話をする。
次兄が警視総監だとか、気象予報士だとか。
次兄が組長だとか。
「マー坊に頼めばみんなうまくやってくれるよ」
母は兄の話を止めない。
「そんなに兄さんがいいなら兄さんの所に行けば!」
私も我慢の限界だ。
「お前は子供が可愛くないのか!」
母は怒鳴る。
「自分の子だよ」
「会いたいのは当たり前だ!」
「じゃ姉さんにも会えば?」
「兄さんも姉さんも同じ穴のむじなだよ」
「いや、マー坊は違う」
「あれは嫁が悪い」
母は姉は許さないが兄には会いたくて仕方ない。
それにしても母はもうすぐ96歳。
この大声。
このおしゃべり。
並みじゃない。
あまりの大声に職員が様子を見に来た。
母は品よく笑った。
「娘とちょっと話が弾んで」
別人のようなみごとな笑顔だった。
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昨日はホームに行かなかった。
それでもおとといは母は喜んでいた。
私は明るい気持ちで今日ホームに行った。
「家を買ったんだよね」
母は顔を見ると唐突に言う。
「ほらほら黒田のあそこの所に溝があってさ」
「道がこうなった所」
いつもの様に中指と人差し指を重ねる。
この前は私の言う事が理解できたのに今日は又逆戻りだ。
「家のお金は私のお金を使っていいよ」
また、いつもの繰り返しだ。
「家は買わないよ」
「家がそんなに沢山有ってどうするの?」
私はどう母に言えばいいか分からない。
「だってお前は家を買ったって言ったじゃないか!」
母はおとといとは違う。
「言わないよ。引越しをするって言ったんだよ」
やはりホームを変えるのは無理なのだろうか?
このホームから出られるとあんなに喜んでいたのに。
「だって、ここは広くして貰えるのよ」
「あそこに階段を作って2階も使っていいと言われているんだよ」
「それにお父さんが帰って来たのに逃げるように他には行けないよ」
「ここに置かしてもらうよ」
認知症の言う事はそのまま受け入れろと言う。
しかしこれをどう受け入れればいいのか。
受け入れるならここに居るしかない。
しかし母の代わりの入所者はどうなるだろう。
又、母の受け入れ態勢を整えている向こうのホームは。
「どげんしたらよか?」
母は泣きそうな顔で聞く。
泣きたいのは私だ、
ここに居れば毎日愚痴ばかり。
そして妄想の繰り返し。
「お父さんは死んだのよ」
「墓があるでしょう?」
私の言葉に母は答える。
「墓はもういらん」
「お父さんは生きているけん」
「マー坊(次兄)にやって!」
墓を建てるのにどんなに私が苦労したか母は思いやろうともしない。
認知症の母を納得させるのは至難の技だ。
私はほとほと疲れ果ててホームを後にした。
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庭のバラ
母がショートステイでホームに入って4年が経った。
なかなか正式入所にはならない。
今のショートステイは若い職員だけ。
入所者に話しかけたりはしない。
これではみんな認知症になるだろう。
母はいつも職員の悪口ばかり。
聞く私も気が狂いそうだ。
何も私には出来ないのだ。
言っても無駄の繰り返し。
そんな折、信じられない幸運がやって来た。
申し込んでいた他のホームの順番が来たのだ。
なんと400人待ちだったのに。
個室でトイレ、ベランダ付き。
正式入所なので費用も1万円ほど安くなる。
それでも慣れている方が母にはいいだろうかと言う迷いも有った。
ケアマネに相談した。
「しばらくは混乱するでしょうが、移った方がいいでしょう」
母の現状を知っているケアマネの返事だった。
今のホームに退所を申し出た。
母に近いうちに引っ越すと告げた。
「引っ越せるの?」
母は大喜びだった。
「お父さんも一緒に暮らしていい?」
母は聞いた。
「内緒でお父さんも暮らすといいよ」
そう答えると母は顔が明るくなった。
「畑が有って花が咲いてこの場所は好きなんだけどね」
「職員が胸をどんと突くんだよ」
「壊れるよ、って抗議するけどね」
「良かった、良かった」
母の久しぶりの笑顔だった。
「私は幸運だね」
「誰が守ってくれているんだろう」
そう、母は施設選びでは幸運だったかも知れない。
個室に入れるのはなかなか難しい事なのだ。
最初から個室なのは幸運だった。
4人部屋ならきっともっと辛い思いをしただろう。
「お父さんが守ってくれているよ」
私が答えると母はさらに笑顔になった。
本当の所、今よりいいと断定は出来ない。
それでも、今度はテレビも持ち込めるし、ある程度の自由もある。
「95歳になってショートじゃ気の毒ですよ」
今度入る施設の相談員は言った。
今いる施設はそんな思いやりが無かった。
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